Обложка 霊素の果て 第一巻 零階

霊素の果て 第一巻 零階

Anri1234

0% прочитано
Стандартный
Anri1234

霊素の果て 第一巻 零階

序章 数えられぬ者

すべて語りうるものは、内側から語られる。

――第零律

◇ ◆ ◇

一

七月の初め、ひどく蒸し暑い夕暮れのことだった。

影蓮は、谷中の坂の途中にある古い下宿の三階――いや、屋根裏と呼んだほうが正しい、天井の低い四畳半から、まるで何かを決めかねている者のように、ゆっくりと外へ出た。

階段を下りるあいだに、彼は二度立ち止まった。一度目は、二階の廊下の奥から大家の咳が聞こえたとき。二度目は、自分がなぜ立ち止まったのかを考えはじめたときだった。

家賃が三か月分、溜まっていた。大した額ではない。だがそれは額の問題ではなかった。大家の雁木トメと顔を合わせるたび、あの小さな濁った目が、彼を――彼という人間ではなく、彼の滞納を――秤にかけるように見る。それが蓮には耐えがたかった。

いや、正確に言えば、耐えがたいと感じることさえ、この頃はもうほとんどなかった。それこそが問題なのだと、蓮は薄々分かっていた。

蓮には、生まれつき、ものが少しだけ余分に見えた。

人が立っている。その足もとの影ではなく、その人が「在ること」にしがみついている、手のようなものが見えるのだ。細い糸のこともあれば、錆びた鎖のこともある。赤ん坊のそれは驚くほど太く、死にかけた老人のそれは驚くほど細い。そして誰のものも決まって、見えない上のほうへ、どこまでも伸びていた。

幼い蓮の話を聞いた医者は「共感覚の一種でしょう」と言った。母は泣いた。父は何も言わず、翌年いなくなった。

蓮自身は、それを何とも呼ばなかった。名をつければ、それは自分のものになってしまう。そんな気がしたからだ。

ただ、ずっと後になって、ある男がそれを縁糸と呼ぶのを聞くことになる。人が在ることにすがる、その糸。

二

半年前、蓮は大学の同人誌に、短い論文をひとつ載せた。題は「零について」。誰も読まなかったと、彼は思っていた。

要旨はこうだ。

――世界は、上へ行くほど、下にあるものを零と数える。三次元に生きる我々にとって、紙に引かれた線の厚みは零である。紙の上の住人がどれほど泣き叫ぼうと、我々にとってそれは、厚みを持たない出来事にすぎない。ならば、我々よりも上に立つ何かにとって、我々の涙もまた、厚みを持たないのではないか。

ここまでは、どこかの哲学者がとっくに言っていそうなことだった。蓮の論の芯は、その先にあった。

――もし、下にあるものを零と数える「権利」が、上に立つということそれ自体に含まれているのなら。上に立つ者は、下の者を数えないことを、許されているのではないか。いや、許されているどころか、それこそが「上に立つ」ということの定義なのではないか。

人は二種類に分かれる。数える者と、数えられる者とに。

書いたときは、ただの思考の遊戯のつもりだった。

だが今、夕暮れの坂を下りながら、蓮ははっきりと分かっていた。あれは遊戯ではなかった。自分はあの論文を、自分ひとりのために書いたのだ。自分の目にだけ見える、あの糸のために。

そして、もうひとつ。彼は糸を、見るだけではなかった。

三日前の夜のことだ。下宿の前で、車に轢かれた猫が死にかけていた。蓮はしゃがみこみ、震えるその小さな糸を見た。細く、ほとんど透きとおって、それでも上へ、上へとしがみついている糸。

指ではない何かで、彼はそれに触れた。

胸の奥で、何かが軋んだ。生まれたときからそこにあった、細い罅のようなものが、かすかに開く感触があった。

糸は、切れた。

猫は死ななかった。ただ、次の朝、同じ場所で丸くなっているその猫の上を、郵便配達の自転車が、まるでそこに何もないかのように、まっすぐに通り過ぎていった。車輪は猫の体を通り抜けたのではない。ただ、猫のいる場所を「数えずに」通ったのだ。

それを見たのは、蓮だけだった。

三

坂の下の酒屋で、彼は安い焼酎を一本買い、半分ほどを公園のベンチで飲んだ。酔いはしなかった。酔えないことに、少し腹が立った。

日が落ち、蚊が出た。

蓮は立ち上がり、坂を上りはじめた。帰り道の足は、行きよりもずっとまっすぐだった。

下宿の一階、帳場を兼ねた六畳間には、まだ明かりがついていた。

障子の向こうで、小さな影が算盤を弾いている。トメは七十を過ぎていたが、数字のことになると、指だけが二十歳の娘のように速く動いた。

「影さん」

声をかけるより先に、名を呼ばれた。障子が細く開き、濁った目がのぞく。

「三か月ですよ。今月の末までに払えないんでしたら、出ていってもらいますからね。こっちも慈善でやってるんじゃないんだから」

「……分かっています」

「分かってる人が溜めるもんですか。あんたのお母さんから預かった時計だって、とっくに流してもいいんですよ」

蓮は、トメの糸を見た。

それは、老人のものにしては奇妙に太かった。黒ずみ、油じみて、ところどころ結び目だらけで、それでも驚くほどの力で、上へ、上へとしがみついていた。金に、帳面に、この古い家に、そして――

そして、奥の台所から聞こえる、茶碗を洗う音に。

「小夜! お茶はまだかい。まったく、あの子は愚図で」

台所の音が一瞬止まり、すみません、と小さな声が返った。トメの姪の小夜だ。十九になるが、学校にも行かせてもらえず、この家で一日じゅう叔母の用を足している。蓮が夕飯を抜いた日に、黙って握り飯を部屋の前に置いていくのは、いつも彼女だった。

「あの子もね、私がいなけりゃ一日だって生きていけやしないんですよ」

トメはそう言って、ふん、と笑った。

その瞬間、蓮には見えた。トメの糸の、いちばん太い結び目。それは金ではなかった。帳面でもなかった。それは、小夜だった。小夜を自分のものとして握りしめていること、それがこの老婆をこの世に繋ぎとめている、最も強い力だった。

――数える者と、数えられる者。

蓮は、自分の論文の一行を思い出していた。いや、思い出したのではない。それは初めから、ずっと頭の中で鳴りつづけていたのだ。

この老婆は、小夜を数えている。自分の持ち物として。帳面の一行として。ならば。

ならば、この老婆より上に立つ者は、この老婆を数えないことを、許されているのではないか。

それを確かめなければならない、と蓮は思った。確かめなければ、自分が何者なのか、一生分からないまま終わる。数える者なのか。それとも、ただ糸が見えるだけの、震える何かなのか。

胸の罅が、開いた。

指ではない何かが、障子の隙間を越え、老婆の黒い糸の、あの結び目に触れた。

ひどく、重かった。猫のときとは比べものにならない。七十年分の執着が、糸を鋼のように張りつめさせていた。罅の奥で、自分の何かが軋み、削れていくのが分かった。

それでも蓮は、手を離さなかった。

ぷつり、と。

音はしなかった。

四

トメは、死ななかった。

算盤を持ったまま、彼女は二度、まばたきをした。そして、ゆっくりと蓮を見た。その目には、怒りも恐怖もなかった。ただ、何かを思い出せない人のような、ぼんやりとした戸惑いがあった。

「……影さん?」

そのとき、台所から小夜が盆を持って入ってきた。

湯気の立つ茶碗が、ひとつ。

小夜は、帳場の真ん中に座っているトメの、ちょうど目の前に立った。そして、あたりを見回して、首をかしげた。

「あれ……影さん。叔母さん、どこへ行ったか知りませんか。今、呼ばれたと思ったんですけど」

トメの顔が、小夜を見上げていた。

「小夜。何を言ってるんだい。私はここに――」

小夜は、盆をトメの膝の上に置こうとした。盆は、トメの体を通り抜けはしなかった。ただ、その置かれた場所が、最初からトメの膝などではなかったかのように、何の抵抗もなく、畳の上に落ち着いた。

茶碗の湯気が、老婆の顔の前で、まっすぐに立ちのぼっていた。

「おかしいな……」と小夜は呟いた。「お茶、ふたつ淹れたような気がしたのに」

蓮は、何も言わずに階段を上った。

自分の部屋に戻り、戸を閉め、畳の上に座りこんだ。

体が、震えはじめた。熱が出ていた。それは三日続いた。

熱にうかされているあいだ、蓮は何度も目を覚ました。そのたびに、部屋の隅に、小さな老婆が正座しているのが見えた。

トメは怒っていなかった。責めもしなかった。ただ、借りてきた猫のように小さく座って、時おり、ひとりごとのように呟いた。

「影さん。……私は、何を払えばいいんですかね」

蓮は答えられなかった。

四日目の朝、熱が引いた。

窓の下では、小夜が打ち水をしていた。彼女は元気そうだった。いや、元気そうに見えた。昨日までより少しだけ背筋が伸び、声を張って近所の人と挨拶を交わしていた。叔母がいなくなったことを、誰も不思議に思っていなかった。帳場は小夜が継ぎ、町内会の回覧板には、最初から小夜の名が書かれていた。

雁木トメという人間は、どこにも、誰の数にも、入っていなかった。

ただ、夕方になると、小夜は台所で茶碗をふたつ並べ、しばらくそれを見つめてから、ひとつを棚に戻す。そして理由も分からないまま、少しだけ泣く。蓮は、階段の上からそれを見ていた。

彼は、自分が何を得たのかを確かめようとした。

上に立った実感。数える者になった確信。老婆を零にした、その権利の手ごたえ。

何もなかった。

代わりに、胸の罅の奥で、何かが決定的に減っていた。自分の糸を見ようとすると、それは以前よりもわずかに細く、そして、どこかが透きとおっていた。

自分は権利を得たのではない、と蓮は思った。

自分は、どこにも無いものを、盗んだのだ。

そして、世界じゅうでたったひとり、彼だけが、数えられなくなった老婆を、今も数えつづけている。

五

その夜、下宿の前の街灯の下に、白い服の青年が立っていた。

蓮と同じくらいの年に見えた。夏だというのに、染みひとつない白い上着を着て、手には一冊の薄い冊子を持っていた。大学の同人誌だった。

「『零について』」と青年は言った。穏やかな、よく通る声だった。「読みましたよ、影蓮くん。この街で、あれを本気で読んだのは、たぶん僕だけでしょう」

青年の糸を、蓮は見ようとした。

見えなかった。

そこに糸がなかったのではない。糸の在るべき場所に、何かがきれいに、答えのように、埋められていた。

「君は答えを出そうとした。とても惜しかった」青年は微笑んだ。「でも、君はまだ、ひとつ間違えている。零にするのは、他人ではないんです」

青年は冊子を閉じ、蓮に差し出した。

「僕は白解。君のような人を、僕らは『ほとんど解けた人』と呼んでいます。――また来ますよ。君の罅が、もう少し開いた頃に」

青年が去ったあと、蓮は冊子の最後の頁に、自分のものではない筆跡で一行、書き加えられているのに気づいた。

――名ヲ持タヌ御方は、何ひとつ数えない。ゆえに、我らが代わりに、すべてを解く。

遠い昔、祖母が話してくれた昔話の中に、その名はあった。世界をこしらえたのに、自分には名前をつけなかった誰か。どんな名で呼んでも、その呼び声は、決して向こう岸には届かない誰か。

蓮は冊子を握りしめたまま、街灯の下に長いあいだ立っていた。

部屋の窓から、小さな老婆が、じっと彼を見下ろしていた。

◇ (序章 了) ◇

第一章 二つ目の茶碗

◇ ◆ ◇

一

あの夜から、七日が過ぎた。

七日という数を、蓮は正確に数えていた。数えずにはいられなかった。朝、屋根裏の低い天井の木目に最初の光が射すたびに、彼は胸の中でひとつ、指を折った。一日。二日。三日。まるでその数が、自分がまだ何かを数える側に立っているという、唯一の証しであるかのように。

そして七つ目の朝も、部屋の隅には、あの小さな老婆が座っていた。

トメは、夜のあいだに消えてはいなかった。熱の引いた四日目の朝から、彼女は一度も消えたことがなかった。眠っているのか起きているのか、蓮には分からない。ただ、彼が目を開けると、彼女はいつも同じ場所に、同じように正座し、両手を膝の上で重ね、濁った目を少し伏せて、畳の縁のあたりを見ていた。

責める目ではなかった。それが、何より蓮をこたえさせた。

責めてくれればいい、と彼は幾度となく思った。怒鳴り、罵り、家賃の催促をするように、あの小さな指で算盤を弾くように、自分の罪をひとつひとつ数え上げてくれればいい。そうすれば自分は、少なくとも数えられる側に戻れる。罪人として、帳面の一行として、どこかに書き込まれることができる。

だがトメは何も言わなかった。三日の熱のあいだに、ほんの幾度か呟いた言葉を最後に、彼女は口をつぐんでしまった。口をつぐんだ、というのも正しくないかもしれない。言うべき言葉を、言う相手を、もう持っていない人のように、ただ静かだった。

蓮は布団を畳み、顔を洗うために階段を下りた。

きしむ段を一段下りるごとに、背後で、もうひとつの気配が一段下りる。足音はしない。トメの足袋は、この古い家の板を鳴らさない。鳴らさないのではなく、板のほうが、そこに何かが載っていることを数えないのだ。蓮はそれを知っていた。知っていて、振り返らなかった。

振り返れば、そこにいることを確かめてしまう。確かめなくても、いることは分かっている。その二つのあいだに、どれほどの違いがあるのか、蓮には分からなかった。分からないまま、彼は毎朝、振り返らないことを選んでいた。

一階の帳場の障子は、もう開いていた。

小夜が、帳場の文机の前に座っていた。七十年近く叔母が座りつづけて、座布団の綿がすっかり片寄ってしまったその場所に、十九の娘が、少し背を丸めて座り、算盤に指を置いていた。

玉を弾く音は、トメのそれとはまるで違っていた。トメの算盤は、雨垂れのように途切れなく鳴った。小夜の算盤は、一つ弾いては止まり、帳面を覗き込み、また一つ弾く。数字に問いかけるような、ためらいがちな音だった。

「あ、影さん。おはようございます」

小夜は顔を上げて、笑った。

その笑顔が、一週間前よりもわずかに明るいことに、蓮は気づいていた。気づかずにはいられなかった。叔母に「愚図」と呼ばれなくなった娘の顔。朝から晩まで名を呼びつけられなくなった娘の肩。その軽さが、蓮には、刃物のように見えた。

なぜなら、その軽さは、自分が作ったものだからだ。

「……おはよう」

「お味噌汁、温めてありますから。あとで持っていきますね」

小夜はそう言って、また帳面に目を落とした。そして、ふと眉を寄せた。

「影さん。変なこと訊いてもいいですか」

蓮の心臓が、ひとつ、打つのを忘れた。

「この帳面、ときどき、知らない字があるんです」

彼女は開いた頁を指でなぞった。古い帳面の罫線の上に、細く、角張った、神経質な数字が並んでいる。トメの字だった。蓮は、三か月分の滞納の通知で、その字を嫌というほど見ていた。

「私、ずっとここで帳場をやってきたはずなのに。この字だけ、誰のか分からなくて。でも、数字はちゃんと合ってるんです。一銭も間違ってない。……私が書いたのかな。疲れてたときとか」

小夜は首をかしげ、困ったように笑った。

蓮は、帳場の隅を見なかった。見なくても分かった。トメがそこに、いつの間にか座っていることが。自分の字を、自分の姪が「知らない字」と呼ぶのを、黙って聞いていることが。

「……疲れてたんだろう」

と蓮は言った。自分の声が、ひどく遠くで鳴ったような気がした。

「そうですよね」

小夜はほっとしたように頷き、それから、思い出したように付け加えた。

「あ、それと、影さんのお家賃のことなんですけど。帳面だと三か月分、ってなってるんですけど、私、そんなに催促した覚えがなくて。だから、急がなくていいですから。……本当に、いつでも」

蓮は答えられなかった。

ありがとう、と言うべきだった。だがその言葉は、喉のどこかで引っかかって、出てこなかった。この娘に礼を言う資格が、自分のどこにあるのか。三か月分の家賃を「急がなくていい」と言われる、その寛大さの底に、自分が引きちぎった糸が横たわっているのに。

二

蓮は、以前と同じように暮らそうとした。

それが唯一の方法だと思えたからだ。何も変わっていないように振る舞えば、何も変わっていないことになる。人は、自分がそう振る舞う通りのものになる。そういう理屈を、彼はどこかで読んだ気がした。読んだのではなく、自分で拵えたのかもしれなかった。

だから彼は、以前と同じように、日暮里の駅まで坂を下り、以前と同じように、聴講生の身分で潜り込んでいる大学の、以前と同じ階段教室の、いちばん後ろの席に座った。

講義は、近世の認識論だった。老教授が黒板に、ゆっくりと、ひとつの名を書いた。蓮はノートを開いた。鉛筆を握った。

何も書けなかった。

教授の声は、確かに聞こえていた。言葉の意味も、ひとつひとつは理解できた。だがそれらは、蓮の中のどこにも引っかからずに、するすると通り過ぎていった。まるで自分の頭が、言葉を「数えずに」通しているかのように。

隣の席には、ひとつ空けて、トメが座っていた。

蓮は、そちらを見なかった。見なかったが、彼女が、若い学生たちのあいだに、場違いな黒っぽい着物で、背筋を伸ばして座っているのは分かった。誰も彼女を見なかった。遅れて入ってきた男子学生が、その席に鞄を置こうとして、なぜか手を止め、ひとつ隣に置いた。自分がなぜそうしたのかも分からないまま。

数えられない者は、消えるのではない。蓮はそれを、この一週間で、嫌というほど学んでいた。彼らは、世界のなかに、空席として残る。誰も座らない席。誰も置かない鞄。誰も踏まない床板。世界は、そこを避けて流れる。避けていることさえ知らずに。

講義のあと、蓮は図書館へ行った。

以前なら、閉館まで居座る場所だった。書庫の奥、誰も借りない古い哲学の全集が並ぶ棚の前で、床に座りこんで頁を繰る。それが、彼の知っている、ほとんど唯一の安らぎだった。

その日、彼は一冊の本を棚から抜き、閲覧机に置いて、手洗いに立った。

戻ってくると、本の上に、別の学生の分厚い辞書が載っていた。辞書の持ち主の女子学生は、蓮の本の真上に辞書を開いたまま、何事もないようにノートを取っていた。

「あの……それ、僕の」

声をかけると、女子学生は顔を上げ、きょとんとした。

「え?」

「その、下の本」

彼女は辞書を持ち上げた。下に、蓮の本があった。彼女は目を丸くした。

「ごめんなさい。……え、なんで。何もないと思ったんですけど」

本当に、何もないと思ったのだ。蓮には分かった。彼女は嘘をついていなかった。

蓮は礼を言い、本を抱えて図書館を出た。胸の奥で、罅が、かすかに疼いていた。

最初は偶然だと思おうとした。だが、偶然は、この一週間で、もう何度目になるだろう。

下宿の廊下に置いた下駄が、隣室の男に三度蹴飛ばされた。男は三度とも、蹴ったことに気づかなかった。坂の途中の煙草屋で、釣り銭を受け取ろうと差し出した掌を、店の婆さんは一瞬見失い、硬貨を台の上に置いた。蓮が脱いで椅子の背にかけた上着の上に、喫茶店の客が平然と腰を下ろした。

人ではない。蓮自身は、まだ見えている。名を呼ばれ、挨拶を返され、家賃を催促され――いや、催促されなくなった。見えているのは、彼の顔と、声と、体だった。

見えなくなりつつあるのは、彼のまわりの、物のほうだった。

彼の手を離れた物。彼の触れた物。彼がほんの少しのあいだ、自分のものとして持っていた物。それらが、ほんの一瞬、世界の数から、こぼれ落ちる。

なぜなのか、蓮には分からなかった。分からなかったが、見当はついていた。

罅だ。

あの夜、老婆の糸を切ったとき、胸の奥の罅は、もう一度開いた。そして、閉じなかった。閉じきらないその隙間から、何かが、ごく僅かに、滲み出している。自分が他人から奪ったものが、今度は、自分のまわりから、少しずつ漏れていく。

――まるで、借りを返せと言われているように。

いや、と蓮は首を振った。そんなふうに考えてはいけない。それは、罰という考え方だ。罰を考えるということは、罪を認めるということだ。罪を認めるということは、あの論文が、誤りだったと認めることだ。

それだけは、まだ、できなかった。

三

日暮里の駅の階段を上り、跨線橋を渡って、谷中の側へ下りる。

夕方の墓地は、蝉の声で満ちていた。石の塀の上で、灰色の猫が一匹、腹を見せて寝そべっていた。蓮は思わず足を止め、その猫を見た。

違う猫だった。あの猫ではない。糸は太く、健やかで、夕陽のほうへ、上へ上へと伸びていた。

蓮は、自分があの猫を探していることに気づいた。三日前――いや、もう十日前になる――糸を切った、あの小さな猫。あれ以来、彼は一度も、あの猫を見ていなかった。見ようとしなかった、と言ったほうが正しい。下宿の前を通るたびに、彼は目を伏せた。そこに丸くなっているかもしれない、誰にも数えられない小さな塊を、見てしまうのが怖かった。

トメは、三歩後ろを歩いていた。

墓地の細い道を、彼女はゆっくりと、しかし決して遅れずについてきた。石畳の継ぎ目で、彼女の草履がつまずくことはなかった。つまずく、ということさえ、彼女にはもう許されていないのかもしれなかった。

谷中銀座の石段の下で、蓮は、おはぎ屋の前を通りかかった。

「あら、屋根裏の学生さん」

店先で、おかみが声をかけてきた。丸い顔の、よく笑う女だった。トメとは古い知り合いで、昔は二人でよく、店先の縁台に並んで座り、誰それの嫁がどうの、誰それの借金がどうのと、半日も話し込んでいた。

「たまには甘いものでもどう。顔色、悪いわよ」

蓮は、おかみの顔を見た。そして、自分の後ろに立っている、小さな老婆を感じた。

おかみの目は、トメの上を、何の引っかかりもなく滑っていった。数十年来の友の顔を、彼女は、夕暮れの路地の、ただの空気として見ていた。

「……ひとつ、ください」

蓮は言った。なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。

おかみは愛想よく、竹の皮におはぎをひとつ包んで、差し出した。蓮が銭を出し、包みを受け取ろうと手を伸ばしたとき、おかみの手が、ほんの一瞬、迷った。包みをどこに渡せばいいのか分からない、というように。

それから、彼女は笑った。

「あらやだ、私ったら。ぼうっとしちゃって。はい、どうぞ」

包みが、蓮の手に落ちた。温かくも冷たくもない、竹の皮の感触。

「そういえばねえ」とおかみは、何でもないことのように言った。「最近、この縁台、なんだか広く感じるのよ。ひとりで座ってると。変よね。昔から、ひとりで座ってたはずなのに」

蓮は頭を下げ、その場を離れた。

石段を上りながら、彼は、おはぎの包みを握りしめていた。握りしめすぎて、竹の皮が、掌の中で小さく鳴った。

――変よね。昔から、ひとりで座ってたはずなのに。

人は、忘れるのではない。蓮はそれを、今、はっきりと理解した。彼らは忘れたのではない。忘れるためには、一度は覚えていなければならない。だが、トメは、最初から、誰の数にも入っていなかったことになっている。記憶の中に、穴があるのではない。記憶そのものが、穴のない形に、きれいに作り直されている。

それでも、何かが残っている。

広すぎる縁台。知らない筆跡の、一銭も間違っていない数字。ふたつ淹れたような気がする、茶。

世界は、トメを数えることをやめた。だが、世界の形は、トメの形の空席を、まだ覚えている。

そのことが、蓮には、どうしようもなく恐ろしかった。そして、ほんの僅かに、救いのようにも思えた。救いだと思ってしまう自分が、また恐ろしかった。

坂の上で、彼は立ち止まり、振り返った。

この一週間で、初めてのことだった。

トメは、三歩後ろで、足を止めていた。夕陽が、彼女の背後から射していた。その光は、彼女の体を通り抜けはしなかった。ただ、彼女の足もとに、影を落とさなかった。

蓮は、握りしめていたおはぎの包みを、彼女のほうへ、ほんの少しだけ差し出した。

トメは、それを見た。濁った目が、ゆっくりと包みから蓮の顔へ上がってきた。

そして彼女は、首を横に振りもせず、頷きもせず、ただ、じっと彼を見つめていた。

蓮は、手を下ろした。

馬鹿なことをした、と彼は思った。数えられない者に、何を渡せるというのか。渡したところで、それは、受け取られたことにさえならない。おかみの手が一瞬迷ったように、世界は、その受け渡しを、最初から数えないだろう。

それでも、差し出したかった。

なぜ差し出したかったのか。それを考えはじめると、底が抜けそうになった。蓮は考えるのをやめ、また、坂を上りはじめた。背後で、足音のない足音が、三歩の距離を保ったまま、ついてきた。

四

下宿に戻ると、台所から、湯の沸く音がしていた。

蓮は階段を上ろうとして、足を止めた。台所の暖簾の隙間から、小夜の背中が見えた。彼女は盆の上に、茶碗を並べていた。

ひとつ。

ふたつ。

小夜は、ふたつ目の茶碗を持ったまま、動かなくなった。一週間前から、毎晩、蓮が階段の上から見てきた光景だった。彼女はしばらくそれを見つめ、それから、棚に戻す。そして、理由も分からないまま、少しだけ泣く。

だがその夜、小夜は、茶碗を棚に戻さなかった。

彼女は、ふたつの茶碗に茶を注いだ。そして盆を持ったまま振り返り、暖簾の前に立ちつくしている蓮と、目が合った。

「あ……」

小夜は、少し赤くなった。泣いていたのかどうか、蓮には分からなかった。彼女は、泣いたあとの人が、それを隠そうとするときの、少し早口な声で言った。

「影さん。よかったら、お茶、飲んでいきませんか。……また、ふたつ淹れちゃったんです。私、最近、どうかしてて」

断るべきだった。

蓮はそれを、はっきりと分かっていた。この娘と差し向かいで、湯気の立つ茶を飲む。その資格は自分にはない。その茶碗は、自分のためのものではない。

だが、断る言葉を探しているあいだに、小夜はもう、帳場の文机の脇に盆を置き、座布団をひとつ、自分の向かいに敷いていた。

その座布団の位置を見て、蓮は息を止めた。

それは、トメがいつも座っていた場所だった。帳場の真ん中、算盤と帳面の正面。小夜は、自分がそこに座布団を敷いたことに、何の意味も見ていなかった。ただ、手が、そこへ敷いたのだ。何十年も繰り返してきた、茶を運ぶ娘の手が。

「どうぞ」

蓮は、座った。

座った瞬間、背中に、冷たいものが走った。

トメが、部屋の隅にいた。いつもの正座で、両手を膝に重ねて。彼女は、自分の場所に座った下宿人を、じっと見ていた。怒りもなく、恨みもなく。ただ、そこが自分の場所だったことを、ぼんやりと思い出そうとしている人のように。

蓮の前に、茶碗が置かれた。

二つ目の茶碗だった。

白地に、藍で小さな雁が一羽描かれている。縁が一か所、ほんの僅かに欠けていた。安物だが、長く使い込まれて、釉が手の脂でやわらかく光っていた。

雁木の、雁だ。

蓮は、茶碗に手を伸ばせなかった。

「変ですよね」

小夜は、自分の茶碗を両手で包み、湯気の向こうで、ぽつりと言った。

「毎晩、ふたつ出しちゃうんです。お客さんが来るわけでもないのに。この家、ずっと私ひとりだったはずなのに。でも、手が勝手に、ふたつ出すんです。それで、ふたつ並んでるのを見ると、なんだか……」

彼女は言葉を探すように、茶碗の縁を指でなぞった。

「なんだか、誰かに叱られたい気がするんです。お茶が遅い、とか。愚図だ、とか。変でしょう。誰にもそんなこと、言われたことないのに」

蓮は、目を上げられなかった。

湯気が、ふたりのあいだで、まっすぐに立ちのぼっていた。

「影さんは」と小夜は続けた。「ご家族、いらっしゃるんですか」

「……母が。仙台に」

「いいなあ」

小夜は、本当に羨ましそうに言った。

「私、両親の顔、覚えてないんです。小さいときに、ここへ来たらしいんですけど。誰に連れられてきたのか、誰が育ててくれたのか、よく思い出せなくて。自分で大きくなったみたいな気がして。……そんなわけ、ないのに」

蓮の指が、膝の上で、白くなるほど握りしめられていた。

そんなわけ、ないのに。

この娘を育てたのは、あの老婆だった。吝嗇で、口汚く、娘を学校にも行かせず、一日じゅう名を呼びつけ、自分の持ち物のように握りしめていた、あの老婆だった。蓮はそれを、糸の結び目として、この目で見た。いちばん太い結び目。それは、小夜だった。

そして自分は、その結び目を、切った。

老婆を零にしたのではない。蓮は今、ようやく、それを理解しはじめていた。自分は、この娘の十九年のなかから、それを握りしめていた手を、まるごと抜き取ったのだ。抜き取られた手の形の空白を抱えて、この娘は、自分で大きくなったような気がしながら、毎晩、茶碗をふたつ並べる。

叱られたい、と思いながら。

「……影さん?」

小夜が、心配そうに覗き込んでいた。

「お茶、冷めちゃいますよ」

蓮は、雁の茶碗を、両手で持ち上げた。

温かかった。

それが、耐えられなかった。茶は、ちゃんと温かかった。二つ目の茶碗は、ちゃんとそこにあり、ちゃんと注がれ、ちゃんと湯気を立てていた。世界は、この茶碗を数えていた。数えていないのは、その茶碗を飲むはずだった人だけだった。

蓮は、茶碗を口もとまで運んだ。

そして、飲めなかった。

唇が、縁の欠けたところに触れた。何十年も、同じ唇が触れてきたであろう、その欠け。蓮は、それ以上、茶碗を傾けることができなかった。

部屋の隅で、トメが、わずかに身じろぎしたような気がした。

蓮は、茶碗を盆の上に戻した。一滴も減っていなかった。

「……すまない。少し、気分が」

「あ、いえ。無理しないでください。顔色、本当に悪いですよ」

小夜は、少しも気を悪くした様子を見せなかった。彼女は、蓮の前から二つ目の茶碗を引き寄せ、自分の茶碗の隣に並べた。ふたつの茶碗が、盆の上で、湯気を立てていた。

「これ、明日の朝、お仏壇にでもあげようかな」

小夜は、冗談めかして言った。

「うち、お仏壇ないんですけどね」

そして、少しだけ笑った。

五

屋根裏に戻り、蓮は、灯りをつけずに、畳の上に座った。

窓の外で、谷中の夜が、ゆっくりと深くなっていった。遠くで、電車の音がした。墓地のほうで、猫が一声、鳴いた。

蓮は、目を閉じ、自分の糸を見ようとした。

それは、この一週間で、何度も繰り返してきたことだった。自分の胸の奥から、見えない上のほうへ伸びている、細い糸。生まれたときから罅の入った、奇妙な糸。他人の糸を見るように、自分の糸を見ることは難しかった。目で目を見ようとするようなものだった。それでも、罅の縁に意識を寄せると、ぼんやりと、その輪郭が感じられた。

細くなっていた。

一週間前よりも、また少し。そして、あの透きとおった箇所が、ほんの僅かに広がっていた。まるで、糸のその部分だけが、上へしがみつくことを、少しずつやめようとしているかのように。

――これが、代償なのか。

いや、と蓮はまた首を振った。代償という言葉を使ってはいけない。代償とは、取引の言葉だ。取引があったということは、自分が何かを受け取ったということだ。だが、自分は何も受け取っていない。上に立った実感も、数える者になった確信も、何ひとつ。

受け取っていないのに、払わされている。

それを、何と呼べばいいのか。

盗み、だ。蓮は、熱が引いた朝に、そう思ったことを思い出した。自分は、どこにも無いものを、盗んだのだ。盗んだものは、手の中にはない。無いものを盗んだのだから、手の中に残るはずがない。それでも、盗んだという事実だけが、自分の糸を、少しずつ透きとおらせていく。

蓮は、文机の引き出しを開けた。

暗がりのなかで、指が、薄い冊子に触れた。大学の同人誌。あの夜、白い服の青年が差し出したもの。最後の頁に、自分のものではない筆跡で、一行が書き加えられているもの。

彼は、それを開かなかった。開かなくても、その一行は、頭の中で鳴っていた。

――名ヲ持タヌ御方は、何ひとつ数えない。ゆえに、我らが代わりに、すべてを解く。

白解、と名乗ったあの青年は、自分を「ほとんど解けた人」と呼んだ。罅が、もう少し開いた頃に、また来ると言った。

蓮は、自分の胸に手を当てた。罅は、この一週間で、確かに、ほんの少しだけ開いていた。物がこぼれ落ちる。本の上に辞書が載る。下駄が蹴飛ばされる。上着の上に人が座る。

あの青年は、それを待っているのだ。

そう思ったとき、蓮は、ぞっとするほどはっきりと、ひとつのことを理解した。自分の論文を、この世でただひとり本気で読んだ人間は、自分が零にした者のことを、少しも気にかけていない。あの青年にとって、トメは、解かれた問題の、消された途中式にすぎない。そして、あの青年の言う「間違い」――零にするのは他人ではない、という言葉――の意味を、自分はまだ知らない。

知りたくなかった。

それなのに、罅の奥の、どこか透きとおった場所が、その意味を、もう半分ほど知っているような気がした。

蓮は目を開けた。

部屋の隅に、トメがいた。

暗がりのなかで、彼女の輪郭は、灯りのないことに少しも影響されずに、昼と同じようにそこにあった。それが、数えられない者の見え方だった。光に照らされて見えるのではない。蓮の罅が、彼女を見ているのだ。この世でただひとつ、彼女を数えつづけている、その罅が。

「……トメさん」

蓮は、この一週間で初めて、その名を口に出した。

声は、ひどく掠れていた。

トメは、顔を上げた。

濁った目が、暗がりの向こうから、まっすぐに彼を見た。それは、家賃の滞納を秤にかけるあの目ではなかった。もっと古い、もっと遠い、何かを待っている人の目だった。

何を言えばいいのか、蓮には分からなかった。すみません、と言えばいいのか。それは、あまりにも小さすぎた。返します、と言えばいいのか。どうやって返せばいいのか、彼は知らなかった。

だから、蓮は、何も言わなかった。

トメも、何も言わなかった。

ふたりは、灯りのない屋根裏で、長いあいだ、互いを見つめていた。ひとりは、世界の誰にも数えられない者として。もうひとりは、世界でただひとり、その者を数えつづける者として。

夜が明ける少し前に、蓮は、浅い眠りに落ちた。

目を覚ますと、階下から、小夜の声が聞こえた。

「影さん、影さーん。お手紙ですよ」

蓮は、階段を下りた。背後で、足音のない足音が、一段ずつ、ついてきた。

帳場の前で、小夜が、一通の封筒を差し出していた。消印は、仙台だった。表書きの、少し右に傾いた、見慣れた柔らかい字。

母の字だった。

「お母様からですか。よかったですね」

小夜は、自分のことのように嬉しそうに笑った。

蓮は、封筒を受け取った。

封筒は、ちゃんと彼の手に落ちた。こぼれ落ちはしなかった。それなのに、指先が、ひどく冷たかった。

封を切る前から、蓮には、なぜか分かっていた。

母は、あの時計のことを書いてきたのだ。

この家の、帳場の奥の、あの鍵のかかった引き出しに、母が質に入れた祖父の形見の懐中時計。トメが、「とっくに流してもいいんですよ」と言った、あの時計。

そしてその時計を預かった者は、今、この世界の、誰の数にも入っていない。

部屋の隅で、トメが、帳場の奥の引き出しのほうを、じっと見ていた。

◇ (第一章 了) ◇

第二章 母

◇ ◆ ◇

一

母からの手紙は、雨の上がった朝に届いた。

郵便受けではなく、階段の三段目に置かれていた。小夜が置いたのだと、蓮にはすぐに分かった。封筒の角がきちんと揃えられ、その上に、濡れないようにと新聞紙が一枚かぶせてあった。この家でそんなことをする人間は、ひとりしかいない。以前ならもうひとり、手紙を勝手に日に透かしてから、差出人の名を大声で読みあげる人間がいた。

蓮は封筒を拾いあげた。

仙台の消印。薄い、安い和紙の封筒に、母の、少し右に傾いた几帳面な字で、宛名が書かれていた。「東京都台東区谷中 雁木方 影蓮様」。

雁木方、という三文字のところで、指が止まった。

母は、この家の主が誰なのかを知らない。知っているのは、息子が「年寄りの大家さん」のところに下宿していて、その大家さんに時計を預けたということだけだ。預けた、と蓮は手紙に書いた。質に入れた、とは書かなかった。

背後で、畳の軋む音がした。

振り返らなくても分かった。階段の下、帳場へつづく廊下の暗がりに、小さな老婆が立っている。この一週間、蓮がどこへ行っても、トメは三歩ほど後ろをついてきた。路地にも、銭湯の前にも、大学の図書館の閲覧室にも。足音はしない。ただ、畳や床板が、彼女のいる場所でだけ、ほんのわずかに遅れて軋む。蓮以外の誰も、その遅れに気づかなかった。

蓮は封筒を持ったまま、階段を上った。軋みは、三歩遅れてついてきた。

部屋に入り、戸を閉め、窓を開けた。雨のあとの谷中は、土と苔と、どこかの家で焚いている線香の匂いがした。墓地のほうから、烏が一羽、鳴いた。

封を切った。便箋が二枚と、折りたたんだ千円札が五枚、出てきた。

札は古く、柔らかかった。一枚一枚、角が丸くなっていて、母が何度も数えなおしたのだろうと思わせた。

蓮は、先に札を見てしまったことを恥じた。それから、恥じたことを恥じた。

――蓮へ。

――その後、変わりはありませんか。こちらは、梅雨がなかなか明けず、店の奥の畳がまた湿ってきました。お隣の佐藤さんが除湿機を貸してくださるそうで、ありがたいことです。

――少しですが、同封します。大家さんに預けた時計のこと、ずっと気になっていました。あれはお祖父ちゃんの形見ですから、どうか早く返していただいてください。お前がひもじい思いをしているのに、母さんは何もしてやれず、申し訳なく思っています。

――このお金は、心配しなくていいのです。少し、佐藤さんにお借りしました。すぐに返せるあてがありますから。

――ちゃんと食べていますか。お前は小さいころから、考えごとをすると食べるのを忘れる子でした。

――大家さんにも、くれぐれもよろしくお伝えください。息子がお世話になっております、と。

――母より。

蓮は、便箋を膝の上に置いた。

しばらく、何も考えなかった。いや、考えないようにしていた。けれども考えは、閉じた戸の隙間から入ってくる風のように、勝手に入ってきた。

佐藤さんにお借りしました。

母は、借りたのだ。隣家の、除湿機を貸してくれるような人から、五千円を。そして、すぐに返せるあてがある、と書いた。あてなど、ないに決まっている。母の店は、駅から遠い路地の小さな仕立て直しの店で、蓮が東京へ出てからの一年半で、客は半分に減った。蓮はそれを、母の手紙の行間から知っていた。行間にしか書かれないことを、母は決して行には書かない。

大家さんにも、くれぐれもよろしく。

蓮は、部屋の隅を見た。

トメが、正座していた。いつの間に入ってきたのか、戸は閉まったままだった。彼女は膝の上で両手を重ね、蓮の手もとの便箋を、じっと見ていた。濁った小さな目は、以前のように何かを値踏みしてはいなかった。ただ、見ていた。字の読めない子どもが、大人の読む手紙を見るように。

「……よろしく、だそうです」

蓮は、自分の声を聞いた。掠れていた。

トメは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ、重ねた手の指先が、一度だけ、畳の上で小さく動いた。算盤の珠を弾くときの、あの動きだった。

二

昼まで、蓮は部屋から出なかった。

出られなかったのではない。出る理由を、ひとつずつ検めていたのだ。

時計を取り戻しにいく。それは、当然のことだった。母がそれを望み、そのための金が、今ここにある。何ひとつ、ためらう理由はない。

それなのに、足が動かなかった。

蓮は、自分がなぜためらっているのかを、正確に知りたかった。知らずに動くことが、彼には何よりも恐ろしかった。あの夜、自分は知ったうえで動いた。少なくとも、知っていると信じて動いた。その結果が、部屋の隅で正座している。

――時計は、トメが受け取ったものだ。

蓮は、そこから考えはじめた。

あの日、蓮は祖父の懐中時計を持って帳場へ下りた。トメは、それを老眼鏡越しに長いあいだ眺め、蓋を開けて機械を覗き、竜頭を二度巻き、耳に当てて音を聞き、それから、ふん、と鼻を鳴らした。「いいもんじゃありませんね。でも、まあ、預かっておきましょう」。そして帳面を開き、細い筆で何かを書きつけ、同じことを小さな荷札にも書いて、時計の鎖に結んだ。

帳面。荷札。トメの字。

トメが数えたもの。

蓮は、自分の論文の一行を思い出した。数える者と、数えられる者。あのとき彼は、人間をふたつに分けたつもりでいた。けれども、数える者は、人間だけを数えるのではない。金を数え、品物を数え、日数を数え、利子を数える。トメの糸に結ばれていた無数の結び目、あの黒く油じみた結び目のひとつひとつは、彼女が数えていたものたちだった。

では、数える者が数えられなくなったとき、その者が数えていたものは、どうなるのか。

この一週間のことを、蓮は思い返した。

帳場の柱時計が、ある朝から誰にも巻かれなくなり、止まったまま、誰にも気づかれずにいること。小夜は、あの柱時計の前を日に何十回も通りながら、一度も顔を上げない。トメが毎朝、欠かさず巻いていた時計だった。

縁側に干してあった、トメの藍色の前掛けが、三日間、雨の日も取りこまれずにそこにあったこと。

路地の角の煙草屋の婆さんが、蓮に釣り銭を渡しながら、蓮の肩の後ろのあたりを、ちらりと、何もない壁でも見るように見たこと。そこには、トメが立っていた。

そして、小夜が夕方になると並べる、ふたつの茶碗。

物が、忘れられていくのではない。蓮は思った。忘れられているのではなく、数えられなくなっている。トメが握りしめていたものから順に、その握りしめていた指の形ごと、世界の勘定から外れていく。

ならば、時計も。

蓮は、その考えを最後まで追うことを、ほとんど恐れた。

もし時計が、もう誰の帳面にも載っていないのなら。もし小夜が、そんな質草のことを何ひとつ覚えていないのなら。そのとき、蓮は金を払わずに時計を持ち帰ることができる。母が隣家から借りた五千円を、一円も使わずに。

つまり、自分は得をするのだ。

あの夜のことで。

蓮は、畳の上で膝を抱えた。窓の外を、豆腐屋のラッパが遠ざかっていった。

得をする、という言葉が、胸の罅のあたりで、小さな石のように転がった。彼はあの夜、何かを得ようとしたのではなかった。そう信じていた。確かめようとしたのだ。自分が何者なのかを。数える者なのか、ただ糸の見える震える何かなのかを。金のためではない。時計のためではない。だからこそ、あれは――あれは、何だったのか。罪ではない、とは、彼はもう言えなかった。しかし少なくとも、卑しくはないはずだった。

それが今、五千円と、祖父の懐中時計という、あまりにも具体的な、手で触れられる形をとって、階段の下で彼を待っている。

蓮は立ちあがった。

払おう、と思った。どうしても払わなければならない。払うことだけが、あの夜を、ただの盗みから引き離す唯一の方法であるように思えた。もしも払えなかったら、そのときは――

そのときのことを、彼は考えなかった。

トメが、部屋の隅から立ちあがった。

三

帳場の障子は、開いていた。

トメが使っていたころ、この障子は一日じゅう、指一本ぶんだけ開けられていた。そこから、廊下を通る者を見張るためだった。今は、全部開け放たれている。六畳間に夏の午後の光が斜めに入り、畳の上に、格子の影を長く落としていた。

小夜は、文机に向かって帳面をつけていた。

背筋を伸ばし、筆ではなく鉛筆で、ひとつひとつ確かめるように数字を書いていた。トメの算盤は、机の端に寄せられ、布をかけられていた。使われていない、というより、そこに何があるのか、もう誰も見ていないという置かれかただった。

「影さん」

小夜が顔を上げた。声に、屈託がなかった。この一週間で、彼女はよく笑うようになった。近所の人に、しっかりした娘さんになったね、と言われていた。それを、蓮は何度も聞いた。

「お加減、もういいんですか。先週はずっと熱で」

「ええ。……もう、大丈夫です」

「よかった。お握り、置いておいても、手をつけてないことが多かったから」

蓮は、帳場の敷居の手前で立ち止まった。その足の、半歩後ろに、トメが立ち止まった。

トメは、帳場に入らなかった。自分が四十年座りつづけた六畳間の、敷居の外に、借りてきた猫のように立っていた。蓮は、それを見ないようにした。見れば、自分の顔に何かが出る。小夜は、蓮の顔をよく見る娘だった。

「あの、時計のことなんですが」

蓮は、懐から母の千円札を出した。五枚。それに、自分の財布から出した小銭を足して、文机の端に置いた。

「預けていた懐中時計を、請け出したいんです。利子のぶんは、足りなければ、月末までに必ず」

小夜は、札を見た。それから、蓮を見た。

「時計、ですか」

「銀の、蓋のついた懐中時計です。鎖に荷札がついていて。三月の、たしか半ばごろ」

「影さんが、うちに?」

小夜は、ほんとうに驚いた顔をした。

それは、嘘をつく人の顔ではなかった。蓮は、この一週間で何度もその顔を見てきた。煙草屋の婆さんの顔、回覧板を回しにくる町内会の男の顔、郵便配達の顔。何かを思い出そうとして、思い出すべきものの場所そのものが見つからない人の、あの、ほんのかすかな空白のある顔。

「ちょっと、待ってくださいね」

小夜は、帳面を繰った。蓮が知っているトメの帳面ではなく、小夜自身の、新しい大学ノートだった。表紙に、丁寧な字で「質物台帳」とあった。それを最初から最後まで、指でなぞるようにして繰り、それから首を振った。

「ないです。……あ、でも、叔母――」

言いかけて、小夜は口をつぐんだ。

蓮の背中を、冷たいものが走った。

「……いえ。前の帳面なら、あるかもしれません」

小夜は立ちあがり、押し入れを開けた。奥から、紐で綴じた古い帳面の束を取り出した。表紙は黒ずみ、角がぼろぼろになり、油と煙草と樟脳の匂いがした。トメの匂いだった。

小夜はそれを畳の上に置き、今年の分を探しはじめた。

蓮は、敷居の外から、彼女の指先を見ていた。

三月。一日ごとに、トメの細い、癖のある字が並んでいた。質草の名、金額、日付、客の名、利率。几帳面すぎるほど几帳面な、執念のような字だった。そして、三月十四日。

そこに、蓮は見た。

「影蓮殿 銀側懐中時計 一個 鎖付」

トメの字で、はっきりと。

小夜の指が、その行の上を通った。止まらなかった。指は、その前の行――「山田 羽織 一枚」――から、次の行――「中村 指輪 一個」――へと、まっすぐに、何もない一行ぶんの隙間を飛び越えるようにして、進んでいった。

「……ないですね」

小夜は、申し訳なさそうに言った。

「ここの行、なんだか一行、空いてるみたいなんですけど。叔母、じゃなくて……前の人、字を書き損じたのかしら」

前の人。

蓮は、自分の後ろで、トメが身じろぎする気配を感じた。

振り返ることはできなかった。

四

「でも、品物ならあるかもしれません」

小夜はそう言って、帳場の奥の、質草をしまっておく小さな蔵へ、蓮を案内した。

蔵、と言っても、土壁の物置に近いものだった。重い引き戸を開けると、ひんやりとした、黴と桐と古い金属の匂いが流れ出てきた。棚には、風呂敷包みや桐箱が、番号札をつけられて並んでいた。どれも、トメが受け取り、トメが番号をつけ、トメが毎晩、帳面と突き合わせて数えていたものだ。

小夜は、電灯の紐を引いた。裸電球が、揺れながら点った。

「時計なら、たぶんこのあたりに……」

小夜が棚の引き出しを開けた。指輪、帯留め、万年筆。それぞれに荷札がつき、小夜の字で新しく番号が振り直されていた。この一週間、彼女はひとりで、この蔵の中身を全部数えなおしたのだ。

蓮は、別の引き出しを見ていた。

小夜が開けた引き出しの、ひとつ下。そこだけ、埃がうっすらと積もっていた。小夜が数えなおしたどの引き出しにも、埃はなかった。

蓮は、黙ってそれを開けた。

銀の懐中時計が、そこにあった。

鎖に、小さな荷札が結ばれていた。トメの字で、「影 三・一四」とだけ書かれていた。

「あ」

小夜が、小さく声をあげた。

「それ……ですか?」

「ええ」

「そんなところに」

小夜は、引き出しを覗きこんだ。そして、首をかしげた。

「おかしいな。私、この棚は全部見たはずなのに。この引き出し、開けた覚えがないんです。……こんな引き出し、ありましたっけ」

彼女は、懐中時計に手を伸ばそうとして、やめた。自分のものでないものに触れるのをためらう人のように。

「この札、影さんのお名前が書いてありますね。でも、誰の字かしら。私の字じゃないし」

小夜は、札を電球の光にかざして、長いあいだ見ていた。その目の奥で、何かが、つかまえられそうでつかまえられないまま、ゆっくりと揺れていた。

「……誰の字だろう。見たことがある気がするのに」

蓮は、何も言わなかった。

蔵の入口に、トメが立っていた。電球の光は、彼女の足もとまで届いていたが、影を落としてはいなかった。トメは、小夜がかざしている荷札を見ていた。自分の字を。四十年、この家で、ほかの誰にも書けない字で数えつづけてきた、その最後の一枚を。

小夜は、札を下ろした。

「影さん、これ、持っていってください」

「……代金を」

「いただけません」

小夜は、はっきりと言った。

「だって、帳面に載ってないんですもの。いつ、いくらでお預かりしたのかも分からない。それなのにお金をいただいたら、それこそ、泥棒みたいです」

泥棒。

小夜は、少し笑った。自分の言ったことが、少しおかしかったというように。

「それに、影さんのお名前が書いてあるんだから、影さんのものです。きっと、前の人が、ちゃんとお返しするつもりで取っておいたんですよ」

蓮は、時計を受け取った。

冷たかった。重かった。祖父の時計は、こんなに重かっただろうか。

文机の上に置いてきた五枚の札のことを思った。母が、隣家の佐藤さんに頭を下げて借りた五千円。すぐに返せるあてがあります、と書いた、あの右に傾いた字。

「……でも、それでは」

「いいんです」

小夜は、電灯の紐を引いた。蔵が暗くなった。

「お母さまのお金でしょう。お母さまに、返してさしあげてください」

暗がりの中で、小夜の声だけが、やさしく響いた。

蓮は、自分が何を失ったのかを、ようやく理解した。

払えなかったのだ。

彼は、払う機会を奪われた。いや、奪われたのではない。自分で、奪ったのだ。あの夜、トメの糸を切ったときに。トメが数えていたものは、トメとともに、世界の勘定から落ちた。貸しも、借りも、利子も、期限も。そして、蓮がこの時計に負っていた借りも。

自分は、得をした。

五千円と、祖父の形見。そして、三か月分の溜まった家賃。あの帳面から、それもまた消えているはずだった。

罰を受けるつもりで、蓮は階段を下りてきた。払うことで、せめて罰の最初の一銭を支払うつもりで。けれども、罰を受けるためには、誰かがそれを数えていなければならない。貸しがあると覚えている誰かが。督促する誰かが。「三か月ですよ」と、障子の隙間から言う誰かが。

その誰かは、もうどこにもいない。

蔵の入口に立っている小さな老婆を除いて。

五

帳場に戻ると、小夜は文机の上の札を揃え、蓮の手に押しつけるようにして返した。

「お茶、淹れますね」

蓮が断るより先に、小夜は台所へ立っていった。

蓮は、帳場の畳の上に、ひとりで座った。

ひとりで、ではなかった。

トメが、敷居を越えて入ってきた。そして、文机の向こう側、四十年座りつづけた自分の場所に、正座した。算盤の、布のかかった側に。小夜が毎日その前に座り、鉛筆で帳面をつけている、まさにその場所に。

トメは、布のかかった算盤を見ていた。手は出さなかった。指先が、膝の上で、また小さく動いた。

珠を弾くように。

ひとつ、ふたつ。

何を数えているのか、蓮には分からなかった。

蓮は、トメの糸を見た。

あの夜の前、それは黒く太く、油じみて、無数の結び目に覆われていた。金に、帳面に、この家に、そして小夜に。今、その糸は、まだそこにあった。切れたはずなのに、切れた端が、どこにも繋がらないまま、老婆の胸のあたりから、細く、弱く、垂れていた。上へ、上へとしがみつこうとして、しがみつく先を見つけられずに、宙の中ほどで、ゆらゆらと揺れていた。

結び目は、ほとんど残っていなかった。

ひとつだけ、あった。

いちばん太い、あの結び目。それだけが、まだ糸に残っていた。どこにも結ばれていないのに、結び目の形だけを保ったまま。

小夜が、盆を持って戻ってきた。

湯気の立つ茶碗が、ふたつ。

小夜は、盆を文机の上に置き、ひとつを蓮の前に置いた。それから、もうひとつを手に取り、少しのあいだ、どうしていいか分からないように持っていた。

トメの、ちょうど目の前で。

「……変ですね」

小夜は、笑おうとした。

「私、最近、こうなんです。ついふたつ淹れちゃって。影さんと私で、ちょうどふたつなんだから、おかしくないはずなのに。なんだか、もうひとつ足りないような、多すぎるような」

小夜は、自分の分の茶碗を、トメの前に置いた。

置いてから、自分でも驚いたように、その茶碗を見つめた。そして、何かを確かめるように、茶碗と、その向こうの何もない――彼女にとっては何もない――空間を、交互に見た。

トメは、茶碗を見下ろしていた。

湯気が、老婆の顔の前で、まっすぐに立ちのぼった。

「小夜さん」

蓮は言った。自分が何を言おうとしているのか、分からないまま。

「はい」

「……前の人、というのは」

小夜は、しばらく黙っていた。

「分からないんです」

彼女は、茶碗のほうを見たまま言った。

「この帳場、前にも誰かが座っていたはずなんです。そうでなきゃ、あの古い帳面を書いた人がいない。あの蔵の荷札を書いた人がいない。私、ここに来たのは十二のときで、それから、ずっと誰かの……」

言葉が、途切れた。

「誰かの、お手伝いをしていたような気がするんです。叱られて、急かされて。お茶はまだかいって」

小夜は、ふいに笑った。困ったように。

「おかしいでしょう。そんな人、いないのに。町内会の人に聞いても、ここはずっと私の家だって。私、ずっとひとりで、ここをやってきたんだって」

蓮は、茶碗を持った。熱かった。手のひらが焼けるほど熱いのに、それを離すことができなかった。

「でもね、影さん」

小夜は、声を低くした。まるで、誰かに聞かれるのを恐れるように。

「私、その人のこと、嫌いだった気がするんです。とても。……それなのに、どうしてだろう。毎晩、その人のぶんのお茶を淹れてしまう」

トメの指先が、止まった。

蓮は、茶碗に目を落とした。茶の表面に、天井の電灯が、小さく、揺れながら映っていた。

彼の論文には、この一行はなかった。数えられる者が数えられなくなったあとで、その者に数えられていた者が、どうなるのか。握りしめられていた者が、握りしめていた手を失ったとき、それを自由と呼ぶのか。近所の人々が口をそろえて言うように、しっかりした娘さんになった、と。

小夜は、自由になったのだ。蓮は、そう思おうとした。あの老婆の手から。愚図と呼ばれ、学校にも行かせてもらえなかった、七年間から。

それなのに、小夜は、嫌いだった誰かのために、毎晩、お茶を淹れる。

そして理由も分からないまま、少しだけ泣く。

解放、ではなかった。蓮は、それを知っていた。自分が小夜から奪ったのは、嫌うことのできる相手だった。叱られ、急かされ、憎み、それでも毎晩茶を淹れる、その全部を向ける先だった。小夜は今、自分がなぜ泣くのかさえ、数えることができない。

ふと、小夜が顔を上げた。

「そういえば、今朝、変な人が来たんです」

「変な人?」

「警察の方だって。背の高い、眠そうな目をした男の人で。この辺で、誰かいなくなった人はいませんかって、一軒ずつ聞いて回ってるんですって」

蓮の手の中で、茶碗が、かすかに鳴った。

「誰も、いなくなってないのに、ですよ」小夜は、首をかしげた。「私、そう言ったんです。うちは誰もいなくなってません、って。そしたらその人、しばらく黙って、この帳場を眺めてて。それから、柱時計を見て、言ったんです」

小夜は、止まったままの柱時計を、振り返りもせずに指さした。

「――『この時計、いつから止まってるんですか』って」

その夜、蓮は、母への返事を書こうとして、書けなかった。

大家さんにくれぐれもよろしく、という一行に、何と答えればいいのか分からなかった。

机の上に、祖父の懐中時計があった。蓮は竜頭を巻いた。二度。あの日、トメがそうしたように。時計は、ためらうように、それから確かに、動きだした。

かち、かち、と、秒を数える音が、暗い部屋に響いた。

部屋の隅で、小さな老婆が、その音に合わせて、膝の上で指を動かしていた。

ひとつ、ふたつ。

世界じゅうで、蓮と、この時計と、あの老婆だけが、まだ何かを数えていた。

◇ (第二章 了) ◇

第三章 取調べのない取調べ

◇ ◆ ◇

一

その男に最初に声をかけられたのは、七月も終わりに近い、雨あがりの午後だった。

蓮は谷中の墓地を抜けて、日暮里の駅のほうへ歩いていた。べつに用があったわけではない。下宿にいると、階段の下から、あるいは廊下の暗がりから、小さな気配がこちらを見上げているのが分かる。それに耐えられなくなると、彼は外へ出た。出たところで何も変わらないことも、分かっていた。気配は、ついてくるのだ。

墓石のあいだの砂利道はまだ濡れていて、踏むたびに湿った音がした。卒塔婆の墨が雨でにじみ、読めなくなった戒名が、黒い涙のように板を伝っていた。蝉は雨のあいだだけ黙っていたのを取り戻そうとするかのように、いっせいに鳴きはじめていた。

振り返らなくても、蓮には分かった。三歩ほど後ろ、墓石の影から影へ、背の低い老婆が、音もなく歩いている。雁木トメ。一週間前から、彼女はずっとそうしている。話しかけてもこない。責めもしない。ただ、ついてくる。

はじめの二、三日、蓮は彼女を振り切ろうとした。路面電車に飛び乗り、上野の人ごみにまぎれ、不忍池のほとりを何周も歩いた。だが、どこで立ち止まっても、彼女はやはり三歩後ろにいた。息を切らしてもいなかった。汗もかいていなかった。まるで、彼女のほうが止まっていて、蓮のほうが、彼女のまわりをぐるぐる回っているだけであるかのように。

四日目から、蓮は振り切るのをやめた。やめてみると、奇妙なことに、彼女の気配は、ほんのわずかだけ、耐えやすくなった。それが、蓮にはかえって恐ろしかった。人は、何にでも慣れる。慣れてしまえば、それはもう、数えなくてもいいものになる。

墓地の出口の、古い石の門のところで、蓮は足を止めた。

門柱に、男がひとり、もたれていた。

「ああ、やっぱり」

と男は言った。まるで待ち合わせの相手をようやく見つけた、というふうに。

「影さん。影蓮さんでしょう。いや、違っていたら失礼。でも、違わないと思うんですよ」

四十を少し過ぎたくらいだろうか。くたびれた麻の背広に、さらにくたびれた中折れ帽。顔は丸く、眉が下がっていて、笑うと目が糸のように細くなる。手には、閉じた蝙蝠傘と、なぜか煎餅の紙袋を持っていた。

「どちら様ですか」

「これはどうも。名乗るのが先でしたね。私はこういう者で」

男は煎餅の袋を小脇に挟み、胸の内ポケットを探った。出てきたのは、角の擦り切れた手帳だった。

「鑓水と申します。鑓水恭介。警視庁の……まあ、所属を申し上げてもあまり意味のない部署でしてね。ちょっとした、変わった件ばかり回ってくるところです」

蓮は、自分の顔が何も表していないことを願った。

そして同時に、見た。見ようとしたのではない。見えてしまうのだ。男の胸のあたりから、上へ、ずっと上へ伸びている糸を。

それは、ごく普通の糸だった。太くもなく、細くもない。ただ、ところどころに結び目があった。一度切れかけて、誰かが――あるいは男自身が――結び直したような跡が、いくつも。

「立ち話もなんですから」と鑓水は言った。「この先に、うまいほうじ茶を出す店があるんです。もちろん私が払います。役所の金ですからご遠慮なく。いや、役所の金ならなおさら遠慮すべきか。まあ、どちらでもいい」

二

店は、夕焼けだんだんの下の、細い路地の奥にあった。

入口の暖簾は日に焼けて、もとが何色だったのか分からない。中は薄暗く、土間に小さな卓が四つ。奥で、耳の遠そうな老人が炭をいじっていた。焙じた茶葉の香ばしい匂いが、湿った空気にまじって、壁にまで染みこんでいるようだった。

店までの道すがら、鑓水はほとんどひとりでしゃべっていた。この辺りの猫はみな太っている、墓参りの客が供え物を置いていくからだ、とか。だんだんの石段は数えるたびに段数が違う、自分は四度数えて三度違った、とか。蓮は相槌を打たなかった。打たなくても、男の話は途切れなかった。

蓮は、歩きながら、自分の足音と男の足音を聞いていた。そして、そのあいだに、もうひとつ、聞こえるはずのない足音を探していた。草履が石を擦る、あのかすかな音。聞こえるのか、聞こえないのか。聞こえると思えば聞こえ、聞こえないと思えば聞こえなかった。

もしこの男に聞こえているのなら、と蓮は考えた。男はいま、三人分の足音を聞きながら、二人で歩いているふりをしていることになる。もし聞こえていないのなら、自分はいま、聞こえない足音に怯えながら、聞こえないふりをしている男と歩いていることになる。どちらがより恐ろしいのか、蓮には決められなかった。

鑓水は窓際の卓を選び、帽子を脱いで膝に置いた。頭頂がすこし薄くなっていた。

蓮は向かいに座った。

そして、座りながら、自分の左側の、空いている椅子を見ないようにした。

見なくても分かった。トメが、そこにいる。店に入るとき、暖簾をくぐったのは蓮と鑓水の二人だったが、暖簾は、三度揺れた。

「すみません」と鑓水は奥へ声をかけた。「ほうじ茶を、みっつ――」

蓮の背中を、冷たいものが下りた。

「――いや、ふたつ。ふたつでした。失礼」

鑓水は、指を三本立てかけた手を、ばつが悪そうに引っこめ、頭を掻いた。

「癖でしてね。この頃どうも、数を間違える。歳ですかね。影さんはお若いから、そんなことはないでしょう」

「……ありません」

「羨ましい」

鑓水は、心からそう思っているように笑った。

蓮は、男の目を見た。細い、柔らかい目。そこには何もなかった。少なくとも、蓮に読めるものは何も。

癖、と男は言った。だが、どういう癖なのだろう。三人で茶を飲むことの多い男なのか。それとも、ここ数週間、行く先々で、机や布団や茶碗の数を数えつづけてきたせいで、数えるたびにひとつ多く数えてしまうようになった男なのか。蓮は、湯呑みが運ばれてくるまでのわずかな時間に、その二つの男を、目の前の丸い顔に交互に重ねてみた。どちらも、ぴたりと重なった。

茶が来た。厚手の湯呑みがふたつ。湯気が、窓から入る薄い光のなかで、ゆっくりとほどけていった。

鑓水は、湯呑みを両手で包んで、しばらく何も言わなかった。蓮も黙っていた。黙っていることが、この場合、いちばん安全なのだと思った。だが、黙っている時間が長くなるほど、その沈黙そのものが何かを語りはじめるような気がしてきた。

「影さんは、なくしものをしたことがありますか」

不意に、鑓水が言った。

「なくしもの、ですか」

「ええ。財布とか、鍵とか。あるいは、もっと妙なもの。たとえば――そうですね、なくしたことだけは覚えているのに、何をなくしたのか思い出せない、というような」

「……ないと思います」

「そうですか。私はしょっちゅうです」

鑓水は煎餅の袋を卓に置き、口を開けて蓮のほうへ押した。

「どうぞ。谷中の、例の店のです。醤油の。硬いですよ。歯に気をつけて」

蓮は手を出さなかった。鑓水は気にしたふうもなく、自分で一枚取り、ぱきりと割った。その音が、店の静けさのなかで、妙に大きく響いた。

三

「近頃ね、妙な届けが続いているんですよ」

煎餅をかじりながら、鑓水は話しはじめた。天気の話でもするような口調だった。

「最初は、根津の、ある家でした。四人家族。父親と母親と、息子がふたり。ところが、家の二階に、子ども部屋がみっつある。机もみっつ。ランドセルもみっつ。いちばん奥の部屋の机には、書きかけの算数の帳面まで開いてある。でも、家族は四人なんです。誰に聞いても、四人。息子はふたり。三人目なんて、はじめからいない」

鑓水はお茶をすすった。

「母親が届けてきたんです。『知らない子の机がある。気味が悪いから調べてくれ』と。私が行って、その机を見ました。鉛筆は、ちゃんと削ってありました。帳面の名前の欄は――」

そこで、鑓水は言葉を切った。

「――名前の欄はね、空白でした。消した跡もない。はじめから、何も書かれていない。でも、ほかのページには、ちゃんと問題を解いた跡がある。字の癖も、ほかのふたりとは違う。誰かが、そこで算数をしていたんです。毎日。でも、それが誰なのか、世界じゅうの誰も覚えていない」

蓮は湯呑みを持ち上げた。手が震えていないことを確かめてから、ひと口飲んだ。熱さだけが舌に残って、味は分からなかった。

「次は、千駄木の長屋。独り暮らしの老人の部屋に、布団がふた組、敷いてあった。毎晩、老人はふた組敷くんだそうです。なぜ敷くのかと聞いたら、分からない、と。分からないが、敷かないと眠れない、と」

「……それは、ぼけているだけでは」

言ってから、蓮は後悔した。口を挟むべきではなかった。

鑓水は、嬉しそうに目を細めた。

「ええ、私もはじめはそう思いました。しかしね、影さん。区役所の台帳を見ますとね、その部屋には、戦後ずっと、二人分の配給が出ていたんです。記録の上では、ちゃんと二人いた。ところが、その二人目の名前を書いた欄が、どの帳面を見ても、なぜか読めない。インクが薄れているんじゃない。字は、はっきり書いてある。なのに、目がそこを滑るんです。何度見ても、滑る」

鑓水は、自分の目の下を指でこすった。

「私は、あれほど気味の悪いものを見たことがない。死体なら、いくらでも見てきましたがね。死体には、少なくとも、死んだ人がいる」

窓の外を、自転車が一台、ゆっくり通り過ぎた。ベルが一度だけ鳴った。

左の椅子の上で、何かがかすかに身じろぎする気配がした。蓮は、そちらを見なかった。

「私はこういうのを、勝手に、『いなくなった者のいない失踪』と呼んでいるんです」と鑓水は言った。「人は消えていない。誰も消えたと思っていない。ただ、椅子や、茶碗や、布団だけが、誰かのために残っている。まるで、世界のほうがその人を忘れたのに、物のほうだけが、忘れそこなったみたいに」

そう言って、鑓水は、はじめて蓮の目をまっすぐに見た。

「上のほうから見ると、下のものは零に見える。――そんな文章を、どこかで読んだ気がするんですよ」

四

蓮は、何も言わなかった。

言えなかった、というのではない。言うべき言葉が、あまりに多く、同時に喉もとまで押し寄せて、そのどれもが互いを塞いでしまったのだ。

知らない、と言えばいい。何のことか分からない、と。だがそれでは、あの論文を自分が書いたことまで否定することになる。書いたことは、同人誌に名前が載っている以上、隠しようがない。隠そうとすれば、隠そうとしたことが残る。

では、読んでくださったんですか、と言えばいいのか。学生らしく、少し照れて、少し得意げに。だがそれは、あまりに芝居じみていないか。この男は、芝居を見抜くために生きてきたような男ではないのか。

あるいは――何も言わないのが、いちばん悪いのではないか。いま、この沈黙の一秒一秒が、男の手帳に書きこまれているのではないか。

蓮は、自分の考えが、同じ場所をぐるぐると回りはじめるのを感じた。井戸の底の水のように、出口のない円を描いて。

「……大学の、同人誌に」

ようやく、それだけ言った。

「ああ、やっぱり。そうでしたか」

鑓水は、手を打たんばかりに喜んだ。

「いや、実を言うとね、たまたまなんです。姪が、あなたの大学に通っていましてね。部屋に転がっていたのを、暇つぶしに読んだ。難しくて、半分も分からなかった。でも、題がよかった。『零について』。いい題です。短くて、逃げ場がない」

「逃げ場……」

「ええ。題が長いとね、人はその中に隠れられる。でも、零という字には、隠れるところがない。まんなかが空いているだけで」

鑓水は、卓の上に、濡れた指で丸を描いた。茶のしずくの丸は、窓の光を受けて、すこしのあいだ光っていた。

「あの中にね、ひとつだけ、私にも分かった文がありました。『上に立つ者は、下の者を数えないことを、許されているのではないか』。――これは、面白い。じつに面白い。私の商売とも、関係がなくはない」

「……ただの、思考実験です」

「もちろん、もちろん」

鑓水はうなずいた。何度もうなずいた。

「思考実験。ええ。学生さんは、そういうものを書かなきゃいけない。書かなかったら、何のための若さです。私も若いころは、ひどいものを書きました。人を殺す権利について、なんて。恥ずかしい。いまは、人が殺されたあとの書類ばかり書いています」

鑓水は笑った。蓮は笑わなかった。

「でもね、影さん。私はあれを読んで、ひとつだけ、気になったことがあるんです。あなたは、上の者が下の者を『数えない』と書いた。『殺す』でもなく、『消す』でもなく。数えない。――どうして、その言葉を選んだんです」

蓮は、湯呑みの底を見た。茶葉の細かいくずが、ひとつ、沈んでいた。

「……正確だから、です」

「正確」

「殺せば、死体が残ります。消しても、消したという事実が残る。でも、数えなければ――」

そこまで言って、蓮は口を閉じた。

鑓水は、続きを待った。待って、待って、それから、ふっと視線を窓の外に外した。まるで、相手が言いかけてやめたことなど、何も気づかなかったというふうに。

「数えなければ、机が残る」

と、鑓水は窓の外を見たまま、ひとりごとのように言った。

「机と、布団と、茶碗が残る。そういうことですかね。いや、私が勝手にそう思っただけです。学生さんの論文を、刑事が勝手に読みちがえる。よくあることです」

五

奥で、老人が炭を足す音がした。ぱち、と火の粉がはぜた。

鑓水は帽子を手に取り、それを膝の上でくるくると回しはじめた。

「そうそう、もうひとつ、ついでに伺ってもいいですか。ほんのついでです。あなたの下宿、谷中の坂の上の、古い三階建てでしょう。一階が、質屋になっている」

「……元、質屋です」

「元」

鑓水は、その一語を、舌の上で転がすように繰り返した。

「元、ですか。いまは、やっていない」

「いまは、娘さんが……いえ、大家さんの……」

蓮は言葉に詰まった。大家さんの、何だ。大家さんの娘だ、と言おうとしたのだ。だが、大家さんとは、誰だ。いま、この世界で、あの家の大家は誰ということになっているのだ。小夜は、あの家に、ひとりで住んでいることになっている。祖母も母もいない娘が、ひとりで。

「ガンギ・サヨさん」と鑓水が助け舟を出した。「若いのに、しっかりしたお嬢さんだそうですね。近所の評判がいい。ひとりで家を切り盛りして、下宿人の世話までして」

「……はい」

「ひとりで」

「……はい」

鑓水は帽子を回すのをやめた。

「実はね、先週、あの家の近くの八百屋のおかみさんから、ちょっとした話を聞いたんです。サヨさんが、この頃、茄子をひとつ余計に買っていく、と。なぜかと聞いたら、サヨさん、自分でも首をかしげて、『なんとなく』と笑ったそうです。それから、瀬戸物屋では、湯呑みを。『ふたつめの』と言って買っていったと。ふたつめって何、と聞かれて、やっぱり、分からない、と」

蓮は、左の椅子の気配が、急に濃くなったように感じた。

息をしている。あの小さな、濁った目の老婆が、いま、すぐ隣で、息を詰めている。

「それだけの話です」と鑓水は言った。「茄子と湯呑み。どこにでもある話です。私の手帳は、どこにでもある話でいっぱいでしてね。そのほとんどは、本当に、どこにでもある話なんです」

「ほとんど、は」

口に出してから、蓮はまた後悔した。

「ええ。ほとんどは」

鑓水は、にっこり笑った。

蓮は、卓の下で、自分の膝を強くつかんでいた。

この男は、何を知っているのか。いや、何を知りうるのか。知りうることなど、何もないはずだった。あの夜、坂の上で、自分がしたことは、誰にも見えなかった。見えるはずがない。糸は、自分にしか見えないのだ。糸を切ったという出来事は、この世界のどの帳面にも書かれていない。書かれていない出来事を、どうやって調べるというのか。

だが、この男は、帳面に書かれていないことではなく、帳面の読めない欄を数えているのだ。茄子の数を。湯呑みの数を。机の数を。そして、そういうものは、いくら自分が口を閉ざしても、勝手に増えていく。小夜が買いつづけるかぎり。老人が布団を敷きつづけるかぎり。

蓮はふと、自分が、この男を恐れているのではないことに気づいた。自分が恐れているのは、茄子だった。八百屋の店先に積まれた、紫色の、ありふれた茄子。そのひとつが、毎日、余計に籠に入っていく。それを止めることは、誰にもできない。小夜にも。自分にも。

そのあと、話は、どうでもいいことばかりになった。

鑓水は、この店のほうじ茶がなぜうまいのかを長々と説明した。焙じる前の葉を、一晩、縁側で夜気に当てるのだという。本当かどうかは知らない、と自分で付け加えた。それから、自分の妻が煎餅を嫌いなこと、にもかかわらず自分は毎日買って帰ること、そのため家では煎餅を隠す場所が七つあることを話した。蓮はほとんど聞いていなかった。聞いていないことを、鑓水もたぶん分かっていた。それでも鑓水は話しつづけた。まるで、それが本題であるかのように。

蓮には、それがいちばん怖かった。

この男は、本題を話しているときは、世間話をしているように見える。そして世間話をしているときは、本題を待っているように見える。どちらが網で、どちらが餌なのか、蓮にはもう分からなかった。

六

勘定をするとき、鑓水は財布から小銭を出して、一枚ずつ卓の上に並べた。

「ほうじ茶がふたつで……」

指で、硬貨を数えていく。その指が、ある一枚のところで、ほんの一瞬、止まった。

蓮は、息を止めた。

鑓水の視線は、硬貨の上にあった。蓮の左の、空いた椅子のほうではなかった。少なくとも、そう見えた。

「……ふたつで、ちょうど。はい」

鑓水は硬貨を老人に渡し、帽子をかぶった。

店を出ると、雨の匂いはもうほとんど消えていて、夕焼けだんだんの石段が、西日のなかで赤く乾きはじめていた。石段の中ほどで、猫が一匹、腹を見せて寝ていた。

「今日は、お時間をとらせました」と鑓水は言った。「いや、取り調べなんかじゃありませんよ。取り調べるようなことは、何もないんですから。誰もいなくなっていないし、誰も何も盗まれていない。机と、布団と、茄子と、湯呑み。それを罪と呼ぶ法律は、まだどこの国にもない」

「……では、なぜ、僕に」

「なぜでしょうね」

鑓水は、心底不思議そうに首をかしげた。

「たぶん、あなたの論文の題がよかったからです。それと――」

言いかけて、鑓水は石段のほうを見下ろした。寝ていた猫が、何かに気づいたように顔を上げ、蓮のすこし後ろの、何もない空間を、じっと見つめていた。

鑓水も、そちらを見た。

見た、ように思えた。

ほんの一瞬だった。それから男は、いつもの柔らかな目に戻って、帽子のつばに指をかけた。

「それと、あなたが、一度も私の煎餅に手をつけなかったからです。お腹が空いていそうなのに。人は、何かを抱えているとき、物を食べられなくなるものでしてね。いや、これも、ただの癖です。刑事の悪い癖」

では、また、と鑓水は言った。また、とは言わなかったかもしれない。蓮には、そう聞こえただけかもしれない。

男は、猫をまたいで、石段を下りていった。くたびれた背広の背中が、谷中銀座の雑踏のなかに、ゆっくりとまぎれていった。

蓮は、石段の上に長いあいだ立っていた。

隣に、小さな気配があった。

トメは、何も言わなかった。いつもと同じように。ただ、蓮には、彼女がいま、自分と同じ方向を――男が消えていった雑踏のほうを見ているのが分かった。

あの男には、見えていたのか。

みっつと言いかけたのは、本当にただの癖だったのか。硬貨の上で止まった指は。猫の視線を追ったあの目は。

それとも、見えていないからこそ、あの男は、机と布団と茄子と湯呑みの数を、あれほど丁寧に数えているのか。見えないものを、見えないまま、残されたものの形から数えようとしているのか。

それは――と蓮は思った。それは、自分がいまやっていることと、どこが違うのだろう。

石段の猫が、あくびをひとつして、また眠った。

坂を上って帰る道で、蓮は一度だけ、振り返った。

トメは、そこにいた。三歩後ろではなく、一歩後ろに。夕闇のなかで、老婆の輪郭は、ほかの何よりもはっきりしていた。電柱よりも、塀よりも、軒先の風鈴よりも。蓮にとって、この町でいちばん確かなものは、この町の誰も数えない、この小さな老婆だった。

「あの人は」と蓮は言った。声に出して、トメに話しかけたのは、あの夜以来はじめてだった。「あの人には、あなたが見えていましたか」

トメは答えなかった。濁った目で、ただ蓮を見上げていた。その目は、家賃の滞納を秤にかけていたころの目と、少しも変わらなかった。変わらないことが、蓮には、どんな非難よりもこたえた。

答えを期待していたわけではない。答えられたとしても、それを誰が聞き、誰が数えるというのか。

坂の途中の家から、夕餉の匂いが流れてきた。焼き茄子の匂いだった。蓮は、胃のあたりがねじれるのを感じた。鑓水の言ったとおりだった。朝から、何も食べていなかった。

その夜、下宿に戻ると、玄関の上がり框に、小夜が置き忘れたらしい買い物籠があった。

中には、茄子がみっつと、白い包み紙にくるまれた、新しい湯呑みがひとつ入っていた。

包み紙の端に、鉛筆で、小夜の丸い字が書いてあった。

――ふたつめ。

その下に、小夜の字ではない、細く几帳面な字で、もう一行。

――鑓水、拝見。

◇ (第三章 了) ◇

第四章 猫の糸

◇ ◆ ◇

一

その猫を、蓮はもう一度見つけた。

見つけた、という言い方が正しいのかどうか、蓮には分からなかった。探していたわけではなかった。少なくとも、自分ではそう思っていた。ただ、あの晩から二週間あまり、下宿の前を通るたびに、彼の目は勝手にアスファルトの一点へ落ちた。郵便配達の自転車が猫の上を走り抜けた、あの朝の場所である。そこには何もなかった。油の染みと、干からびた桜の葉が一枚あるだけだった。何もないことを確かめるために、彼は毎朝そこを見た。そして毎朝、確かめたことに、少しだけ安堵し、安堵した自分を少しだけ憎んだ。

八月の初めの、雨の上がった午後だった。

蓮は谷中の墓地を抜けて、日暮里の駅へ出るつもりでいた。質屋の帳場で、小夜が「影さん、これ、駅前の郵便局までお願いできますか」と封筒を差し出したのである。彼女は、どうしてそれを下宿人に頼むのか、自分でもよく分からないという顔をしていた。以前なら、それは叔母の仕事だったはずだ。しかし小夜の記憶の中では、叔母という言葉そのものが、どこか棚の奥へしまわれて、手が届かなくなっていた。

蓮は黙って封筒を受け取った。受け取るとき、小夜の指先がかすかに震えているのを見た。自分が何に怯えているのかも知らない人間の震えだった。

封筒は胸のポケットに入れた。そこには、母の手紙も入ったままになっていた。

墓地の中の道は、雨のせいで黒く光っていた。天王寺の塀に沿って、濡れた石畳が続き、古い墓石が、ひとつひとつ、名前を刻まれたまま雨を吸っていた。墓というものは、と蓮はぼんやり考えた。数えるための装置なのだ。ここに誰それがいた、と石に刻んで、忘れられないように、数から落ちないようにする。何百年も前に死んだ人の名が、苔の下で、今もまだ数えられている。

それなのに、あの老婆は。

蓮は考えるのをやめた。やめようとした。

昨日、あの鑓水という男が、下宿の帳場で茶をすすりながら言ったことが、耳の奥に残っていた。

「妙な届けが増えていましてね、影さん。いなくなった人がいる、という届けじゃないんです。誰もいなくなっていないのに、何かが足りない、という届けなんですよ。茶碗がひとつ余る。布団が一組余る。そういう、ね」

男は、そう言って、蓮の顔ではなく、蓮の手もとを見ていた。まるで、そこに何かの糸くずでもついているかのように。

蓮は、そのとき、何も答えなかった。答えずにいられたことを、あとになって、少しだけ誇らしく思った。そして、そう思った自分に、ひどく吐き気がした。人を数えから落としておいて、そのことを隠しおおせた手ぎわを誇る。それは、彼がかつて軽蔑していた種類の人間の、いちばん卑しい楽しみだった。

墓石の列は、どこまでも続いていた。徳川の家臣の墓があり、名も知らぬ商家の墓があり、字の読めなくなった無縁の墓があった。無縁の墓でさえ、ひとつ、と数えられて、この墓地の図面の上に、小さな四角として描かれているのだろう。

そのとき、低い石垣の上に、それがいるのが見えた。

二

茶色と白の、痩せた雌猫だった。左の耳が少し欠けていて、尾の先だけが黒い。

蓮は立ち止まった。

間違いようがなかった。あの夜、下宿の前で、車に撥ねられて震えていた猫。彼が、何か指ではないもので触れ、糸を切った猫。

猫は生きていた。

石垣の上に、前足をそろえて座り、濡れた毛を舐めていた。撥ねられたはずの後ろ足は、少し妙な角度に曲がっていたが、猫はそれを気にしている様子もなかった。怪我は治っていたのか、それとも、治る必要がなくなっていたのか。蓮には分からなかった。

彼は、猫の糸を見た。

あった。細い、ほとんど透きとおった糸が、猫の背から、上へ、上へと伸びていた。しかしそれは、途中で、ふいに途切れていた。切り口は、刃物で切ったようにきれいではなかった。古い麻縄が擦り切れたように、繊維がほつれて、宙にかすかに揺れていた。その先には何もなかった。何かに結ばれていたはずの先端が、もう、どこにも行き着かなかった。

猫は、自分の糸が切れていることなど知らないように、毛づくろいを続けていた。

石畳の向こうから、傘をたたんだ老人がやってきた。杖をついて、ゆっくりと。老人は石垣の脇を通りすぎた。猫のすぐそばを。老人の肘が、猫の体があるはずの場所を横切った。

何も起こらなかった。

老人は猫をよけなかった。猫も老人をよけなかった。ぶつかりもしなかった。ただ、老人の肘が通った空間は、最初から猫などいなかった空間として、何の抵抗もなく老人を通した。そして老人が通り過ぎたあとも、猫は同じ場所に座り、同じように毛を舐めていた。

蓮は、自分の喉が乾いていることに気づいた。

次に、墓参りの帰りらしい母親と、小さな男の子が通った。男の子は、石垣の上の猫を、真っすぐに見た。見た、と蓮は思った。しかし男の子の目は、猫の上をすべって、その向こうの墓石の上で止まった。

「おかあさん、あのお墓、字が消えてる」

「古いからねえ」

二人は行ってしまった。

子どもというものは、と蓮は思った。猫を見つければ、必ず指さすものだ。「ねこ」と言うものだ。あの年頃の子にとって、猫は世界でいちばん数えるに値するもののひとつのはずだ。

その子が、猫を数えなかった。

また、ぽつり、ぽつりと雨が落ちはじめた。雨粒は猫の上にも降った。蓮は、それを見つめた。雨粒は、猫の毛に当たって弾けはしなかった。ただ、猫の体を通り抜けるのでもなかった。猫のいる場所に落ちる雨は、まるでそこに石垣の苔しかないかのように、苔を濡らした。それでいて、猫の毛は濡れていた。さっきからずっと、猫は自分の舌で、自分の濡れた毛を舐めていた。

この猫は、雨に濡れている。しかし雨は、この猫を濡らしたことを、どこにも勘定に入れていない。

蓮は、そういう言い方でしか、それを考えることができなかった。

三

墓地の出口のほうで、車の音がした。霊園の管理事務所の軽トラックが、細い道をゆっくりと入ってきた。蓮は反射的に一歩さがった。

猫は、石垣から、ひょいと道へ降りた。

蓮は声を上げかけた。

軽トラックは、速度も変えずに、猫の上を走った。前輪が、それから後輪が。

猫は、轢かれなかった。いや、轢かれたのかもしれなかった。蓮には、タイヤが猫の体を踏む、その瞬間が、確かに見えた。茶色と白の毛の上に、黒いゴムが乗り、そして通り過ぎた。猫は潰れなかった。鳴きもしなかった。タイヤも、跳ねなかった。まるで、猫とタイヤが、同じ場所を、別々の帳簿の中で通過したかのようだった。

軽トラックが角を曲がって見えなくなると、猫は道の真ん中で、何事もなかったように伸びをした。

蓮は、自分の膝が震えているのを感じた。

あの朝、郵便配達の自転車がこの猫の上を走ったとき、彼はそれを、何かの見まちがいだと思おうとした。思いこむことに成功しかけていた。熱のせいだった、疲れのせいだった、と。けれども今、昼の光の中で、はっきりと見てしまった。

これが、自分のしたことなのだ。

殺したのではなかった。殺したのなら、猫は死んで、どこかの誰かが、道の端に寄せて、段ボール箱に入れて、「かわいそうに」と言っただろう。その「かわいそうに」の中で、猫は最後にもう一度、数えられたはずだった。

自分は、それさえ奪った。

猫は生きている。腹が減れば、どこかの残飯をあさるのだろう。眠くなれば、どこかの縁の下で丸くなるのだろう。そして、誰も、それに気づかない。餌をやる者もいない。追い払う者もいない。石を投げる子どももいない。この猫にとって世界は、ただ静かに、どこまでも親切で、どこまでも無関心な場所になったのだ。

蓮は、それがトメと同じだということを、考えまいとしていた。考えまいとすればするほど、考えてしまった。

ふと、背後に気配を感じた。

振り返らなくても分かった。この二週間、彼がどこへ行こうと、ついてくる小さな影がある。下宿の階段の下に、大学の図書館の窓際に、夜の銭湯の脱衣所の隅に。いつも少し離れて、何も言わずに、ただ立っている。

蓮は振り返った。

五、六歩うしろの墓石のあいだに、雁木トメが立っていた。

着古した絣の着物に、黒い前掛け。雨が、老婆の上にも降っていた。老婆の白髪は濡れていた。しかし、そのそばを通る人は誰も、傘を差しかけようとはしなかった。

トメは、蓮を見ていなかった。道の真ん中で伸びをしている猫を見ていた。

その目つきが、蓮には耐えがたかった。帳場で質草を値踏みしていたときの、あの小さな濁った目。それが今は、何も量っていなかった。ただ、見ていた。自分と同じ場所に落ちてきた、小さな生き物を。

「……影さん」とトメは言った。

蓮は答えなかった。

「あの子にも、見えないんですかね。あたしのことは」

老婆は猫のことを「あの子」と呼んだ。

蓮は猫のほうへ向き直った。猫は、トメのほうを見ていた。見ている、と蓮は思った。はっきりと。欠けた耳をこちらへ向け、黄色い目で、墓石のあいだの老婆を、じっと見つめていた。

数えられないもの同士は、互いを数えることができるのか。

それとも、あれもまた、何かの見まちがいなのか。

四

返そう、と蓮は思った。

それは、決心というほどのものではなかった。もっと子どもじみた、衝動に近いものだった。こぼした水を、手で掬って茶碗に戻そうとするような。

切ったのは自分だ。自分に切れたのなら、結ぶこともできるはずだ。糸は、ほつれた先を宙に漂わせている。その先を、もとの場所へ――どこだか分からないが、あの上の、見えないどこかへ――もう一度つなげばいい。

蓮は猫に近づいた。

猫は逃げなかった。逃げる理由がなかったのだろう。この二週間、猫に近づいてくる者は一人もいなかったのだから。蓮が石畳の上にしゃがみこむと、猫は少し首をかしげ、それから、彼の靴の匂いを嗅いだ。

蓮は、指ではないもので、糸に触れた。

あの夜と同じだった。胸の奥の、生まれたときからある細い罅が、かすかに軋んだ。そこから、何かが、手のように伸びていった。

ほつれた糸の先端に、それが触れた。

冷たかった。

あの夜、糸を切ったとき、それは温かかった。かすかに脈打っていた。今は違った。切れた糸の先は、濡れた紙のように冷たく、頼りなかった。触れた瞬間に崩れてしまいそうだった。

蓮はそれを、そっと、上へ持ち上げようとした。

どこへ。

糸は、上へ伸びていくものだった。すべての糸がそうだった。赤ん坊の太い糸も、死にかけた老人の細い糸も、どこか見えない高みに向かって、果てしなく。蓮は生まれてからずっとそれを見てきた。けれども、その先がどこに結ばれているのかは、一度も見たことがなかった。見ようとしたこともなかった。

切るとき、彼はそれを知る必要がなかった。切るというのは、ここを断つということだけだった。手もとの一点だけで足りた。

けれども、結ぶためには、向こう側の端がいる。

蓮は、糸の切れた先を、上へ、上へと追った。罅の奥から伸びた手が、どこまでも細く、どこまでも薄く、引き延ばされていった。ひとつ上。まだ先がある。そのまた上。まだ先がある。蓮には、それが高さなのか、深さなのか、分からなかった。ただ、猫の糸がもともとつながっていたはずの場所は、階段を一段上がるたびに、同じ遠さだけ遠のいた。

胸が、痛んだ。

それは、比喩ではなかった。罅が、内側から押し広げられるような痛みだった。古い傷口に、誰かが爪を立てて、ゆっくりと裂いていくような。蓮は石畳に片手をついた。額から汗が落ちた。雨と混ざって、どちらがどちらか分からなかった。

それでも、蓮は手を伸ばしつづけた。

どこかに、きっとある。猫が、猫として数えられていた場所が。この猫を、一匹、と数えていた、何かの帳簿が。

そのとき、蓮は悟った。

あの夜、自分が切ったのは、糸そのものではなかった。

糸は、ここにある。猫の背から、ほつれたまま伸びている。自分が切ったのは、その向こう側の――糸を受けとめていた何かの、「受けとめる」ということそのものだった。上にいる何かが、下にいるこの猫を、一匹として勘定に入れる。その勘定の、ほんの一行。それを自分は、手もとから、引きちぎったのだ。

だから、結ぶ先がない。

糸の先端をどこへ持っていっても、そこには、もう、この猫を受けとめる手がなかった。

切ることは、こちら側だけでできる。

返すことは、向こう側の同意がいる。

そして自分は、向こう側に、何の言葉も持っていなかった。

五

それでも、蓮はやめなかった。

やめられなかったのかもしれない。猫が、彼の膝に前足をかけていた。かすかに、喉を鳴らしていた。二週間ぶりに、誰かが自分に触れている。猫にとっては、ただそれだけのことだったのだろう。

蓮は、自分の糸の一部を使おうとした。

考えてのことではなかった。向こう側に結ぶ先がないのなら、せめて、ここに。自分に。自分の糸は、まだ上へつながっている。以前よりわずかに細く、どこか透きとおってしまったけれど、それでも。そこへ猫の糸を結べば、自分が数えられているかぎり、猫もまた、どこかで数えられるのではないか。

罅の奥から伸びた手が、ゆっくりと向きを変えた。猫の糸の、ほつれた先端をつまんだまま、蓮自身の糸のほうへ。

触れた。

その瞬間、何かが、削られた。

音はなかった。痛みさえ、なかった。ただ、胸の内側で、鉋をかけたように、薄い一枚が剥がれていく感覚があった。

蓮は、何が剥がれたのか確かめようとした。

母の顔を思い出そうとした。仙台の、古い台所。流しの前に立つ、少し猫背の後ろ姿。思い出せた。けれども、その後ろ姿が振り返ったときの顔が、ほんの一瞬、うまく結ばなかった。目と鼻と口はあった。どれも母のものだった。ただ、それらが、ひとつの顔として、蓮にとっての「母」として、勘定されるまでに、一拍の遅れがあった。

一拍。

それは、すぐに戻った。母の顔は、ちゃんと母の顔になった。蓮は胸をなでおろしかけた。

しかし、戻ったのだと思ったものが、本当に以前と同じものかどうか、蓮にはもう、確かめる術がなかった。

猫の糸は、結ばれていなかった。

蓮自身の糸に触れたとたん、猫の糸は、まるで水に落とした綿のように、ふわりとほどけた。結び目は生まれなかった。代わりに、蓮の糸の表面から、目に見えないほど薄い何かが、猫の糸のほうへ流れ出して、そして、どこへも行かずに、消えた。

与えたのではなかった。

ただ、失っただけだった。

蓮は、罅の奥の手を、引き戻した。引き戻すのに、ひどく時間がかかった。伸ばしたときの何倍も。まるで、あの手そのものが、戻ることを忘れかけているかのようだった。

手が戻ると、罅は、以前よりほんのわずかに、広くなっていた。

蓮は石畳の上に座りこんだ。ズボンが濡れた。どうでもよかった。

猫は、蓮の膝から前足を下ろし、少し不思議そうに彼の顔を見上げた。それから、欠けた耳をひとつ振って、墓石のあいだへ、とことこと歩いていった。

トメの足もとへ。

トメは、ゆっくりと、腰をかがめた。皺だらけの手を伸ばし、猫の背を撫でた。猫は、目を細めた。

老婆の手は、猫の背を、通り抜けなかった。

六

どのくらい、そうしていたのか分からない。

雨はまた止んでいた。墓地の杉の梢から、ときおり、大きな滴が落ちてきた。どこか遠くで、寺の鐘がひとつ鳴った。五時だった。

トメは、墓石の台座に腰をおろし、膝の上に猫を乗せていた。猫はそこで丸くなって、眠っていた。

蓮は、立ち上がれないまま、それを見ていた。

「影さん」とトメが言った。「あんた、今、何かしようとしたんでしょう」

蓮は答えなかった。

「顔色が、紙みたいですよ」

老婆の声には、責める響きがなかった。それが、何よりも蓮を打ちのめした。

責めてくれればいい、と彼は思った。怒鳴ってくれればいい。お前が私をこうしたのだと、指をさして、泣きわめいてくれればいい。そうすれば、自分は罰を受ける側に立てる。数えられる側に。罰せられる者として、少なくとも、ひとつの勘定の中に入ることができる。

けれども、トメは責めなかった。

トメは、猫の背を撫でながら、ぽつりと言った。

「切るのは、一瞬だったんでしょうねえ」

蓮は顔を上げた。

「あたしのときも。何か、ぷつん、と。痛くもなんともなかった。気がついたら、小夜があたしの前を素通りしてた」

老婆は、しばらく黙った。

「戻すのは、そうはいかないんでしょう」

それは問いではなかった。

蓮は、何か言おうとした。すみません、でも、必ず、でもなく。何か、言葉にならないものを。しかし喉から出たのは、かすれた息だけだった。

「いいんですよ」とトメは言った。「あたしは、もう、いいんです。ただ、ね――」

老婆はそこで言葉を切った。膝の上の猫を見下ろし、それから、墓地の向こう、谷中の屋根の連なる方角を見た。質屋のある方角を。

その先を、トメは言わなかった。

蓮には、それが何なのか、分かっていた。分かっていて、聞かなかった。聞いてしまえば、それもまた、ひとつの借りになる。そして自分には、もう、返せる当てのない借りばかりが増えていく。

胸のポケットで、小夜から預かった封筒が、雨を吸って重くなっていた。

郵便局は、もう閉まっている時刻だった。

蓮は、ようやく立ち上がった。膝が笑った。胸の罅は、もう痛まなかった。痛まないことが、かえって恐ろしかった。痛みというのは、少なくとも、そこに何かがあるという知らせだ。削られた場所は、痛みさえ返してこない。

彼は、自分が、誰かに数えられていない一匹の猫のために、自分の中の何かを差し出そうとして、そして、差し出すことさえできなかったのだということを、ゆっくりと理解した。

切るのに、権利はいらなかった。少なくとも、彼はそう思いこんで切った。

返すのには、権利がいるのだ。そして、その権利がどこにあるのか、彼は知らなかった。

七

墓地を出るころには、日はすっかり暮れていた。

谷中の坂道に、ひとつ、またひとつ、街灯がともった。古い木造の家々の窓に、夕餉の明かりが揺れていた。どこかの家で、魚を焼く匂いがした。どこかの家で、子どもが叱られていた。どこかの家で、ラジオが野球の結果を告げていた。

蓮は、その一つ一つを、数えるように聞いた。

あの家には人がいる。あの窓にも。あの匂いの向こうにも。誰もが、誰かに数えられている。叱られる子どもは、叱る母親に。野球の結果を聞く男は、たぶん、その結果に賭けていた誰かに。

自分は。

自分は、まだ数えられているのだろうか。

母の手紙が、胸のポケットで、封筒と重なっていた。母は、自分を数えている。質に入れた時計のことも知らずに、ご飯はちゃんと食べていますか、と書いている。その一行があるかぎり、自分は、まだ。

けれども、さっき、ほんの一拍、母の顔が結ばなかった。

もし、あの一拍が、二拍になり、三拍になったら。

蓮は足を速めた。

うしろから、小さな足音がついてくるのが分かった。ひとつではなかった。老婆の、草履を引きずるような足音と、それよりもっと軽い、爪が石畳に当たる、かすかな音。

トメは、猫を連れてきたのだった。

蓮は振り返らなかった。振り返れば、何か言わなければならない気がした。

三崎坂の途中で、蓮はふと、足を止めた。

何かが、おかしかった。

最初、それが何なのか分からなかった。坂の上の街灯は、変わらずともっていた。家々の窓も明るかった。何も、変わってはいなかった。

それから、気づいた。

音が、なかった。

魚を焼く音も、子どもの泣き声も、ラジオも、聞こえなかった。風もなかった。さっきまで杉の梢から落ちていた滴の音も。遠くの電車の音も。蓮自身の足音さえ、足を止めたのだから当然なのだが、それとは違う意味で、どこにもなかった。

空気が、止まっていた。

止まっている、という言葉しか浮かばなかった。冷たいのでも、重いのでもなかった。ただ、動くということを、空気がやめていた。蓮が息を吸うと、空気は肺に入ってきた。けれども、それは流れこんできたのではなかった。最初から肺の中にあったかのように、そこにあった。

街灯の光が、揺れていなかった。

光は、もともと揺れないものかもしれない。けれども蓮は、生まれて初めて、光が揺れていないということを、見た。その光に照らされた雨上がりの水たまりも、表面に、さざなみひとつ立てていなかった。いや、さざなみどころではない。坂の上の家の軒から、ひと滴の水が、落ちかけたまま、宙に止まっていた。

蓮は、自分の糸を見ようとした。

糸は、あった。上へ伸びていた。けれども、その糸が、ほんのかすかに、震えていた。怯えるように。あるいは、何かを待つように。

足もとで、猫が、低く唸った。

トメは、蓮のすぐうしろで立ち止まっていた。老婆の息が、はじめて、乱れていた。

「……影さん」とトメは囁いた。「なんですか、これは」

蓮は答えられなかった。

坂の上、いちばん高い街灯の、その光の届くか届かないかの境に、誰かが立っていた。

細い人影だった。女のように見えた。黒い羽織の裾が、止まった空気の中で、揺れてもいないのに、揺れているように見えた。顔は、光の外にあって、見えなかった。

ただ、蓮には、分かった。

その人影には、糸がなかった。

白解のように、糸の在るべき場所に何かが埋められているのではなかった。糸が切れているのでもなかった。そうではなく、蓮がこれまで見てきたすべての糸が、あの人影のほうから見れば、ずっと下のほうに垂れ下がっているのだ、と。そういうふうにしか、感じられなかった。

宙に止まった水の滴の向こうで、人影が、ゆっくりと、こちらへ一歩を踏み出した。

谷中の夜が、音もなく、蓮の足もとから、遠ざかりはじめた。

◇ (第四章 了) ◇

第五章 番人

◇ ◆ ◇

一

遠ざかる、という言葉は正しくなかった。

蓮の足は、坂の石畳の上に、確かに立っていた。靴底には、雨を吸った石の、ざらりとした冷たさがあった。膝も、腰も、どこも揺れてはいなかった。落ちているのでも、浮いているのでもなかった。それなのに、夜のほうが、蓮の足の下から、少しずつ、少しずつ、抜けていった。敷きものを誰かが静かに引くように。引かれているのは石畳ではなく、石畳が「ここにある」ということのほうだった。

蓮は、宙に止まった水の滴を見た。

滴は、軒の端から指一本ほど離れたところで、丸く膨らんだまま、そこにあった。街灯の光が、その小さな球の中に、逆さまの坂を映していた。逆さまの坂の上に、逆さまの黒い人影が、爪の先ほどの大きさで立っていた。

人影は、もう一歩、踏み出した。

音はしなかった。下駄だったのか、草履だったのか、それとも裸足だったのか、蓮には分からなかった。足音がないのではなかった。足音というものが、その人の歩みのところまで、届いていないのだった。

光の縁を越えて、顔が見えた。

女だった。若いとも、老いているとも言えなかった。白い、というより、色を決めることを忘れた顔だった。切れ長の目は、蓮のほうを向いていた。向いていたが、見てはいなかった。蓮の肩の少し向こう、坂の下の、谷中の家々の屋根のさらに向こうの、どこでもない一点に、その目は置かれていた。

黒い羽織の下は、鼠色の着物だった。帯は細く、結び目は小さかった。どれも古かった。古い、というのは、流行りの話ではない。百年前の品という意味でもない。ただ、この着物が一度も新しかったことがない、というような古さだった。

「……」

蓮は、何かを言おうとした。喉は動いた。息も出た。けれども、声は、口の外へ出たところで、止まった空気の中に置かれたまま、どこへも行かなかった。自分の声が、自分の唇の一寸先に、滴と同じように浮かんでいるのが、蓮には感じられた。

女が、口を開いた。

「ここか」

その声は、止まった空気の中を、何の差し支えもなく通ってきた。低くも高くもなく、冷たいとさえ言えなかった。冷たさというのは、温かいものと比べたときに生まれるものだからだ。その声は、何とも比べられていなかった。

「狭い」と女は言った。

誰に言ったのでもなかった。蓮にでも、トメにでも、猫にでもなかった。まるで、古い簞笥の引き出しを開けて、中の埃を見て言うような、言い方だった。

蓮は、その言い方に、覚えがあった。

質屋の蔵の奥で、サヨが、流れた品の箱を開けるときの顔だった。帳簿と照らし合わせ、指先で埃を払い、値のつかないものを、黙って脇へよける。あのときのサヨの顔には、冷たさはなかった。ただ、品物が、品物としてしか、そこになかった。

けれども、サヨは、少なくとも、箱を開けた。開けて、中を見た。値がつかなくても、一度は手に取った。

この女は、と蓮は思った。この女は、箱を開けてさえいない。開けなくても、中身が分かっている。分かっていて、それが、どうでもいいのだ。

祖父の懐中時計が、胸のポケットの中で、急に重くなった気がした。秒針の音は、していなかった。時計まで、止まっていた。

二

蓮のうしろで、トメが、かすかに身じろぎした。

身じろぎした、と蓮には感じられた。けれども、振り向いて見ると、老婆は、さっきと寸分違わぬ姿勢で、そこに立っていた。口を半ば開き、手を胸のあたりに上げかけて。その手が、途中で止まっていた。息を吸いかけたまま、トメは止まっていた。足もとの猫もそうだった。背中の毛を逆立て、牙を剝きかけて、その唸り声の形のまま、猫は止まっていた。

動いているのは、蓮と、女だけだった。

いや、と蓮は思った。自分は、動いているのだろうか。

蓮は、右手を持ち上げてみた。手は上がった。指も曲がった。けれども、その動きには、どこか、許されている、という感触があった。自分の力で動かしているのではない。動かすことを、今だけ、見逃してもらっている。そういう手触りだった。

「……トメさん」

今度は、声が出た。出たが、トメには届かなかった。老婆の皺の深い頬は、蓮の声を受けても、ぴくりともしなかった。

女は、坂の途中で足を止めた。蓮から、三間ほどの距離だった。

そこで初めて、女は、蓮のほうへ目を落とした。落とした、という言い方が、いちばん近かった。見上げるのでも、向き合うのでもなかった。井戸の底を覗く人のように、女は蓮を見た。

「これが、そうか」

「……あなたは」

「うるさい」

怒っているのではなかった。女の声には、苛立ちすらなかった。ただ、耳もとで羽虫が鳴ったときに、人が思わず言う、あの程度の、あの重さの「うるさい」だった。

蓮は、口をつぐんだ。

つぐんだあとで、自分がそうしたことに気づいて、蓮は、胸の底が熱くなるのを感じた。恥ずかしさだった。いや、恥ずかしさよりも、もっと古い、もっと子どもっぽいものだった。叱られた子どもが、叱られたことよりも、言うことを聞いてしまった自分に腹を立てる、あの熱さだった。

「僕に、何の用ですか」

蓮は、もう一度言った。声は、自分で思ったよりも、震えていなかった。

女は、答えなかった。

答えるかわりに、女は、右手を、胸の前にゆっくりと上げた。袖が、止まった空気の中を、何の抵抗もなく滑った。その手のひらは、上を向いていた。何かを載せているような形だった。けれども、手のひらの上には、何もなかった。

何もない、と蓮は思った。

そして、その「何もない」を見つめているうちに、蓮の背中を、冷たいものが這い上がってきた。

何もないのではなかった。

女の手のひらの上には、何かがあった。あったのだが、それは、あまりにも軽かった。軽すぎて、そこにあるということが、目にも、心にも、引っかからないのだった。

女は、その手のひらを、ほんの少し、傾けた。

そのとき、坂の下の、谷中の家々の灯りが、ひとつ残らず、かすかに傾いた。

三

傾いた、というのは、目の錯覚ではなかった。

蓮は見た。坂の下の、瓦屋根の並びが、ちょうど盆の上の水が揺れるように、一度だけ、斜めになった。遠くの五重塔の跡の暗がりも、墓地の卒塔婆の列も、日暮里の駅のほうの、白い蛍光灯の帯も。それらがすべて、女の手のひらの傾きに合わせて、ほんのわずかに、同じ角度だけ、傾いた。

そして、戻った。

音はしなかった。瓦の一枚も落ちなかった。軒の滴も、宙に止まったまま、動かなかった。けれども、蓮には分かった。いま、この女は、谷中を、東京を、いや、もしかすると、蓮がこれまで「世界」と呼んできたものの全部を、手のひらに載せて、傾けてみせたのだ。

重さを確かめるように。

そして、その重さが、ないことを、確かめたのだ。

「……それは」

蓮の声は、かすれていた。

「それは、何ですか」

女は、手のひらの上を、見もしなかった。

「おまえの、ぜんぶだ」

女は、それだけ言った。説明する気は、少しもないようだった。説明するほどのことでもない、という言い方だった。

蓮は、自分の糸を見た。

糸は、上へ伸びていた。いつものように、頭の上の、どこか見えない高いところへ。けれども、今夜の糸は、震えていた。震えながら、その先が、女のほうへ、わずかに傾いでいた。まるで、あの人の手のひらの上へ、自分から載りに行こうとしているように。

蓮は、糸の先を、目で追った。

糸は、上へ、上へ伸びていた。蓮がこれまでに見たどんな糸よりも、高く。そして、その糸の、いちばん高いところ、蓮の目がやっと届くか届かないかの、その果てのさらに向こうに、女の、足の裏があった。

そういうふうにしか、言いようがなかった。

蓮の糸がどこまで伸びても、それは、女の立っている床の、その下で終わっていた。蓮の糸だけではなかった。トメの糸も、猫の糸も、坂の下で眠っている何百、何千という人々の糸も、そして、あの晩、下宿の前で蓮が「数えない」と決めた、あの男の、今はもうない糸も。すべてが、女の足もとの、そのずっと下に垂れていた。

女の足もとから見れば、それらは、垂れているとさえ言えないのかもしれなかった。

蓮は、ふいに、ひとつの算術を思い出した。中学の教室の、黒板の、チョークの粉のにおいとともに。どんな数に零を掛けても、零になる。一でも、百でも、千でも、兆でも。数えきれないほどの数でも。

この人の前では、と蓮は思った。僕たちは、みな、掛けられたあとの数なのだ。

女は、蓮が何を考えたのか、知っているようには見えなかった。知る必要もないという顔だった。

四

「名を」と女が言った。

蓮は、一瞬、自分に名を問われたのだと思った。

「影、蓮です」

「おまえの名など、聞いていない」

女は、手のひらを下ろした。坂の下の灯りは、もう傾かなかった。

「わたしの名を、おまえは持っていない。持たせてやる。落とすな」

女は、そう言って、わずかに顎を上げた。

「夷隅」

その二音が、止まった空気の中に置かれた。蓮の声のように浮かぶのではなかった。置かれたのだった。石を、畳の上に置くように。そして、その名は、蓮の耳に入り、胸の中に入り、そこで、奇妙な重さを持った。女自身には、少しの重さもないのに、その名だけは、重かった。蓮が持てるように、わざわざ重さをつけて渡されたのだと、蓮には分かった。

「……夷隅、さん」

「さんは要らない」

「なぜ、ここへ」

夷隅は、答えるかわりに、坂の上のほうを、ちらりと見た。そこには、何もなかった。夜の空と、止まった雲と、電線が一本、ゆるく垂れているだけだった。

「下で」と夷隅は言った。「誰かが、ないものを取った」

「ないもの」

「権利だ」

夷隅の声は、変わらなかった。天気の話をするのと同じ調子だった。

「数えない、という権利。下の者が、そんなものを持っているはずがない。持っているはずのないものを、誰かが持った。持った、というより、ないところから引き抜いた。引き抜かれたところに、穴が開いた。穴は、上から見える」

夷隅は、初めて、蓮の顔を、まっすぐに見た。

それは、見た、というより、蓮という一点の上で、目の焦点を合わせてやった、という感じだった。望遠鏡の筒を回して、ぼやけていたものを、ようやく一つの形にする人のように。

「それが、おまえだ」

蓮は、何も言えなかった。

言えなかったのは、夷隅が怖かったからではなかった。怖かった。ひどく怖かった。けれども、それ以上に、蓮の胸を締めつけたのは、夷隅が、ほんとうのことを言っている、ということだった。

あの晩。下宿の前の、街灯の下。自転車の上の、酒臭い男。蓮は、あの男を、数えないことにした。そうして、男は、誰にも数えられなくなった。大家も、警官も、男の妻さえも。

あのとき、蓮は、自分に権利があると思っていた。上にいる者は、下にいる者を、数えないでいいのだと。自分は、少しだけ上にいるのだと。「零について」を書いた夜、蓮は、それを論理として書いた。論理は、美しかった。蓮は、その美しさを、権利と取り違えた。

「……僕は」

蓮は、やっと言った。

「僕は、上にいると、思ったんです」

夷隅の目が、ほんの少しだけ、細くなった。笑ったのではなかった。何かの、あまりにも小さなものを、よく見ようとしたのだった。

「上」

夷隅は、その一語を、口の中で転がした。まるで、子どもが砂場で作った山を指さして、これが富士山だ、と言うのを聞いた人のように。

「おまえの上は、わたしの床の、裏にも届かない」

五

そのとき、蓮の中で、何かが、反りかえった。

なぜそうしたのか、蓮には、あとになっても、うまく説明できなかった。恐怖が極まって、裏返ったのかもしれない。あるいは、あの「うるさい」の熱さが、まだ胸の底にくすぶっていたのかもしれない。それとも、ただ、自分の書いた論理が、目の前で、砂の山のように扱われたことに、蓮の中の、いちばん醜い部分が、我慢できなかったのかもしれない。

蓮は、夷隅の糸を探した。

ないのは、分かっていた。坂の上に立ったときから、分かっていた。それでも蓮は、探した。あの晩、酒臭い男の糸をつまんだときのように、目の奥で、指を伸ばした。この女の、在るべきところを。数えるべきところを。数えないでいい、ところを。

指は、何にも触れなかった。

触れなかった、というより、伸ばした指が、どこまでも伸びて、伸びて、伸びきったところで、それでもまだ、夷隅の足の裏の、はるか下にあった。高い塔の天辺に手を伸ばす蟻のように。いや、蟻は、少なくとも塔を見上げることができる。蓮には、見上げる、ということすら、できなかった。見上げる先が、蓮の目の届く高さには、なかったのだ。

夷隅は、動かなかった。

ただ、ひとつ、ため息のようなものを吐いた。それは、ため息ではなかったのかもしれない。けれども蓮には、そう聞こえた。

「やめておけ」

そう言って、夷隅は、左手の、人差し指を、ほんの少しだけ、持ち上げた。

その瞬間、蓮の左手が、消えた。

消えた、のではなかった。蓮の左手は、そこにあった。手首から先は、確かに、袖の先についていた。五本の指も、爪も、中指の付け根の小さな傷痕も、みんな見えていた。

けれども、それは、もう、蓮の手ではなかった。

蓮は、それを動かそうとした。動かなかった。動かないのではなかった。動かそうとする蓮の意志が、その手のところで、ふっと、行き先を失うのだった。まるで、ずっと昔に失くした手を、まだあると思って動かそうとする人のように。いや、逆だった。手は、ある。あるのに、蓮の中の、どこにも、その手が数えられていなかった。

蓮は、自分の左手を見つめた。

見つめれば見つめるほど、その手は、そこにあった。そして、そこにあればあるほど、それは、どうでもよかった。痛くもなかった。怖くもなかった。怖くないということが、何よりも怖かった。

あの男も、と蓮は思った。

あの男も、こうだったのだ。

息が、うまく吸えなかった。止まった空気のせいではなかった。

「一本でいい」と夷隅は言った。「分かるには」

夷隅の人差し指が、下りた。

蓮の左手が、戻った。

戻った、と蓮には分かった。指の先に、血が通う感じがした。爪の下が、じんと痺れた。中指の傷痕が、急に、自分のものとして、なつかしくさえ思えた。蓮は、左手を右手で握りしめた。握りしめた手が、震えていた。

夷隅は、それを、見てもいなかった。

六

「おまえを、ここで消すのは、易しい」

夷隅は言った。易しい、という言葉にさえ、力は入っていなかった。

「消す、という言い方も、正しくない。おまえは、残る。ここに立って、息をして、あの婆に茶でも淹れてもらう。ただ、誰も、おまえを数えない。おまえ自身も」

蓮は、左手を握りしめたまま、夷隅を見た。

「……それを、しないんですか」

「しないとは、言っていない」

夷隅は、坂の上の、止まった滴に、ちらりと目をやった。

「おまえが取ったものは、おまえを消しても、戻らない。穴は、穴のまま残る。それでは、困る」

困る、という言葉を、夷隅は、少しも困っていない声で言った。

「では、どうすれば」

「それを、ここで話すつもりはない」

夷隅は、蓮のほうへ、もう一歩、近づいた。

距離が、二間になった。蓮は、そのとき初めて、夷隅からは、何のにおいもしないことに気づいた。雨上がりの谷中の夜は、においに満ちていた。濡れた土、苔、墓地の線香の残り香、どこかの家の蚊遣りの煙、ドブの澱んだ水。それらのにおいが、夷隅のまわりでだけ、ぷつりと切れていた。においが遮られているのではなかった。夷隅のいる場所まで、においが、上がってこられないのだった。

「あの紙」と夷隅は言った。

蓮は、一瞬、何のことか分からなかった。

「おまえが書いた、あの紙。零について、と題をつけた」

蓮の喉が、ひとりでに鳴った。あの原稿を読んだ者は、この世に数えるほどしかいなかった。大学の、埃っぽい研究室の教授と。それから、あの帽子の男と。包み紙の端に「鑓水、拝見。」と、細く几帳面な字で書き添えていった、あの男と。

「読んだんですか」

「読むほどのものではない」

夷隅は、そう言った。けれども、その言い方は、読んだ、ということを、少しも否定していなかった。

「下の者は、ときどき、ああいうものを書く。上の景色を、下の言葉で。たいていは、間違っている。間違っているから、害がない」

夷隅は、そこで、言葉を切った。

「おまえのは、半分だけ、合っていた」

蓮は、何も言えなかった。褒められたのではない、ということだけは分かった。半分だけ合っている地図を持って、崖の縁を歩く者を見るような、そういう目で、夷隅は、蓮を見ていた。いや、見てもいなかった。蓮の頭の上の、糸の震えているあたりを、ただ、眺めていた。

「合っている半分で、おまえは戸を開けた。間違っている半分で、それを自分の戸だと思った。戸は、おまえのものではない。この下の、誰のものでもない」

遠くで、何かが、鳴ったような気がした。寺の鐘か、電車の警笛か。けれども、それも、鳴りかけたところで、止まった空気の中に置かれて、どこにも届かなかった。

「ここは、狭い」

夷隅は、さっきと同じことを、もう一度言った。

「狭すぎて、話ができない。おまえの言葉は、ここでは、みな、ここの重さに引っ張られる。わたしの言葉は、ここでは、軽すぎて、おまえに届く前に、半分が抜ける」

蓮は、トメを振り返った。

老婆は、まだ、手を胸の前に上げかけたまま、止まっていた。その目は、蓮を見ていた。いや、蓮がさっきまでいた場所を見ていた。そこに、心配の色が、凍りついていた。

「トメさんは」

「知らない」

「猫は」

「知らない」

夷隅の答えは、どちらも、同じ重さだった。いや、同じ軽さだった。

蓮は、奥歯を嚙みしめた。

「……この人は、僕の、知り合いです」

言ってから、蓮は、自分がなぜそんなことを言ったのか、分からなかった。トメは、知り合いと呼べるほどの者ではなかった。いつのまにかうしろにいて、ついてくる、よく分からない老婆だった。帳簿のどこにも載っていない、誰にも数えられていない、名前だけの老婆だった。

それでも、蓮は、言った。言わずにはいられなかった。

「この人に、何もしないでください」

夷隅は、蓮を見た。

今度は、焦点を合わせる、というのでもなかった。ほんの一瞬、夷隅の目が、蓮の上で、何かに引っかかったように、止まった。

「おまえは」と夷隅は言った。「それを、数えているのか」

「……はい」

「誰も数えていないものを」

「はい」

夷隅は、何も言わなかった。

長い沈黙だった。止まった時間の中で、長い、という言葉が何を意味するのか、蓮には分からなかった。けれども、それは、長かった。宙の滴が、落ちないまま、ひとつの季節を越したような気がした。

「妙なものだ」

夷隅は、やっとそれだけ言った。

それから、夷隅は、右手を、もう一度上げた。今度は、手のひらを、下へ向けて。

七

「来い」と夷隅は言った。「下で話す」

「下?」

蓮は、思わず訊き返した。上ではないのか、と思った。この人は、上から来たのではないのか。

夷隅は、答えなかった。

手のひらが、蓮の頭の上に、かざされた。触れてはいなかった。三寸ほど離れていた。それなのに、蓮は、その手のひらの下で、自分が、ひどく小さくなっていくのを感じた。縮んでいくのではなかった。蓮の大きさは、少しも変わらなかった。ただ、蓮のまわりの、谷中が、東京が、夜空が、そのすべてが、夷隅の手のひらの影の中で、どんどん、どんどん、軽くなっていった。

軽くなって、薄くなって、それでも、消えはしなかった。

石畳は、そこにあった。街灯も、止まった滴も、トメも、猫も。みな、そこにあった。あるままで、蓮の足の下から、するりと抜けていった。

「待ってください」と蓮は言った。「サヨさんが」

なぜ、その名が出たのか、分からなかった。店の帳場で、茶碗を二つ並べて、茶を注ぐ、あの白い手が、ふいに、目の奥に浮かんだ。二つめの茶碗から、湯気が、誰にも飲まれないまま、立ちのぼっていく。

夷隅の手のひらが、ほんの少し、下がった。

「数えておけ」

夷隅の声が、遠くから聞こえた。すぐ頭の上から聞こえているはずなのに、それは、井戸の底から見上げた、はるかな口のほうから、降ってくるようだった。

「落ちたあとで、まだ、数えられるなら」

そして、夷隅の手が、下りた。

蓮は、落ちた。

落ちる、という感覚は、なかった。風もなかった。胃の腑が浮き上がるような、あの嫌な感じもなかった。ただ、蓮の立っていた「ここ」が、ひとつ、下へずれた。そして、また、ひとつ。また、ひとつ。階段を踏み外すのとは違った。階段そのものが、蓮の足の下で、一段ずつ、「ない」ほうへ、畳まれていった。

一段畳まれるたびに、何かが、蓮の上に残った。坂のにおい。石の冷たさ。トメの、乱れかけた息。それらは消えなかった。ただ、蓮の頭の上の、手の届かないところへ、ひとつずつ、置き去りにされていった。見えているのに、もう、蓮の足もとには、ないのだった。

最後に見たのは、宙に止まった、あの水の滴だった。

滴の中の、逆さまの坂の上に、もう、黒い人影はなかった。かわりに、ひどく小さな、蓮自身が、逆さまに映っていた。

その小さな蓮が、滴ごと、上へ、上へ、遠ざかっていった。

いや、違う、と蓮は思った。遠ざかっているのは、滴ではない。

落ちているのは、谷中ではない。

蓮の糸が、ぴんと、張った。どこか、ずっと上のほうで、何かに引っかかったように。その張りつめた一本だけが、蓮を、蓮として、つなぎとめていた。

そして、その糸の先で、夜が、閉じた。

◇ (第五章 了) ◇

第六章 かけら

◇ ◆ ◇

一

落ちた、と蓮は思った。

けれども、それは落ちるということとは、どこか違っていた。落ちるためには、上と下が要る。落ちてゆくあいだの時間が要る。風を切る音が要り、胃の腑の浮きあがるあの嫌な感じが要る。そのどれもが、なかった。夷隅という名の女が、ほとんど手も動かさずに、ただ蓮のほうへ一歩を踏み出した、その一歩のうちに、谷中の夜は蓮の足もとから剥がれ、剥がれたと思ったときには、もう、蓮は「ここ」にいた。

ここ、と言っていいのかどうかも、蓮には分からなかった。

目を開けている、と思った。それから、目を開けているのかどうか確かめようとして、瞼に触れようとした。手が、あった。指が、あった。指は瞼に触れた。触れた感じは、たしかに、した。けれども、その手がどこにあるのか、と問うと、答えがなかった。手は、どこにも、なかった。在るのに、置かれていなかった。

蓮は、長いあいだ、身じろぎもせずにいた。

長いあいだ、と書くのは、正しくないのかもしれない。蓮は、胸のポケットの中の、祖父の懐中時計のことを思い出した。取り出して、蓋を開けた。文字盤は、見えた。針も、見えた。秒針は、十一時四十七分の、十九秒と二十秒のあいだに、ちょうど掛かったまま、震えてもいなかった。止まっているのではなかった。止まる、ということは、動いていたものが、ある時から動かなくなることだ。ここには、その「ある時」が、なかった。秒針は、止まってもおらず、進んでもおらず、ただ、数えられていなかった。

蓮は時計の蓋を閉じた。かちり、という小さな音が、した。したように、思えた。その音が、どこへも響いてゆかなかった。音は、生まれたところで、そのまま、終わっていた。

息を吸った。胸が、ふくらんだ。けれども、何かが入ってきたのではなかった。吐いた。何かが出てゆくのでもなかった。広さが、なかった。狭いのでもなかった。狭さというものは、壁があって、はじめて感じられる。ここには、壁も、壁のないことも、なかった。

蓮は、恐ろしいと思った。

そして、その恐ろしさが、自分のうちで、ちゃんと重さを持っていることに、かすかに驚いた。恐ろしさだけが、ここで、場所を持っていた。

蓮は、自分の糸を探した。

谷中の路地で、蓮は、いつも、他人の糸ばかりを見てきた。自分の糸を、まともに見ようとしたことは、なかった。見るのが、怖かったのかもしれない。それが、トメの糸より、ほんの少しでも上に伸びているのかどうか、確かめるのが。

今、蓮は、はじめて、自分の胸のあたりに、目を凝らした。

糸は、あった。細く、頼りなく、上へ伸びていた。けれども、その糸もまた、ここでは、どこにも結ばれていなかった。どこにも向かっていなかった。上へ、と言っても、その「上」が、ここには、なかった。

糸があるのに、その糸が、何の順番にも、並んでいなかった。

蓮は、ふと、あの夜のことを思い出しかけて、あわてて、その記憶を押しのけた。まだ、だめだ、と思った。まだ、そこまでは、見られない。

かわりに、蓮は、夷隅の一歩を思い出した。あの女は、手も動かさなかった。蓮に、触れもしなかった。ただ、一歩を、こちらへ。それだけで、谷中の夜は、蓮の足もとから、剥がれていった。まるで、蓮という一人の人間が、あの女にとっては、どこに置いても、どこから取り除いても、同じことであるかのように。

その思いが、蓮の喉を、細い針金のように、締めつけた。

二

はじめに見えたのは、灯りだった。

小さな、黄色い、滲んだ灯り。電球の笠に、茶色い染みがひとつある。蓮は、それを知っていた。知っている、と思うより先に、胸の奥が、きゅっと縮んだ。

小夜の、質屋の、帳場の灯りだった。

灯りの下に、小夜がいた。背を丸めて、帳面に何かを書きつけている。その手が、止まっていた。筆の先の、墨の一滴が、紙に落ちる寸前のところで、止まっていた。蓮の時計の秒針と、同じところで。

遠い、と蓮は思わなかった。近い、とも思わなかった。小夜は、すぐそこにいるのでも、遥か彼方にいるのでもなかった。それでいて、見えた。睫毛の一本一本までが、見えた。帳場の机の上に、湯呑みが、二つ、並んでいるのが見えた。ひとつは小夜の。もうひとつは、誰のためでもない、けれども毎晩注がれる、あの湯呑み。

その湯気さえ、止まっていた。

蓮は、目を離そうとした。離れなかった。離れる、ということが、ここにはなかった。小夜から視線を外すと、そこには、谷中の坂があった。宙に吊られたままの雨粒があった。濡れた石段があった。墓地の卒塔婆の列があった。猫がいた。あの、蓮が二度見つけた猫が、塀の上で、耳を伏せていた。

それから、屋根が見えた。町が見えた。東京の、無数の灯りが見えた。海が見えた。夜の側と昼の側に分かれた地球が見えた。月が見えた。月の向こうの、黒い空が見えた。星が、見えた。

星は、多かった。多い、という言葉が、恥ずかしくなるほど多かった。銀河が、渦を巻いたまま、渦巻くことをやめていた。その向こうに、また銀河があった。その向こうに、また。

そして、糸。

すべてのものから、糸が、上へ伸びていた。小夜から。猫から。雨粒の、ひとつひとつから。星の、ひとつひとつから。蓮がこれまで谷中の路地で見てきた、あの細い、白い、震える糸が、数えきれないほど、上へ、上へと伸びて、その先は、見えなかった。

それが、すべて、ここに、あった。

蓮は、そのとき、ようやく、分かりかけた。

宇宙が、小さくなって、ここに入っているのではなかった。遠くにあって、ここから覗かれているのでもなかった。宇宙は、そのままの大きさで、そのままの遠さで、ここにあった。あって、しかも、ここの中で、何も占めていなかった。ほんのわずかも、ではない。わずかというのは、まだ、量だ。そうではなく、宇宙のすべてが、ここにとっては、ただ、数に入っていなかった。

もし、と蓮は考えた。考えずには、いられなかった。

もし今、あの銀河のひとつが、消えたら。

ここは、何ひとつ、変わらないだろう。

もし今、あの銀河と同じものが、もうひとつ、いや、百、千、数えきれないほど、加わったら。

ここは、やはり、何ひとつ、変わらないだろう。

小夜の灯りが消えても。小夜の灯りが、千倍に明るくなっても。

何も。

蓮は、吐き気をこらえた。吐き気は、あった。胃が、どこにもないのに、胃がひっくり返った。

なぜなら、蓮は、その「何も」を、知っていたからだ。

はじめて見るものではなかった。

三

あの夜。

谷中の、あの細い路地。月の出ていない夜だった。蓮は、トメの糸を、見ていた。老婆の、痩せた、けれども驚くほどまっすぐな糸。蓮は、手を伸ばした。何をしようとしたのか、蓮は、今でも、言葉にできなかった。ただ、試したかった。自分が、本当に、そういうことができるのかを。自分が、そういうことをしてもいい者なのかを。

そして、蓮は、トメを、数えなかった。

殺したのではなかった。トメは、今も、生きている。今も、蓮のうしろを、黙って、ついて歩いている。朝には蓮より早く起き、蓮が出かけると、少し離れて、同じ道を歩く。けれども、商店街の魚屋は、トメに釣り銭を渡さない。巡査は、トメに道を尋ねない。小夜は、湯呑みを、二つ注ぐ。注ぎながら、なぜ二つなのか、自分でも分かっていない。

蓮は、今、見ていた。この場所が、宇宙に対して、していることを。

それは、蓮がトメにしたことと、同じだった。

いや、と蓮は、打ち消そうとした。同じではない。ここは、場所だ。ここは、ただ、そうなっているだけだ。けれども、自分は、自分の手で、それをしたのだ。

打ち消そうとすればするほど、同じだということが、はっきりした。

トメの目から見た世界が、今、蓮には分かった。自分が、そこにいる。息をしている。腹が減る。寒い。人に話しかける。そして、話しかけられた人の中で、自分が、何も占めていない。嫌われているのでも、忘れられているのでもない。ただ、何かが加わっても変わらないように、自分がいても、変わらない。

蓮は、膝を抱えた。膝が、どこにあるのか分からないまま、抱えた。

「……ばあさん」

声が出た。声は、生まれたところで、終わった。

そのときだった。

何かが、蓮の傍らで、重かった。

蓮は、顔を上げた。

トメが、いた。

ここに。宇宙がまるごと何も占めないこの場所に、小柄な老婆が、いつもの色褪せた紺の絣を着て、蓮の少しうしろに、立っていた。黙って。いつものように。

蓮は、息を呑んだ。

トメは、重かった。

それは、体の重さではなかった。ここには、重さというものがないはずだった。宇宙のすべての星を合わせても、ここでは、羽ほどの重さも、いや、何の重さも、なかった。それなのに、トメだけが、蓮にとって、重かった。蓮の胸の、いちばん奥の、どこか一点を、じっと押していた。

宇宙が、何でもないこの場所で、トメだけが、何かだった。

蓮には、その理由が、分かる気がした。分かりたくない気がした。

世界じゅうが、トメを数えなくなった。そして、蓮だけが、数えることをやめられなかった。やめられなかった、というより、やめる権利が、自分にはないのだと、心のどこかで知っていた。自分がしたことだから。自分だけが、それを、覚えているから。

だから、トメは、蓮にとってだけ、重い。

ここで、ただひとつ。

「影さん」とトメは言った。いや、言わなかったのかもしれない。トメの唇は、動かなかった。それでも、蓮には、聞こえた。「寒くは、ないですか」

蓮は、答えられなかった。

答えのかわりに、涙が出た。涙は、頬を伝った。伝った、と思った。その涙だけは、どこかへ、ちゃんと、落ちていった。

四

トメの重さに、すがるようにして、蓮は、しばらく、じっとしていた。

それから、手を伸ばした。

小夜のほうへ。

なぜそうしたのか、蓮は、あとになっても、うまく説明できなかった。確かめたかったのだと思う。ここが、本当に、何も変えないのかどうか。あるいは、逆に、ここからなら、何かができるのではないかと、どこかで、卑しく、期待したのかもしれない。あの夜、トメに手を伸ばしたときと、同じように。

その考えが胸をかすめた瞬間、蓮は、自分の手を、心の底から、憎んだ。

それでも、手は、伸びていった。

小夜の糸が、見えた。細い、少し撓んだ、けれども切れる気配のない糸。帳場の灯りの下から、まっすぐ、上へ。蓮の指先が、その糸に、触れた。

何も、起こらなかった。

触れた、という感じは、あった。糸の、かすかな温かさまで、あった。それなのに、糸は、揺れなかった。蓮の指が、そこにあることを、糸は、少しも、知らなかった。蓮が、糸を引いても。押しても。握っても。

ここから世界に何をしても、世界の側では、何も、足されも引かれもしないのだった。そして、世界の側で何が起こっても、ここでは、何も。

小さいのではない、と蓮は、あらためて、思った。

蟻が象を見上げるように、自分が大きすぎて世界が見えなくなったのでもない。望遠鏡の向こうの星のように、遠すぎて届かないのでもない。小さいもの、遠いものは、まだ、数えられている。一より小さくても、それは、まだ、何かだ。千里の彼方でも、千里という数が、そこにはある。

ここでは、そういう数が、はじめから、なかった。

蓮は、祖父のことを、思い出した。

祖父は、時計の修理をしていた。店を閉めたあとも、夜遅くまで、机の上の小さな灯りの下で、ピンセットを持っていた。子どもの蓮が、その横で、ばらばらになった歯車を、並べて遊んでいた。

「蓮」と祖父は言った。「どんな小さな歯車でも、一つ抜けたら、時計は止まる」

「こんなに小さいのに?」

「小さいから、だ。小さいものほど、数に入れておかにゃならん」

祖父は、そう言って、笑った。そのとき、祖父の手の中で、この懐中時計が、蓋を開けていたのを、蓮は、覚えている。

ここでは、どんな歯車が抜けても、何も止まらない。どんな歯車を足しても、何も動きださない。

祖父が、ここを見たら、なんと言っただろう。

蓮は、そう考えて、すぐに、考えるのをやめた。答えは、分かっていた。祖父は、何も言わないだろう。ただ、黙って、蓮の手を見るだろう。トメに伸ばした、その手を。

蓮は、糸から、指を離した。離したことも、糸は、知らなかった。

小夜は、変わらず、帳面の上に身をかがめていた。墨の一滴は、落ちる寸前のまま、落ちなかった。二つの湯呑みの湯気は、立ちのぼる途中で、立ちのぼることをやめていた。

蓮は、そのもうひとつの湯呑みを、見つめた。

小夜は、毎晩、あれを注ぐ。誰のためか、分からないまま。蓮は、それが、トメの分だと、知っている。世界が、トメを数えなくなっても、小夜の手だけが、何かを、覚えている。数えるのではなく、ただ、手が、覚えている。

あの湯呑みも、ここでは、何でもなかった。星と同じように。銀河と同じように。

けれども、蓮は、目を離せなかった。

世界の中で、トメのためにだけ注がれる、あの一杯の、止まった湯気から。

すると、背中のうしろで、トメが、少しだけ、身じろぎをした。気配だけで、蓮には、分かった。トメも、あの湯呑みを、見ていたのだった。

蓮は、振り返らなかった。振り返れば、老婆の顔を見なければならなかった。そこに何があっても、蓮には、それを受けとめる資格が、なかった。

かわりに、蓮は、口のなかで、ゆっくりと、数を数えた。

一。二。三。

ここには、時間がない。数えても、何も、進まない。それでも、蓮は、数えた。トメのうしろの気配を、ひとつ、と数えた。小夜の湯呑みを、ふたつ、と数えた。祖父の時計を、みっつ、と数えた。

数えるたびに、声は、生まれたところで、終わった。それでも、蓮は、やめなかった。やめれば、自分も、あの星々と同じ、何でもないものの側へ、すっと、滑り落ちてしまう気がした。

四。五。

数える声だけが、ここで、かろうじて、蓮を、蓮に、つなぎとめていた。

五

「泣くのか」

声は、上から来た。

上、というものが、ここにあったとすれば、だった。蓮は、振り仰いだ。

夷隅が、いた。

黒い羽織。細い体。谷中の坂の上で見たときと、同じだった。ただ、今は、顔が見えた。若い顔だった。若いのに、蓮はその顔を見て、古い、と思った。石のように。石が、人の形をすることを、長いあいだ、耐えてきたように。

糸は、やはり、見えなかった。

「ここは……」

「霊素のかけら」と夷隅は言った。

それだけだった。説明は、なかった。蓮も、それ以上を問わなかった。問うても、自分の知っている言葉では、答えが入りきらない気がした。

夷隅は、蓮を見下ろしていた。見下ろす、という言い方が、ここでは、はじめて、正しかった。この女の前では、蓮は、下にいた。

「おまえは、あの女を、下へ置いた」と夷隅は言った。トメのほうを、見もしなかった。「おまえの糸は、あの女の糸より、ほんの一段も、上ではない。それなのに、置いた」

「……分かっています」

「分かっていない」

夷隅の声には、怒りも、軽蔑も、なかった。冷たかった。冬の井戸の水のように、ただ、冷たかった。

「上にある者が、下にある者を数えない。それは、そうなっている。階は、そういうふうに、できている。わたしたちは、それを守る」

夷隅は、ほんの少し、言葉を切った。

「だが、数えなくてよいという権利は、階の中には、ない」

蓮は、顔を上げた。

「階は、仕組みだ。仕組みは、権利ではない。おまえは、どこにもないものを、取った。取ったものは、返すか、払うか、どちらかだ」

「返す……」蓮の声は、かすれた。「どうやって」

夷隅は、答えなかった。

かわりに、ひとつ、瞬きをした。それが、蓮がこの女の顔の上に見た、ただひとつの、人らしい動きだった。

「それを、おまえが答える」

蓮は、トメを見た。トメは、黙って、立っていた。蓮の少しうしろに。いつもの距離で。

「……払うとしたら、何を」

「それも、おまえが答える」と夷隅は言った。「わたしは、問いだけを運ぶ」

蓮は、しばらく、黙っていた。

それから、どうしても訊かずにはいられないことを、訊いた。

「あなたには……ぼくらは、どう見えているんですか」

夷隅は、すぐには答えなかった。

「ここから見えるように、ですか。星も、小夜さんも、あの猫も、何でもないように」

「そうだ」

夷隅は、あっさりと言った。あまりにもあっさりとしていたので、蓮は、一瞬、自分が何を訊いたのか、分からなくなった。

「おまえたちは、わたしの中で、何も占めない。おまえが千人いても、一人もいなくても、わたしは、変わらない」

「それなら」蓮の声が、ふるえた。「それなら、あなたも、同じじゃないですか。ぼくがトメさんにしたことと」

「同じではない」

「どこが」

「わたしは、それを、権利だと思っていない」

夷隅は、蓮から目を離さなかった。

「わたしは、上にいる。上にいる者の目には、下は、そう見える。そう見えることを、わたしは、選んでいない。雨が、下へ落ちるのを、雨が選ばないように」

夷隅の視線が、ほんのわずか、蓮の首筋のほうへ、動いた。あの、宙に吊られたままの雨粒のことを、言っているのだと、蓮は、思った。

「だが、おまえは、選んだ。選んで、試した。自分が、それをしてもよい者かどうかを」

蓮は、何も言えなかった。

それは、蓮が、誰にも言ったことのない言葉だった。自分自身にさえ、はっきりとは、言ったことのない言葉だった。

「してもよい者など、どこにもいない」と夷隅は言った。「わたしも、含めて」

その最後の一言は、ほとんど、声になっていなかった。

蓮は、夷隅の顔を見た。石のような顔は、何も変わっていなかった。けれども、その一言だけが、この女の中で、どこか、重さを持っているように、蓮には、聞こえた。

トメが蓮にとって重いのと、どこか、似た重さで。

それが何なのか、蓮には、分からなかった。訊いてはいけない気がした。

夷隅は、羽織の袖から、白い、細い手を出した。その手が、蓮の額の前に、かざされた。触れはしなかった。

「おまえは今、見た。あの女が、どこにいるのかを。おまえが、あの女を、どこへ置いたのかを。見たまま、戻れ」

「待ってください」

蓮は、叫んだ。叫んだはずの声は、やはり、生まれたところで、終わった。

「ばあさんは……トメさんは、ここに残るんですか」

夷隅は、はじめて、トメのほうへ、目をやった。

長い、長い、一瞥だった。長い、と言っても、ここには長さがない。それでも、蓮には、長く見えた。

「あの女は、おまえのうしろにいる」と夷隅は言った。「いつも、そうだろう」

手が、下ろされた。

六

音が、した。

ぽつり、と。

蓮は、谷中の坂の途中に、立っていた。

街灯が、じじ、と鳴った。濡れた石段が、光っていた。首筋に、冷たいものが、ひとつ、落ちた。ずっと宙に吊られていた、あの雨粒だった。それが、今、落ちたのだった。蓮の首筋に。何事もなかったように。

続いて、もうひとつ。もうひとつ。雨が、ふたたび、降りはじめた。

蓮は、胸のポケットから、祖父の懐中時計を取り出した。震える指で、蓋を開けた。

十一時四十七分、二十秒。

秒針が、こつ、と、ひとつ進んだ。二十一秒。

一秒も、経っていなかった。あの場所で、どれほどのあいだ膝を抱えていたのか、蓮には分からなかった。けれども、谷中の夜にとっては、一秒も。

足もとで、猫が、鳴いた。

蓮は、振り返った。

トメが、いた。蓮の少しうしろに。紺の絣の肩を、雨に濡らして。黙って。

蓮は、トメを見た。トメは、蓮を見返した。老婆の目は、いつものように、何も責めていなかった。それが、蓮には、何より、こたえた。

トメは、重かった。

ここでも。谷中の、雨の降る、ありふれた坂の上でも。星や、銀河や、糸や、東京じゅうの灯りのあいだで、トメだけが、蓮にとって、やはり、重かった。あの場所から戻っても、それは、少しも、軽くならなかった。

坂の上の、いちばん高い街灯の、その光の届くか届かないかの境に、黒い羽織の裾が、ちらりと見えた。

「答えを、聞きに来る」

夷隅の声だった。雨の音に、混じりもせず、消されもせず、ただ、蓮の耳の中にだけ、置かれた。

振り仰いだときには、もう、誰もいなかった。

答え、と蓮は思った。

返すのか。払うのか。何を、どうやって。夷隅は、何ひとつ、教えなかった。ただ、問いだけを、蓮の手の中に置いていった。祖父が、ばらばらの歯車を、子どもの蓮の手のひらに載せたように。組み立てるのは、おまえだ、と。

蓮は、懐中時計を、胸のポケットに戻した。その重さが、布越しに、心臓のすぐ上にあった。ここでは、時計にも、ちゃんと、重さがあった。雨にも。石段にも。自分の体にも。

それが、今は、ほとんど、ありがたかった。

雨が、降っていた。

蓮は、長いあいだ、坂の途中に立っていた。今度は、たしかに、長いあいだ。時計の秒針が、ひとつ、ひとつ、数えていた。

遠くで、小夜の質屋の灯りが、ともっていた。あの帳場で、今、墨の一滴が、紙に落ちたのだろう、と蓮は思った。湯気が、また、立ちのぼりはじめたのだろう。二つの湯呑みから。

「……帰りましょう」と蓮は言った。

トメは、何も言わなかった。

ただ、蓮が歩きだすと、少しうしろを、同じ速さで、ついてきた。

◇ (第六章 了) ◇

第七章 条件

◇ ◆ ◇

一

二日が過ぎた。

二日、と蓮は数えた。数えることが、今の彼に残された、ほとんど唯一の確かな仕事のように思われた。一日目の朝、彼は目を覚まし、天井の染みを見て、自分がまだ下宿の屋根裏にいることを確かめた。二日目の朝も同じことをした。染みは同じ形をしていた。雨漏りの跡で、どこか、首を傾げた犬に似ていた。その犬が昨日と同じ角度で首を傾げていることに、彼は、みっともないほど安堵した。

あの晩のことを、彼は考えないようにしていた。

考えないようにする、というのは、考えることの一種である。それは蓮にも分かっていた。止まった雨粒。黒い羽織。そして、あの何もない場所――宇宙がまるごと、何ものでもないところに収まっている、あの場所。そこで彼は、自分の体の重さを、はじめて外から見るように感じたのだった。戻されたとき、谷中の坂の上では、時計の秒針がひとつも進んでいなかった。祖父の懐中時計を、彼は何度も耳に当てた。時計は、何ごともなかったように刻んでいた。何ごともなかったように、というのが、いちばん恐ろしかった。

「梯子の中には、ない」

女はそう言った。彼の使った権利は、梯子の中にはない、と。返すか、払うか。答えを聞きに来る、と。

いつ、とは言わなかった。

それで蓮は、生きてみることにした。生きる、というのは、この場合、ごく具体的なことを意味した。朝、顔を洗うこと。階段を下りること。帳場へ顔を出すこと。暑さに汗をかくこと。人がふつうにすることを、ふつうにすること。それが試験のように思われた。誰が採点するのかは分からなかった。

帳場では、小夜が扇風機の前で帳面をつけていた。

「おはようございます、影さん」

彼女は顔を上げて、少し笑った。その笑いには、疲れがにじんでいた。八月の半ばで、質屋の店先は、朝から蒸し風呂のようだった。扇風機は首を振るたびに、ぎい、と鳴いた。

「今日も暑くなりそうですね」

「ええ」

蓮は、帳場の上がり框に腰を下ろした。そうするのが、この数週間の習いになっていた。小夜の手元を見ていると、彼女は流れの期限の来た品を一つずつ帳面から探しだし、朱で小さく印をつけていた。その朱の印の横に、ときどき、彼女の指が止まった。止まって、何かを思い出そうとするように宙に浮き、それから、何も思い出さないまま、次の行へ移った。

「この字」と小夜は言った。「わたしの字じゃないんです」

蓮は黙っていた。

「きれいな字でしょう。細くて、ちょっと右に傾いてて。前の帳面は、みんなこの字なんです。父でも母でもないし。わたし、誰に習ったのかしら」

彼女は首を傾げた。天井の犬と同じ角度だった。

「……昔の、番頭さんかもしれませんね」と蓮は言った。

声は、自分で思ったよりも平らに出た。平らに出たことが、彼の胸を少し悪くした。

「そうかもしれません」小夜はあっさり頷いた。「きっとそうですね」

それから、立ち上がって、奥へ引っこんだ。戻ってきたとき、盆の上には茶碗がふたつ載っていた。

蓮は、その茶碗を見なかった。見なくても、ふたつあることは分かっていた。小夜は、ひとつを蓮の前に置き、もうひとつを、帳場の、誰も座っていない座布団の前に置いた。置いてから、ふと手を止め、自分のしたことを不思議がるように、その茶碗を見下ろした。

「あら。また」

彼女は笑った。

「わたし、このごろ、いつもひとつ多く淹れちゃうんです。暑さのせいかしら」

座布団の上には、誰も座っていなかった。

だが、蓮は知っていた。彼の左の、少し後ろ。上がり框の端に、トメが、いつものように背筋を伸ばして、膝の上で手を重ねていることを。彼女が、自分の前に置かれた茶碗から、そっと目を逸らしていることを。

茶は、ちゃんと湯気を立てていた。

蓮は、自分の茶碗を手に取った。熱かった。熱さが指に伝わり、指から腕へ、腕から胸へと上ってきた。それを、彼は、ひとつひとつ確かめるように感じた。今、自分は茶を飲んでいる。今、自分の喉を、茶が通っていく。そういうことを、いちいち心の中で言葉にしなければ、自分が本当にそれをしているのかどうか、分からなくなりそうだった。あの何もない場所から戻ってきて以来、世界のすべてが、ほんの少し、薄い紙一枚ぶん、彼から離れているような気がした。紙の向こうで、扇風機が鳴り、小夜が帳面をめくり、蝉が鳴いた。彼は、その紙に、指で穴をあけたかった。

小夜は、もうひとつの茶碗を、下げなかった。下げようとして、手を伸ばし、それから、なぜか、やめた。

「……冷めるまで、置いておきます」と彼女は言った。「なんとなく」

蓮は、うなずいた。うなずくことしか、できなかった。

二

昼過ぎ、蓮は郵便局へ出た。小夜に頼まれた用事だった。

暑さは、町の音をみな遠くした。蝉の声さえ、厚い綿の向こうから聞こえてくるようだった。夕焼けだんだんの石段を下りかけたところで、彼は、下から上ってくる丸い帽子を見た。

鑓水恭介は、扇子で顔をあおぎながら、ゆっくりと一段ずつ上ってきた。蓮に気づくと、少しも驚かなかった。まるで、そこに蓮がいることを、階段の段数と同じくらい確かなこととして知っていたかのように。

「やあ、影さん」

「……こんにちは」

「暑いですねえ。この石段、今日数えたら、また一段多かった。暑さで石が伸びるのかもしれない」

鑓水は、蓮の二段下で止まった。そうすると、ふたりの目の高さが、ちょうど同じになった。

「顔色が悪いですね」

「暑いので」

「ええ、暑い」と鑓水は言った。「私もね、この二日ばかり、どうも寝つきが悪くて。妙な晩があったでしょう。一昨日の夜。いや、何があったというわけでもないんですが。ただ、夜中にふっと目が覚めて、時計を見たら、秒針が止まっているように見えた。見ているうちに動きだした。それだけのことです。電池の具合でしょうな」

蓮は、何も言わなかった。胸のポケットで、祖父の時計が、こつこつと、心臓とは別の拍子を刻んでいた。

「そうそう」鑓水は、思い出したように懐を探った。「これ、ご存じですか」

差し出されたのは、四つ折りにした紙だった。蓮は受け取らなかった。受け取らなくても、鑓水は紙を広げて、見えるように持った。

複写だった。何度も複写を重ねたらしく、文字の縁が滲んで、ところどころ黒く潰れていた。それでも、表題は読めた。

「零について」

蓮の、字だった。いや、蓮の書いた文章が、別の誰かの手で、タイプで打ちなおされていた。

「学生さんのあいだで、回っているらしいんですよ」と鑓水は言った。穏やかな声だった。「喫茶店の卓の下とか、古本屋の均一棚のあいだとか。読んだ人が、写して、また誰かに渡す。昔の不幸の手紙みたいにね。私も一部、手に入れて読みました。二度。……いや、三度かな」

彼は紙を折りたたんだ。

「難しい文章ですね。半分も分からなかった。ただ、ひとつだけ、妙に残った文句があって。『数えられないものは、数えなくてよい』。これ、書いた人は、本気でそう思っていたんでしょうかね」

蓮は、鑓水の目を見た。丸い、人のよさそうな目だった。その奥に、何かが、じっと動かずにいた。

「……書いた人に、聞いてください」

「そうしたいんですがね」鑓水は、扇子をぱちりと閉じた。「書いた人の名前が、どの写しにも、ないんです。代わりに、最後に、別の名前が書いてある。写すたびに、誰かが、律儀にその名前まで写していく」

彼は、それが何という名前なのかを言わなかった。言わずに、帽子を少し持ち上げた。

「では、また。水をたくさん飲んでくださいよ、影さん。――お連れさんにも、よろしく」

鑓水は、蓮の横を通りすぎて、上っていった。通りすぎるとき、彼はほんのわずか、体を斜めにした。蓮の左の、少し後ろを、避けるように。

たぶん、本人は気づいていなかった。

三

その晩、トメが口をきいた。

屋根裏は、昼の熱をそのまま抱えこんでいた。窓を開けても、風はなかった。蓮は机に向かって、何も書いていない原稿用紙を前にしていた。何かを書こうとしたのではなかった。ただ、手を置く場所がほしかった。

背後で、畳が、かすかに鳴った。

トメは、いつも音を立てなかった。あの夜から、彼女は蓮の後ろを歩き、蓮の後ろに座り、蓮の後ろで眠るのか眠らないのか分からない夜を過ごしてきたが、一度も、音を立てたことはなかった。音を立てれば、誰かが振り返るかもしれない。そして、振り返った誰かが、そこに何もないことを確かめてしまうかもしれない。彼女は、それを恐れているように見えた。自分のためにではなく、振り返った人のために。

だから、畳が鳴ったとき、蓮は、それがわざとだと分かった。

「影さん」

蓮は振り返らなかった。

「振り返らなくていいんですよ」とトメは言った。「そのほうが、話しやすいでしょう。あんたも、あたしも」

声は、あの晩と同じだった。帳場で、老眼鏡越しに彼を見上げて、「利子は月末でいいですよ」と言った声。しゃがれて、少し意地が悪くて、その意地の悪さの底に、なにか、ひどく柔らかいものを隠している声。

「あたしはね、長いこと考えてたんです。あんたに、何を言おうかって」

蓮は、原稿用紙の上で、指を握った。

恨みごとを言われるのだと思った。当然だった。彼は、この女の数を奪ったのだ。自分の論文が正しいかどうかを確かめるために。梯子の中にない権利を、手のなかに握りしめて。言われるべきことは、いくらでもあった。返してくれ、と言われれば、彼は――返し方を知らなかった。それを告げなければならないことが、何よりも恐ろしかった。

「最初は、怒ってやろうと思いました」トメは言った。「そりゃあね。こんな婆さんでも、腹は立ちますよ。朝起きて、姪っ子に『おはよう』って言ったら、あの子、あたしの顔の横を見て、自分で自分に『おはよう』って返事したんです。あたしの声が、あの子の中で、あの子の声になっちまってた。……あの日は、一日、蔵の中で泣きました。誰にも聞こえませんからね。いくらでも泣けた」

蝉が、一匹だけ、どこかで遅れて鳴きはじめ、すぐにやんだ。

「それから、元に戻してくれって、頼もうと思いました。あんたなら、できるんじゃないかって。やったのがあんたなら、戻すのもあんただろうって」

トメは、少し黙った。

「でも、やめました」

「……どうして」

蓮の声は、かすれていた。自分の声が聞こえたことに、彼は驚いた。

「あんたの顔を見たからですよ」とトメは言った。「毎朝、振り返らないようにしてる、あんたの背中を。茶碗を見ないようにしてる、あんたの目を。……あんた、戻し方を知らないんでしょう」

蓮は答えなかった。答えないことが、答えだった。

「いいんですよ」

その「いいんですよ」は、あまりにもあっさりしていた。帳場で、利子の足りない学生に、「来月でいいですよ」と言うときと、まったく同じ調子だった。

「あたしはもう、七十一です。どっちみち、そう長くは数えてもらえなかった。それが少し早まっただけ。……いや、嘘ですね。年寄りは、こういうとき、すぐ嘘をつく。本当は、惜しいですよ。惜しくてたまらない。あの子が嫁に行くのを見たかった。あの子の子どもを、抱いてみたかった。抱いても、きっと、あの子は赤ん坊が急に重くなったとしか思わないでしょうけど」

トメは、小さく笑った。笑い声は、すぐに崩れて、咳のようなものになった。

「だから、ひとつだけ。ひとつだけ、頼みたいんです」

蓮は、息を止めた。

「あの子を、ひとりにしないでやってください」

屋根裏の熱が、そのとき、ふいに遠のいたような気がした。

「あの子は、ひとりじゃないと思ってるんです。あたしがいたから。ずっと、あたしがいたから。両親が死んで、あの子がここへ来たのは、四つのときでした。それから十五年、あの子は、この家で、あたしとふたりで暮らしてきた。なのに今、あの子の記憶の中では、その十五年を、あの子はひとりで生きてきたことになってる。ひとりで帳面をつけて、ひとりで飯を炊いて、ひとりで熱を出して、ひとりで治ったことになってる」

トメの声が、震えた。

「あの子は、ひとりでそんなことできる子じゃないんですよ。できたことになってるだけなんです。だから、あの子は、自分でも分からないうちに、くたびれてる。十五年ぶん、いっぺんに、くたびれてる。茶碗をふたつ出すのは、そのせいです。あの子の手のほうが、あの子より、よく覚えてる」

蓮は、原稿用紙の上に、額をつけた。紙は、湿っていた。自分の汗なのか、別のものなのか、分からなかった。

「あたしのことは、もう数えなくていい。いや――」トメは言いなおした。「あんたは、数えちまうんでしょうね。そういう人だ。それは、あんたの勝手です。でも、あの子のことは、ちゃんと数えてやってください。あの子が、ひとりで十五年生きたなんて、そんな嘘の中に、ひとりで置いとかないでください。あんたが、そばにいてやってください。あんたが、あの子の二つ目の茶碗を、飲んでやってください」

長い沈黙があった。

「……僕に、そんな資格は」

「資格の話なんか、してませんよ」トメは、ぴしゃりと言った。帳場の声だった。「あたしは、頼んでるんです。頼みごとに、資格はいりません。質屋ってのはね、影さん、資格のない人が、なけなしのものを持ってきて、頼みごとをしにくるところなんです。あたしは四十年、それを聞いてきた。今度はあたしが頼む番だ。それだけのことです」

蓮は、しばらく、顔を上げられなかった。

やがて、彼は言った。

「……はい」

それしか、言えなかった。

背後で、畳が、もう一度、かすかに鳴った。トメが、座りなおしたのだった。それきり、彼女は何も言わなかった。

蓮は振り返らなかった。振り返れば、彼女がそこにいることを、確かめてしまう。確かめなくても、いることは分かっていた。その夜はじめて、蓮は、そのふたつのあいだの違いが分かった気がした。確かめないのは、彼女のためだった。彼女が、確かめられることを望まないから。彼女は、確かめられることではなく、ただ、頼みを聞かれることを望んでいたのだ。

四

夜半、蓮は下宿を抜けだした。

眠れなかったのではない。呼ばれたのだった。呼ばれた、としか言いようがなかった。耳に聞こえる声ではなかった。ただ、ある瞬間、屋根裏の空気が、ほんのわずかに、重さを変えた。たとえば、誰もいない部屋で、どこか遠くの扉が閉まるのを、気圧の変化だけで知るように。

トメは、ついてきた。いつものように、音を立てずに。

天王寺の墓地は、月の光の下で、白く静まりかえっていた。昼の熱は、石のなかにまだ残っていて、墓石に手を触れると、ぬるかった。蓮は、並んだ墓のあいだを歩いた。ひとつひとつに、名前が刻まれていた。何百年も数えられつづけている名前が。

その奥、五重塔の跡の礎石の上に、女が座っていた。

黒い羽織。膝の上で重ねた白い手。月の光は、彼女の上にだけ、落ちかたを変えているように見えた。落ちているのに、届いていない。届いているのに、照らしていない。

夷隅は、蓮が十歩の距離まで来るのを待って、顔を上げた。

「答えは」

挨拶も、前置きもなかった。

蓮は立ちどまった。風がなかった。それなのに、墓地じゅうの卒塔婆が、いっせいに、かすかに鳴った気がした。

「……返し方を、知りません」

「知っている」と夷隅は言った。「知らぬ者に、返せと言うても詮ない。では、払うか」

「何を払えば」

「汝を」

その一語は、冷たくも熱くもなかった。帳面の一行を読みあげるように、ただ置かれた。

「汝が、あの女にしたことを、我らが汝にする。それで帳尻は合う。梯子の外から持ちこまれた権利は、梯子の中で釣り合わせるほかない」

蓮は、自分の手を見た。月の光のなかで、手は、まだ数えられていた。指が五本あり、爪があり、汗ばんでいた。

「……それで、トメさんは戻るんですか」

夷隅は、ほんの一瞬、黙った。その一瞬のあいだ、墓地の夜が、ひとつぶん、深くなった。

「戻らぬ」

「なら」

「なら、何だ」

蓮は、言葉を探した。見つからなかった。背後に、トメがいた。彼女が、息を詰めているのが分かった。彼女のために、何かを言わなければならなかった。そして、もうひとりのために。帳場の、扇風機の前の、ふたつの茶碗のために。

「僕が数えられなくなったら」と蓮は言った。「誰が、あの人を数えるんですか」

夷隅は、蓮を見た。

はじめて、見た、と蓮は思った。それまで彼女の目は、彼の上を、あるいは彼の向こうを見ていた。梯子のずっと下にぶらさがっている、無数の糸のひとつとして。今、その目が、一本の糸の、ある一点に、止まった。

「……それを、罪人が言うか」

「言います」

長い沈黙だった。

「よかろう」

夷隅は、礎石から立ちあがった。羽織の裾は揺れなかった。揺れないまま、揺れているように見えた。

「条件がある」

五

「汝の書いたもの」と夷隅は言った。「零について、と題したもの」

蓮は、昼間の鑓水の手の中の、滲んだ複写を思い出した。

「あれが、写されている。人の手から人の手へ。写すたびに、少しずつ変わる。汝の書いたのは、問いであった。数えられぬものを、数えずにおいてよいか、という問いであった。だが、今、町を回っているものは、問いではない」

「……答え、ですか」

「答えだ。『数えずともよい』。『数えぬことを、学べ』。そう書き換えられている」

夷隅の声は、変わらなかった。だが、その変わらなさのなかに、蓮は、何か、ひどく古いものの疲れを聞いた気がした。

「数えぬことを、人に教えている者がいる。汝の問いを、答えに書きかえて。人の糸を、ほどく術として。我ら番人は、梯子を守る。梯子の段を、ひとつずつ、上から下へ、正しく数えさせる。だが、その者は、梯子の中から、梯子の段を消していく。一段ずつではない。糸を、内側から、解くのだ」

「その人を」

「見つけよ」と夷隅は言った。「見つけて、我らに示せ。それが条件だ。果たせば、汝の数は、しばらく預かりおく。果たせねば、払ってもらう」

しばらく、と彼女は言った。赦す、とは言わなかった。

「……名前は」

夷隅は、袂から、一枚の紙を取りだした。複写の、最後の頁だった。鑓水の持っていたものより、さらに滲んでいた。それでも、文末の余白に、墨で書き足された二文字だけは、不思議なほどくっきりと、潰れずに残っていた。

何度写されても、その二文字だけは、滲まなかったのだ。

白解。

蓮は、その字を知っていた。

知っていた、どころではなかった。あの晩、下宿の前の街灯の下。夏なのに、染みひとつない白い上着。手の中の、薄い同人誌。「君のような人を、僕らは『ほとんど解けた人』と呼んでいます」。最後の頁に、自分のものでない筆跡で書き加えられていた、あの一行。

あの青年は、蓮の論文を読んで、会いに来たのではなかった。

蓮の論文を、持っていったのだ。

そして、それを、写させている。

「……知っています」と蓮は言った。自分の声が、ひどく遠かった。「この人を、知っています。一度だけ、会いました。あの晩――トメさんを……」

その先は、言えなかった。

夷隅は、紙を袂にもどした。

「なら、話は早い」

彼女は、蓮に背を向けかけた。そして、ふと、止まった。

「ひとつ、言うておく」

月が、雲に入った。墓地が、一段、暗くなった。

「魂を解く者どもは、あとに、何かを残す」

「何を」

「歩くが、問わぬものを」

蓮は、意味が分からなかった。分からないことが、顔に出たのだろう。夷隅は、ほんのわずかに、首を傾けた。天井の犬の角度ではなかった。もっと、ずっと古い角度だった。

「汝は、数えられぬ者を見た。あの女は、そこにいるが、数えられぬ。だが、あの女は、問う。頼む。泣く。……解かれた者は、数えられる。名もあり、糸もあり、飯も食い、道も歩く。だが、問わぬ。何ひとつ、問わぬ。糸のなかに、問いのあった場所に、答えが詰めてある」

蓮は、白解の糸を思い出した。糸のあるべき場所が、何かで、満たされていた。ほどけているのでも、切れているのでもなく、満たされていた。

「それに出会うたら」と夷隅は言った。「体を裂いても、止まらぬと思え」

雲が流れ、月が戻った。

礎石の上には、もう、誰もいなかった。羽織の影も、足音も、なかった。ただ、墓石のひとつに、夜露が、ひと粒、落ちかけたまま、止まっていた。蓮が見ているうちに、それは、ゆっくりと、また落ちはじめた。

帰り道、谷中の坂を上りながら、蓮は、背後のトメに話しかけた。はじめて、自分から。

「トメさん」

返事はなかった。だが、足音のない足音が、半歩、近くなった。

「さっきの、頼み。……聞きました」

トメは、何も言わなかった。

坂の上の、街灯の下を通りすぎたとき、蓮は、ふと、足を止めた。

通りの向こう、閉まった豆腐屋の軒先に、男がひとり、立っていた。背広を着て、鞄を提げて、勤め帰りの人のように。夜中の二時だった。男は、動かなかった。まっすぐ前を向いて、何も見ていなかった。

男の胸から、糸が、ちゃんと伸びていた。

ただ、その糸は、震えていなかった。人の糸は、いつも、かすかに震えている。迷いや、欲や、今夜の夕飯のことや、明日の心配や、そういうものの重さで。この男の糸は、震えていなかった。張りつめてもいなかった。ただ、まっすぐに、何かで満たされて、そこにあった。

男が、ゆっくりと、こちらを向いた。

その顔には、何の問いも、浮かんでいなかった。

◇ (第七章 了) ◇

第八章 空ろ

◇ ◆ ◇

一

白解からの便りは、手紙の形をしていなかった。

九月に入って三日目の夕方、蓮が質屋の裏口から戻ると、階段の三段目に、あの薄い同人誌が一冊、置かれていた。序章の夜に受け取ったのと同じものだった。ただ、表紙の端が、ほんのわずかに折られていた。折り目は頁の数字を指していた。十七頁。蓮の論文「零について」の、最後の節が始まる頁である。

その節の見出しの下に、鉛筆で、細い字が書き添えられていた。

――今夜、谷中銀座の奥。松の湯の跡で。

蓮は長いあいだ、その一行を眺めていた。字は美しかった。美しい、というより、迷いがなかった。一画ごとに、書いた人間がそれ以外の書き方を一度も考えなかったことが分かる字だった。

夷隅との約束が、胸の奥で冷たく光った。――人に「数えるな」と教えている者を見つけなさい。見つけたら、それが何であるかを、あなたの目で見てきなさい。

見つける必要はなかった。向こうから来たのだ。

階段の上で、小夜の声がした。

「影さん? お夕飯、どうされますか」

「……少し、出てきます」

「そうですか」小夜は少し間を置いた。「じゃあ、お茶だけ、置いておきますね」

蓮は答えずに、会釈だけした。台所で、湯呑みを二つ出す音がした。小夜はもう、なぜ二つ出すのかを考えなかった。考えないまま、二つ注いだ。その音を、蓮は背中で聞いた。

玄関を出たとき、振り返らなくても分かった。トメが、ついて来ていた。

老婆は何も言わなかった。この数日、トメはほとんど口をきかなかった。夷隅が去ったあの晩、「あの子を、ひとりにしないでくださいまし」と一度だけ言って、それきりだった。今は、蓮の三歩うしろを、下駄の音も立てずに歩いていた。数えられていない者の足音は、この世のどこにも響かない。

二

谷中銀座の夕暮れは、いつもと同じだった。

揚げたてのメンチカツの匂いがして、八百屋の店先で梨が水を弾いていた。夕焼けだんだんの石段に、猫が三匹、それぞれの距離を守って座っていた。観光客が写真を撮っていた。誰もが、自分がここにいることを、少しも疑っていなかった。

蓮はその中を歩きながら、人々の糸を見た。

太い糸、細い糸、ほつれた糸。子供の手を引く母親の糸は、子供の糸と途中で絡みあい、どちらがどちらを支えているのか分からなかった。酒屋の前で煙草を吸う老人の糸は、細いが、驚くほど固く結ばれていた。何に結ばれているのかは見えなかった。見る必要もなかった。ただ、みな上へ伸びていた。みな、何かにすがっていた。すがる、ということが、生きている、ということの形なのだと、蓮は思った。思って、胸の罅がかすかに軋むのを感じた。自分はその糸を、一本、切ったのだ。

商店街を抜け、路地を二度曲がると、音が消えた。

松の湯は、二十年も前に廃業した銭湯だった。唐破風の屋根が傾き、煙突だけがまだまっすぐに空を指していた。入口の暖簾はなく、「男」「女」と書かれた木札だけが、色褪せて残っていた。

引き戸は、開いていた。

中は薄暗かった。脱衣場の床板は湿って反り、籐の籠がいくつか、誰かが今しがた服を脱いだかのように、棚に並んでいた。番台には誰もいなかった。その奥、湯船のある洗い場の壁いっぱいに、富士山のペンキ絵が残っていた。青い空と、白い雪と、ひび割れた湖。

湯の抜けた湯船の縁に、白解が腰かけていた。

「来てくれましたね」

青年は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。白い上着には、この埃の中でも、染みひとつなかった。彼が立っている場所だけ、夕方の光が、どこからか余分に集まっているように見えた。

「影くん。いや、影さん、と呼んだほうがいいかな。君はもう、ずいぶん先へ進んだから」

「何の用ですか」

「用、というほどのことではありません」白解は微笑んだ。その微笑には、どこにも力が入っていなかった。「君に、見てほしい人がいるんです。君の論文を、いちばん正しく読んだ人を」

蓮は、白解の糸の在るべき場所を、もう一度見ようとした。やはり見えなかった。眩しすぎた。夏の午後、真上の太陽を見上げたときのように、そこにあるものの形が、光に溶けて、輪郭を失っていた。ただ、その光には、温かさがなかった。照らしているのに、何も温めていなかった。

「論文を読んだ人は、たくさんいます」白解は続けた。「大学の同人誌なんて、ふつうは誰も読まない。でも、君の論文は、なぜか回ったんです。手から手へ。夜、眠れない人から、眠れない人へ。みんな、どこかで、自分が数えられていないことを知っている。だから、数えなくていいという言葉が、よく効いた」

白解は、脱衣場のほうへ軽く手を向けた。

「篠原さん。どうぞ」

番台の陰から、男がひとり、出てきた。

三

四十を少し過ぎたくらいの男だった。

灰色の背広を着て、紺のネクタイをきちんと締めていた。髪は七三に分けられ、靴はよく磨かれていた。どこの駅の朝にも、何百人と立っている男だった。男は蓮の前まで歩いてきて、立ち止まり、軽く会釈した。

「はじめまして。篠原と申します」

声は穏やかだった。礼儀正しかった。目は蓮をまっすぐに見ていた。

「影さんの論文、拝読しました。大変、勉強になりました」

蓮は、何か答えなければならないと思った。しかし、言葉より先に、目が動いた。いつものように、男の糸を探した。

糸は、なかった。

白解のときと同じだった。いや、同じではなかった。白解の場合は、糸の在るべき場所に、何かが埋められていることさえ、蓮にははっきりとは見えなかった。光が強すぎて、形が分からなかった。だが、この男の場合は、見えた。見えてしまった。

男の胸の上、本来なら糸が上へと伸びはじめるはずの場所に、何かが、きちんと収まっていた。

それは、糸の形をしていなかった。糸は、伸びる。震える。何かを探して、上へ、上へと手を伸ばす。だが、そこにあるものは、伸びていなかった。探していなかった。ちょうどその場所の形に切りそろえられ、隙間なく、角まで、ぴたりと嵌めこまれていた。答案用紙の最後の欄に、正しい答えが、丁寧な字で、清書されているように。

答え、だった。

何の答えなのかは分からなかった。ただ、それが答えであることだけは、どうしようもなく分かった。そこにはもう、問いがなかった。

「篠原さんは、保険会社にお勤めでした」白解が、静かに言った。「奥さんと、娘さんがひとり。住宅ローンが、あと十九年。お父さんが、去年から施設に入っておられる。毎晩、眠れなかったそうです。自分はこのままでいいのか。自分は誰かの役に立っているのか。自分が消えたら、誰か困るのか。困らないとしたら、自分はなぜここにいるのか」

白解は、篠原のほうを見た。篠原は、微笑んだまま、何も言わなかった。

「そういう問いが、毎晩、この人を引き裂いていた。問いというのは、そういうものです。人を二つに裂く。在りたい自分と、在ってはならない自分とに。僕らはそれを、矛盾と呼んでいます」

「篠原さん」と蓮は言った。声がかすれていた。「あなたは、今、何を考えていますか」

「何も」

篠原は、少しも迷わずに答えた。

「何も考える必要がありませんので」

「奥さんと、娘さんのことは」

「元気です。先週、離婚届を出しました。私がいないほうが、合理的ですから」

「お父さんは」

「施設の方が、よくしてくださっています」

蓮は口を開き、閉じた。

恐ろしいのは、篠原の答えが、どれも間違っていないことだった。どれも穏やかで、筋が通っていて、礼儀正しかった。そして、そのどれにも、次がなかった。蓮が何を尋ねても、答えはそこで終わった。答えのあとに来るはずの、ためらいも、問い返しも、なかった。

篠原は、一度も、蓮に何も尋ねなかった。あなたは誰ですか、とも。なぜそんなことを聞くのですか、とも。

――歩くけれども、問わないもの。

夷隅の声が、耳の奥でした。

「この人は、もう矛盾の中にいません」白解は言った。その声には、心からの喜びがあった。「毎晩の問いは、すべて解けた。それは、平安ではないでしょうか」

「これは」蓮は言った。「生きていない」

「生きていますよ。脈もある。お腹も空く。挨拶もする。昨日は、駅で落とし物を拾って交番に届けたそうです」白解は首を傾げた。「影さん。君は、論文に書いたでしょう。上に立つ者は、下の者を数えなくてよい、と。篠原さんは、その先へ行ったんです。自分自身を、数えなくてよくなった。自分という矛盾を、零にした。僕が序章の夜に言ったのは、このことです。零にするのは、他人ではない」

蓮のうしろで、トメが、小さく息を呑む音がした。

四

「では、篠原さん」白解が言った。「影さんに、見せてあげてください」

篠原は、はい、と答えた。

次の瞬間、篠原は蓮の目の前にいた。

速い、というのとは違った。踏みこみも、溜めも、なかった。ただ、次にいるべき場所に、いた。そして、その右手が、蓮の喉を掴んでいた。

背中が、富士山の絵に叩きつけられた。タイルが割れ、ペンキの湖が、蓮の頭のうしろで粉になった。足が床から浮いた。篠原の顔が、すぐ前にあった。微笑んでいた。怒りも、憎しみも、楽しみもなかった。書類に判を押すときの顔だった。

「申し訳ありません」と篠原は言った。「すぐ済みますので」

息ができなかった。視界の端が黒く縮んでいった。

蓮は、罅を開いた。

開いた、というのは正確ではない。罅はいつも開いている。ただ、そこから、自分の中の何かを、外へ差し出す。指ではない指。見えない、しかし確かに何かに触れることのできるもの。猫の糸を切ったとき、トメの結び目に触れたとき、それは糸に向かって伸びた。だが、篠原には、糸がなかった。

だから蓮は、見えているものに向けた。自分の喉を掴んでいる、その腕に。

――断つ。

音はしなかった。篠原の右腕が、肘の少し上で、まるで最初からそこに継ぎ目があったかのように、離れた。

蓮は床に落ちた。咳きこみながら、転がって距離をとった。喉には、まだ手首から先が、握りしめたまま、ぶら下がっていた。震える指で、それを剥がし、投げ捨てた。

血は、ほとんど出なかった。

篠原は、自分の右腕の切り口を、一度だけ見た。そして、蓮を見た。微笑んだまま。

「失礼しました」

篠原は、また来た。

今度は左手だった。蓮はそれを、手首から断った。篠原は止まらなかった。肩から体当たりしてきた。蓮は洗い場のタイルの上を滑り、蛇口の列に脇腹を打ちつけた。肋骨のどこかが、鈍く鳴った。篠原の膝が、蓮の胸を踏み抜こうとした。蓮はその脚を、膝から断った。

篠原は、片脚で立った。倒れなかった。立てるはずのない形で、立っていた。

おかしい、と蓮は思った。痛みの中で、思考だけが、いつものように熱く、速く、回りはじめた。

腕を断った。手を断った。脚を断った。人間なら、とっくに崩れている。痛みで、恐怖で、失血で。いや、それ以前に、自分の体が欠けたことに、何かを感じるはずだ。何か、問うはずだ。なぜ、と。どうして、と。

篠原は、何も問わなかった。

だから、体が欠けても、何も揺らがないのだ。

湯船の縁で、白解は膝の上に手を組み、じっとこちらを見ていた。劇場の客のようではなかった。答案を採点する教師のようだった。蓮が一本断つたびに、白解は、ほんのかすかに頷いた。正しい、とでも言うように。あるいは、まだ違う、とでも言うように。

脱衣場の入口に、トメが立っていた。老婆は柱にしがみついていた。その顔が、蓮には見えた。恐怖で、紙のように白かった。数えられていない者の顔が、それでも恐怖に歪むことを、蓮ははじめて知った。トメは、篠原を見ていなかった。蓮の胸の罅を、見ていた。そこから差し出されるものが、一本断つたびに、目に見えて細くなっていくのを。

床に落ちた篠原の右腕が、指を、ゆっくりと開いては閉じていた。何かを掴もうとしているのではなかった。掴むという動作を、ただ、最後まで終えようとしていた。

篠原が、残った一本の脚で跳んだ。蓮の上に、全身の重みで落ちてきた。額が、蓮の額にぶつかった。目の奥で白いものが弾けた。篠原の歯が、蓮の首筋に触れた。噛もうとしているのではなかった。ただ、そこに喉があるから、そこを閉じようとしているだけだった。

蓮は、篠原の胴を断った。首を断ろうとした。罅から差し出した何かが、震えていた。重かった。腕を一本断つたびに、自分の中の何かが、紙やすりで擦られるように、薄くなっていくのが分かった。

篠原の胴は、腰のところで離れた。それでも、上半身は、蓮の上から退かなかった。腕のない肩で、蓮の胸を押さえつけていた。

「影さん」白解の声が、遠くから聞こえた。湯船の縁に腰かけたまま、白解は少しも動いていなかった。「体は、この人の掴まっているものではありませんよ」

蓮は、目を上げた。

篠原の顔が、すぐ前にあった。

そして、その胸の上に、あの答えが、少しも欠けずに、きちんと収まっていた。

五

そうか、と蓮は思った。

この男は、体に掴まっていない。

人は、糸で在ることにすがる。糸がどこに結ばれているかは、人によって違う。トメの糸は小夜に結ばれていた。猫の糸は、たぶん、ただ生きていることそのものに結ばれていた。体を壊せば、糸は緩む。体は、糸の結び目のひとつだからだ。

だが、篠原には糸がない。代わりに、答えがある。そして答えは、体にすがらない。答えは、何にもすがらない。すがる必要がない。もう、何も問わないのだから。体はただ、答えが置かれている台にすぎない。台の脚を何本折っても、台の上のものが落ちないかぎり、それは在りつづける。

では、答えそのものを断てばいい。

蓮は、罅から差し出した何かを、篠原の胸の上の、あの答えへ向けた。

触れた。

その瞬間、蓮は、自分がどこにいるのか分からなくなった。

答えは、固かった。固い、というのではなかった。触れた指が、どこにも引っかからなかった。糸には、必ず、ほつれがあった。震えがあった。問いがあった。問いがあるところには、裂け目がある。蓮の断つ力は、その裂け目に入りこむものだった。だが、この答えには、裂け目がなかった。どこまで撫でても、つるりとして、完結していた。蓮の指は、その表面を、ただ滑った。

滑りながら、何かが、逆に、蓮のほうへ入りこんできた。

――もう、いいのではないか。

声ではなかった。声よりも静かなものだった。

――お前も、毎晩、問うているだろう。自分は数えるものなのか、震えるものなのか、と。その問いが、お前を裂いている。老婆を消したのも、その問いのためだ。問いがなければ、何も起こらなかった。問いを、置けばいい。ここに。この形に。

蓮の胸の罅が、軋んだ。

罅の縁に、何かが、ぴたりと当てがわれようとしていた。ちょうどその形に切りそろえられた、何か。嵌まれば、きっと、楽になる。もう、夜中に目を覚まして、天井の染みを数えなくてよくなる。二つの湯呑みの意味を、考えなくてよくなる。

篠原の肩が、蓮の胸を押しつぶしていた。肋骨が、もう一本、鳴った。息が、吸えなかった。視界が、端から、白く抜けていった。

遠くで、誰かが、叫んだ。

「――影さん!」

トメだった。

数えられていない老婆の声は、この世のどこにも響かないはずだった。白解にも、篠原にも、聞こえていなかった。ただ、蓮にだけ、聞こえた。

蓮は、自分の糸を見た。細く、ところどころ透きとおって、それでも、まだ、上へ伸びていた。そして、そのいちばん太い結び目のひとつが、自分の三歩うしろで、震えている小さな老婆のほうへ、結ばれていた。

自分は、あの人を、数えている。

数えてはならない人を、数えている。それは矛盾だった。答えのない問いだった。蓮は、その問いを、手放さなかった。

罅に当てがわれかけていた何かが、嵌まらずに、離れた。

蓮は、もう一度、篠原の胸を見た。今度は、答えそのものではなく、そのまわりを。

あった。

答えと、体とのあいだ。答えが、この背広の男の胸の上に置かれている、その境目。そこにだけ、ごく細い、一本の筋があった。糸ではなかった。糸のように上へ伸びてはいなかった。ただ、答えを、この体の上に留めている、釘のようなもの。錨のようなもの。答えは何にもすがらない。だが、答えをここに置いた誰かは、それをここに留めておく必要があった。

その釘には、わずかに、問いの匂いがした。なぜ、この男なのか。なぜ、ここなのか。置いた者の、ほんの小さな、選択の痕。

裂け目が、あった。

――断つ。

蓮は、その一本を、断った。

重かった。猫の糸よりも、トメの結び目よりも、重かった。罅の奥で、何かが、音もなく削げ落ちた。

篠原の体が、止まった。

腕のない肩が、蓮の胸から、ゆっくりと離れた。上半身が、傾いた。胸の上の答えが、錨を失って、ふわりと浮き、どこへともなく、上でも下でもない方へ、流れていった。

篠原は、洗い場のタイルの上に、仰向けに倒れた。

その顔は、微笑んでいた。最後まで、何も問わなかった。

六

蓮は、長いあいだ、動けなかった。

天井の、湯気抜きの窓から、九月の夜空が見えた。星はなかった。富士山の絵の破片が、髪の中に入っていた。肋骨が、呼吸のたびに、鋭く痛んだ。

篠原の体は、もう動かなかった。血もほとんど流れていなかった。死んだのかどうか、蓮には分からなかった。死ぬためには、まず生きていなければならない。この男が、いつから生きていなかったのか。論文を読んだ夜からか。白解に会った夜からか。

靴音がした。

白解が、湯船の縁から降りて、こちらへ歩いてきた。篠原の体の横に、膝をついた。そして、その目を、そっと閉じてやった。まるで、ほんとうに悼んでいるかのような手つきだった。

「ありがとう、篠原さん」

それから、蓮を見た。

「すごいな」白解は言った。心から、感心していた。「答えそのものには、触れられなかった。でも、置き場所を見つけた。そこまで行ける人は、ほとんどいません。やっぱり、君は、ほとんど解けている」

「あなたは」蓮は、ようやく声を出した。「何人に、これを」

「数えていません」白解は、微笑んだ。「数える必要が、ありますか」

白解は立ち上がり、白い上着の裾を、軽く払った。埃は、ついていなかった。

「今夜、君の罅に、答えが一度、嵌まりかけた。気づいていたでしょう。君は、それを、自分で外した。惜しいことをしたと、僕は思います」

白解は、引き戸のほうへ歩きだした。敷居のところで、一度だけ、振り返った。夕方の光は、もうどこにもなかった。それでも、白解の輪郭だけが、ぼんやりと明るかった。

「次は、自分に試してごらんなさい」

引き戸が、静かに閉まった。

蓮は、床に手をついて、身を起こした。

トメが、そこにいた。蓮のすぐ横に、膝をついていた。老婆の皺だらけの手が、蓮の袖に触れようとして、触れられずに、宙で止まっていた。トメは、震えていた。白解に怯えていたのではなかった。篠原に怯えていたのでもなかった。トメの目は、蓮を見ていた。

「影さん」トメは囁いた。「あんた、今、何を、なくしなすった」

蓮は、答えようとした。

答えられなかった。

何かが、なくなっていた。それだけは分かった。胸の罅の奥で、何かが確かに削げ落ちていた。けれども、それが何だったのか、思い出せなかった。思い出せないのではなかった。思い出すための、手がかりそのものが、なくなっていた。名前のない、空いた場所だけが、ぽっかりと、そこにあった。

蓮は、自分の糸を見た。

それは、前よりも、また少し、細くなっていた。

そして、ほんのわずかに、その根もとのあたりが、つるりと、滑らかになっているような気がした。

蓮は、長いあいだ、その滑らかな場所を見つめていた。

それが、ただの気のせいであってほしいと、祈るように。

祈る、という言葉が、自分の中に浮かんだことに、蓮は少しだけ驚いた。

松の湯の外で、どこかの家の風鈴が、季節外れに、一度だけ鳴った。

帰り道、谷中銀座の店は、もうほとんどシャッターを下ろしていた。

蓮は脇腹を押さえながら、夕焼けだんだんの石段を一段ずつ上った。猫はいなくなっていた。石段の上の街灯の下で、蓮は一度だけ立ち止まり、振り返った。トメが、三歩うしろにいた。さっきより、少しだけ、近かった。

篠原のことを、蓮は考えた。考えまいとしても、考えた。あの男にも、毎晩、眠れない夜があった。天井を見上げ、自分はなぜここにいるのかと問う夜が。その問いは、きっと苦しかった。蓮には、それがよく分かった。分かりすぎるほど分かった。そして、その問いを取り去ってやると言われたとき、あの男が、どんな顔で頷いたのかも、想像できた。救われた、という顔だったに違いない。

自分の論文が、その頷きの前にあった。

罪、という言葉を、蓮はまだ使えなかった。使えば、それは答えになってしまう気がした。自分は罪を犯した。だから罰を受ける。そういう、きれいに切りそろえられた形に。白解が篠原の胸に置いたものと、どこが違うのか。蓮には、まだ分からなかった。分からないまま、その問いを、胸の罅の中に、もう一本、抱えた。

下宿に戻ると、台所の灯りがついていた。小夜は、もう寝たようだった。卓袱台の上に、湯呑みが二つ、並んでいた。一つは、蓮の席に。もう一つは、誰も座らない、その向かいに。どちらも、とうに冷めていた。

蓮は、自分の湯呑みを取り、冷めた茶を、ゆっくりと飲んだ。

向かいの湯呑みには、手をつけなかった。トメが、その前に、黙って座っていた。

二つの湯呑み。その意味を、自分はまだ覚えている、と蓮は思った。確かめるように、何度も、心の中で繰り返した。まだ覚えている。まだ、数えている。

では、今夜、削げ落ちたものは、何だったのか。

それを数えることは、もう、できなかった。

◇ (第八章 了) ◇

第九章 降下

◇ ◆ ◇

一

松の湯から戻った翌朝、蓮は脇腹の痛みで目を覚ました。

痛みは正直だった。肋骨の一本が、息を吸うたびに、そこにいると言った。蓮はそれを少しありがたく思った。痛みは数えられる。一、二、と数えられるものが、体の中にまだ残っている。

屋根裏の窓から、朝の谷中が見えた。瓦屋根の向こうに墓地の杉があり、その上を、雲がゆっくりと、何の用事もなさそうに流れていた。階下で、小夜が雨戸を繰る音がした。一枚、二枚、三枚。質屋の朝は、いつも同じ順番で始まった。

蓮は布団の上に座り、昨夜削げ落ちたものを探した。

探す、という言い方は正しくなかった。財布を探すように、どこかに置き忘れたものを探すのではない。なくなった場所そのものが、つるりと滑らかになっていて、指がそこを通り過ぎてしまう。何かがあったはずの場所を、指はもう、場所として感じない。

白解の声が、まだ耳の奥にあった。

――次は、自分に試してごらんなさい。

何を、とは言わなかった。言う必要がないと、あの白い青年は知っていたのだ。

蓮は自分の胸の糸を見た。罅から上へ伸びる、細い、ひびの入った糸。昨夜より、また少し細くなっていた。根もとの滑らかな場所は、朝の光の中で見ると、磨いた石のように、かすかに光っていた。

部屋の隅に、トメが座っていた。

膝を揃え、両手を膝の上に置き、蓮のほうを見ていた。何も言わなかった。ただ、昨日より、畳一枚ぶん近かった。

「……おはようございます」

と、蓮は言った。自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。

トメは答えなかった。しかし、その皺の奥の目が、ほんのわずかに動いた。数えられていない者にも、朝は来るのだ、と蓮は思った。来るけれど、誰もそれを、朝だと数えてやらない。

階下へ下りると、帳場の奥の卓袱台に、朝飯が用意されていた。麦飯と、豆腐の味噌汁と、茄子の漬物。小夜は、蓮の脇腹をかばう歩き方を見て、少し眉を寄せた。

「影さん、転ばれたんですか」

「……石段で、少し」

「夕焼けだんだんですか。あそこ、夜は暗いですから」小夜は、救急箱から湿布を出してきて、卓袱台の端に置いた。「貼っておいてください。叔……」

小夜は、そこで言葉を切った。

何を言いかけたのか、自分でも分からない、という顔をした。唇が、一度、何かの形を作りかけて、ほどけた。

「……この湿布、よく効くんです。誰かが、よく使っていたので」

誰か、と小夜は言った。その誰かは、今、蓮の三歩うしろで、黙って湿布を見ていた。膝の悪かった老婆が、毎晩、帳面をつけながら、膝に貼っていた湿布だった。

蓮は、礼を言って、湿布を受け取った。箱の角が、少し潰れていた。何年も、同じ棚の、同じ場所に置かれていた箱だった。

味噌汁を一口飲んだ。温かかった。小夜は、向かいに座って、自分の茶碗に、飯を少しだけよそった。卓袱台には、茶碗が二つ、湯呑みが三つ出ていた。三つ目の湯呑みを、小夜は、自分でも気づかないうちに出していた。

蓮は、その三つ目を見ないようにした。見れば、数えてしまう。数えれば、それが誰のものか、自分だけが知っていることを、また、思い知る。

それでも、見た。

見て、数えた。これは、トメさんのだ、と。

それは、まだ、できた。昨夜、何を失ったにせよ、それは、まだ、できた。

二

夷隅は、墓地にいた。

約束をしたわけではなかった。ただ、昼過ぎ、蓮が天王寺の五重塔跡の礎石のそばを通りかかると、そこに、紺の羽織が、最初からそこに置かれていた石のように座っていた。

蝉が鳴いていた。九月の、終わりかけの、力の抜けた蝉だった。その声が、夷隅の周りで、途切れていた。遮られるのではない。音が、あの女のいる高さまで、上がっていけないのだ。

「見てきたのね」

夷隅は蓮を見ずに言った。

「……はい」

「どうだった」

蓮は、篠原の顔を思い出そうとした。思い出せた。問いの一つもない顔。富士山のペンキ絵の前で、自分の腕が折れても、表情を変えずに近づいてきた男。

「体を切っても、止まりませんでした」と蓮は言った。「おっしゃったとおりに。糸を切ろうとしても、切るところがなかった。糸の、問いがあるはずの場所に、答えが詰まっていて……」

「それで、あなたは何をしたの」

蓮は黙った。

何をしたのか。自分でも、よく分からなかった。あのとき、篠原の手が胸に触れた瞬間、何かが、蓮の中に流れ込もうとした。答えの形をした、冷たく、なめらかなものが。蓮はそれを押し返した。押し返したのか、それとも、自分の何かを削って、その隙間に答えが入らないように塞いだのか。

「分かりません」と蓮は言った。「ただ、何かをなくしました。何をなくしたのかも、分かりません」

夷隅は、初めて蓮を見た。

その目に、同情はなかった。石工が、石の割れ目を見るような目だった。割れ目がどこへ走っているかを見て、そこに鑿を入れるかどうかを決める目だ。

「あなたは、高すぎるところで持っている」

「持っている?」

「自分を」

夷隅は、右手の指を一本立て、蓮の胸の、少し上のあたりを指した。触れはしなかった。

「そこ。あなたは、そこで自分を持っている。感じるところで。痛い、怖い、恥ずかしい、懐かしい。そういうところで、自分をつかんでいる」

「それは……いけないことですか」

「普通の人は、みんなそうよ。それで生きていける。でも、あの白い子が置いていくものは、そこに届く。答えは、感じるところに入ってくる。『もう苦しまなくていい』という感じとして。だから、あなたは昨夜、感じるところを一つ削って、それで防いだ」

蓮は、滑らかな場所のことを考えた。

「次は、何を削るの」

夷隅の声は、天気の話をするように平らだった。

「その次は。その次の次は。削るものがなくなったとき、あなたの糸には、答えしか残らない。そうなれば、あなたも、あの男と同じように、問わずに歩く」

三

「持つ場所を、下げなさい」

と、夷隅は言った。

「下げる?」

「深く。感じるところより、下へ。あなたの中で、あなたが『自分』と呼んでいるものの、もっと下に、それを支えているものがある」

夷隅は、礎石の縁を、指先で軽く叩いた。

「塔は燃えたわ。でも、この石は残っている。塔が立っていたとき、誰もこの石を見なかった。見上げるのは、いつも塔のほう。でも、塔を持っていたのは、この石」

蓮は、足もとの礎石を見た。苔の生えた、平たい、大きな石だった。明治の頃まで、この上に五重の塔が立っていたと、どこかで読んだことがあった。燃えたのは、蓮が生まれるずっと前だ。

「あなたの背理核は、今、塔のてっぺんで揺れている。風が吹けば、そのたびに揺れる。持つ場所を、この石まで下げる。それを、わたしたちは潜界と呼ぶ」

「アポリア……」

「あなたが生まれたときから抱えているもの。有限なのに、無限であるということ。それは解けない。解けないから、あなたはあなたでいられる。あの白い子たちは、それを解こうとする。解けば楽になると言って」

蓮は、しばらく黙っていた。

罅のことを、この女は知っている。知っていて、名前を呼ばない。

「どうやって、下げるんですか」

「目を閉じて」

蓮は目を閉じた。

瞼の裏に、赤い光が滲んだ。九月の日差しが、瞼の薄い皮膚を透かしていた。その赤さの中に、自分の脈が、とく、とく、と打っていた。こんなに速く打っていたのか、と蓮は思った。怖いのだ。体のほうが、先に知っている。

蝉の声が遠のいた。いや、遠のいたのではなかった。夷隅の周りと同じように、途切れ始めた。

「あなたが、自分をつかんでいる手を探しなさい。手は、糸をつかんでいる。糸の、いちばん上のほうを」

蓮は探した。見つけるのは難しくなかった。胸の、少し上。昨夜、篠原の手が触れたあたり。そこで、何かが、糸をぎゅっと握っていた。汗ばんだ子供の手のように、必死に。

「その手を、放しなさい」

「放したら……」

「落ちるわ。落ちなさい。ただし、糸は放さずに。手だけを、糸に沿って、下へ滑らせる」

蓮は、息を吸った。肋骨が痛んだ。その痛みを、一つ数えた。

そして、手を緩めた。

四

糸は、ざらざらしていた。

罅の入った糸に沿って、手が下へ滑っていくと、指の腹に、いくつもの結び目が触れた。結び目の一つ一つが、蓮の記憶だった。見ようとしなくても、触れただけで、それが何か分かった。

大学の図書館の、埃っぽい書庫の匂い。初めて論文を書き上げた夜の、手の震え。質屋の階段の、三段目の軋み。小夜が差し出した握り飯の、少し塩の強い味。

手は、それらを通り過ぎた。通り過ぎるたびに、結び目は、蓮の手の上へ残された。

消えるのではなかった。上に、ある。見上げれば見える。ただ、もう、蓮の手の下にはない。蓮を支えているのは、もう、それらではない。

下へ。もっと下へ。

途中で、一つの結び目に、手が引っかかった。

柔らかい結び目だった。触れた瞬間、匂いがした。

日に干した布団の匂い。醤油で煮しめた牛蒡の匂い。台所の窓から入ってくる、隣の家の金木犀の匂い。それから、母の手の匂い。安いハンドクリームと、洗濯石鹸と、ほんの少しの、鉄の匂い。仙台の、あの小さな借家の、夕方の匂いだった。

学校から帰って戸を開けると、いつもその匂いが、蓮を迎えた。父が出ていった年の秋も、その匂いだけは変わらなかった。母が泣いた夜も、次の朝には、台所から同じ匂いがした。あの匂いがある限り、家は家だった。

手が、止まった。

「止まらないで」

夷隅の声が、上から降ってきた。井戸の口から、底へ向かって。

「そこで止まれば、あなたはまた、そこで持つことになる。それは、感じるところよ」

「でも、これは……」

「分かっている」

声は、少しも優しくなかった。しかし、その分かっている、という言葉だけは、嘘ではないと、蓮には分かった。

「それを持って下りることは、できないの。下りた者は、上に残したものを、覚えている。全部、覚えている。でも、それはもう、あなたを数えない。あなたも、それを数えない」

数えない。

蓮は、その言葉を、口の中で転がした。

それは、自分がトメにしたことだった。トメの糸を切り、トメを、誰も数えない者にした。今、同じことを、自分が、自分の母の家の匂いにしようとしている。

いや。違う、と蓮は思った。違う。トメは、自分で選んだのではなかった。これは、自分で選ぶのだ。

それが違いになるのかどうか、蓮には分からなかった。分からないまま、手を、その柔らかい結び目の下へ滑らせた。

匂いが、上へ離れていった。

日に干した布団。牛蒡。金木犀。母の手。

全部、そこにあった。蓮の頭の上に、はっきりと。思い出そうと思えば、今でも一つ一つ思い出せた。ただ、それを思い出しても、もう、胸のどこも、動かなかった。

家は、家でなくなったのではない。ただ、家として、数えられなくなった。

手が、何か固いものに触れた。

冷たく、平たく、苔の生えたような手触り。

そこで、蓮は、糸を握った。

五

目を開けると、夕方だった。

蝉は鳴きやんでいた。礎石の上の影が、長く伸びていた。夷隅はまだそこにいて、蓮を見ていた。いや、蓮の頭の上の、糸の揺れる場所を。

糸は、揺れていなかった。

細いままだった。罅も、そのまま走っていた。ただ、それを握る手の位置が、ずっと下にあった。風が吹いても、糸の上のほうが、わずかに震えるだけで、根もとは動かなかった。

「……どれくらい、経ちましたか」

「四時間」

蓮は、自分の手を見た。指が冷たかった。足が痺れていた。四時間、礎石のそばで、目を閉じて座っていたのだ。

礎石の反対側に、トメが座っていた。

四時間、ずっとそこにいたのだろう。膝を揃え、両手を膝に置き、蓮の顔を見上げていた。墓石の間を抜ける風が、トメの着物の袖を、少しも揺らさなかった。数えられていない者には、風も、数えて吹くことをしない。

蓮は、トメを見た。

そして、ふと、怖くなった。

下りていくあいだ、自分は、いくつもの結び目を上に残した。図書館の匂いも、論文の夜も、母の家の匂いも。では、この老婆は。自分が切り、自分が数えないことにしたこの老婆を、自分は、今も、数えているのか。

蓮は、胸の中で、そっと確かめた。

トメは、上にいなかった。

下にいた。蓮が今、握っている糸の、根もとの、冷たい石のすぐそばに。どれだけ下りても、トメの重さだけは、蓮の手の下にあった。天の星をみな集めても羽根ほどの重さもなかったあの場所で、それでもトメだけが重かったように。

蓮は、なぜか、泣きそうになった。

泣きはしなかった。泣くための場所は、もう、上のほうに残してきたような気がした。ただ、喉の奥が、少しだけ熱くなった。その熱さは、まだ、数えられた。

「トメさん」と、蓮は小さく言った。「まだ、います」

何がいるのか、蓮は言わなかった。トメも、聞かなかった。老婆は、ただ、一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。

「試しなさい」

夷隅は、墓地の奥の小道を、顎で示した。

そこに、男が立っていた。

背広を着て、鞄を提げた男だった。蓮には見覚えがあった。七日前の夜中、豆腐屋の軒下で、何も見ずに立っていた男。問いの一つもない顔をした男。

男は、ゆっくりと、こちらへ歩いてきた。急ぐでもなく、ためらうでもなく。その足どりには、迷いがなかった。白解の字と同じだった。一歩ごとに、それ以外の歩き方を一度も考えなかったことが分かる足どりだった。

蓮は立ちあがった。足が痺れて、よろけた。

男の手が、蓮の胸に伸びた。昨夜の篠原と同じ手つきだった。胸の、少し上。感じるところに。

冷たいものが、流れ込もうとした。

――もう、いいんですよ。

声はなかった。しかし、手のひらからそう言われた。もう問わなくていい。もう苦しまなくていい。あなたがなぜここにいるのか、その答えは、ここにある。

蓮は、それを、感じた。

感じたが、そこには、もう、自分がいなかった。

答えは、感じるところに入ってきた。そして、そこで、行き場を失った。蓮が自分を持っている場所は、もっと下にあった。苔の生えた、冷たい石のところに。答えはそこまで届かず、蓮の胸の上のほうで、雨水が瓦を伝うように、ただ滑り落ちていった。

男の手が止まった。

男の顔には、相変わらず、問いがなかった。だから、戸惑いもなかった。ただ、手のひらが、何かを置こうとして、置く場所を見つけられずにいた。

蓮は、男の手首をつかんだ。骨ばった、体温のある手首だった。そして、それを、ゆっくりと、自分の胸から離した。

糸は、切らなかった。

切るところがないのは、分かっていた。それに、切りたくなかった。

男は、しばらく蓮を見ていた。見ていたのか、蓮の向こうを見ていたのか、分からなかった。やがて、手を下ろし、向きを変えて、来たときと同じ足どりで、墓地の奥へ去っていった。

「倒せたわけじゃない」

夷隅が言った。

「分かっています」

「でも、持っていかれなかった」

夷隅は立ちあがった。羽織の裾が、風にも揺れずに落ちた。

「一つ、聞いてもいいですか」

蓮は言った。自分の声が、少し掠れていた。

「あの男も……篠原さんも、もとは、問いを持っていたんですよね。眠れない夜があって、自分はなぜここにいるのかと問う夜があって。その問いを取ってやると言われて、頷いた」

「そうね」

「それは、悪いことなんですか。苦しいものを取ってもらうのは」

夷隅は、すぐには答えなかった。

墓地の向こうで、日暮里の駅を出る電車の音がした。その音も、夷隅の周りで、途切れた。

「あなたは、さっき、何を上に残したの」

蓮は、答えられなかった。答えれば、また、手が止まりそうな気がした。

「残したものは、あなたの苦しいものだった?」

「……いいえ」

「でも、残した。持って下りられなかったから。持つ場所を下げれば、上のものは、数えられなくなる。苦しいものも、懐かしいものも、区別なく」

夷隅は、蓮の頭の上の、糸の揺れない場所を見た。

「あの白い子は、それを逆に売っているの。下げるのではなく、上に蓋をする。問いのあった場所に、答えを詰める。そうすれば、もう、どこへも下りられない。下りる必要がない。苦しくない。そして、数えられることもない。あなたが、あの子の手で数えられないのは、あなたがまだ、下りられるから」

「下りれば下りるほど、僕は、何かをなくす」

「ええ」

「それでも、下りろと」

「下りろとは、言っていない」夷隅の声は、相変わらず平らだった。「下りられる、と言っただけ。どうするかは、あなたが決めなさい。あなたは、あのおばあさんのことを、自分で決めたのでしょう」

蓮は、唇を噛んだ。

この女は、責めているのではなかった。ただ、事実を、帳面に書き写すように言っただけだった。それが、どんな非難よりも、蓮の胸に重く落ちた。

「今日、あなたが上に残したもの」と夷隅は言った。「それを、忘れないで。覚えているのに数えない、というのが、どういうことか。あなたが、あのおばあさんにしたことが、どういうことか」

夷隅は、一歩、歩いた。

次の瞬間、礎石の上には、誰もいなかった。杉の葉が一枚、夷隅の座っていたところへ、今さら思い出したように、ゆっくりと落ちてきた。

六

質屋の前に、鑓水が立っていた。

中折れ帽を手に持ち、店の看板を見上げていた。蓮に気づくと、にこりとして、帽子を胸に当てた。

「やあ、影さん。ちょうどよかった。ご主人……いや、お嬢さんに、ちょっと伺いたいことがありましてね。でも、閉まっているようで」

「今日は、早仕舞いだそうです」

「そうですか。いや、無駄足でも、谷中は歩くだけで楽しい」

鑓水は、そう言いながら、蓮の顔を見ていた。

見ている、と蓮は感じた。前にほうじ茶の店で会ったときと同じ、人の好さそうな、少し眠そうな目だった。しかし、その目が、今日は、蓮の顔の上で、何かを探していた。

「影さん、どこか、お加減でも?」

「いえ」

「そうですか。いや、なんというか……」

鑓水は、帽子のつばを指でなぞった。

「前にお会いしたときと、どこか、違って見えましてね。どこがどう、とは言えないんですが。こう、引っ越したあとの家みたいな。家具はみんな残っているのに、人が一人、出ていったような」

蓮は、答えなかった。

鑓水は、自分の言ったことに、自分で少し驚いたような顔をした。

「いや、失礼。職業病です。家の中を見て回るのが仕事なもので。この頃、そういう家ばかり見ているから、人の顔まで、そう見えてしまう」

鑓水は、笑った。それから、ふと、鼻をひくつかせた。

「おや。どこかで、金木犀が咲いていますね。もう、そんな季節か」

蓮は、その匂いを嗅いだ。

確かに、金木犀の匂いがした。どこかの家の庭で、今年最初の花が開いたのだろう。甘く、少し粉っぽい、秋の匂い。

それが、何の匂いなのか、蓮には分かった。仙台の、あの借家の台所の窓から、毎年入ってきた匂いだ。母が、「今年も咲いたね」と言った匂いだ。

分かった。全部、覚えていた。

それなのに、胸は、少しも動かなかった。

鑓水は、蓮の顔を、じっと見ていた。

「……影さん。金木犀、お嫌いですか」

「いえ。好きでも、嫌いでもありません」

そう言ってから、蓮は、それが本当だということに気づいた。

鑓水は、しばらく黙っていた。そして、帽子をかぶり直した。

「そうですか。いや、実はわたしも、そうなんです。昔は好きだった気がするんですがね」

そう言って、鑓水は会釈をし、坂を下っていった。二、三歩行ったところで、振り返らずに、手帳を取り出し、何かを書きつけた。

何を書いたのか、蓮には見えなかった。しかし、想像はついた。この男は、椅子や茶碗や布団が、誰かのために残っている家を、一軒ずつ見て回っている。そういう家の数を、帳面につけている。トメが質草の数を毎晩数えていたように、この男は、数えられなくなった者の、残り香の数を数えている。

その帳面に、今、自分の名前が、一行、書き加えられたのだ。

引っ越したあとの家。家具はみな残っているのに、人が一人、出ていった家。

蓮は、その言い方が正確すぎることを、少し恐ろしく思った。

その背中を見送りながら、蓮は、自分の三歩うしろに、トメが立っているのを感じた。

トメは、鑓水の背中を見ていた。

それから、蓮を見た。

その目に、蓮は、初めて見るものを見た。憐れみだった。七十年、金を貸し、利子を取り、人の困りごとを帳面につけてきた老婆の目に、それは、ひどく不似合いだった。

その夜、台所には、湯呑みが二つ、並んでいた。

蓮は、自分の湯呑みの茶を飲んだ。温かかった。小夜が、蓮の帰りを待って、淹れ直してくれたのだろう。

屋根裏に上がり、机の引き出しから、母の手紙を出した。仙台の消印。少し右へ傾いた、几帳面な字。

封筒に、鼻を近づけた。

かすかに、ハンドクリームと、洗濯石鹸の匂いがした。

蓮は、それを嗅いだ。嗅いで、それが何の匂いかを、正確に言うことができた。

ただ、それだけだった。

蓮は手紙を封筒に戻し、引き出しにしまった。そして、胸の罅の中に、今日、上に残してきたものの名前を、一つ、書きつけた。数えられなくなったものの名前を、せめて、名前として。

母の家の匂い。

書きつけて、それを、もう一度読んだ。

読めた。意味も分かった。

それでも、それはもう、蓮を数えなかった。

◇ (第九章 了) ◇

第十章 果てなき登攀

◇ ◆ ◇

一

夕焼けだんだんの石段を、夜中に上りつづけている男がいる、という噂を、蓮は八百屋の店先で聞いた。

「上っても上っても、上に着かないんですって」八百屋のおかみが、梨を新聞紙にくるみながら、隣の煙草屋の主人に言っていた。「うちの子が塾の帰りに見たって。二時間たっても、まだ上ってたって」

「酔っ払いだろう」

「汗びっしょりで、笑ってたって。楽しそうに」

「なおさら酔っ払いだ」

二人は笑った。蓮は笑わなかった。梨を一つ買い、釣り銭を受け取りながら、石段のほうを見た。

夕焼けだんだんは、谷中銀座の入口にある、ただの石段だった。幅の広い、ゆるやかな、三十段あまりの石段。夕方になると、その名のとおり、西日が石の一段一段を赤く染める。猫が寝そべり、観光客が写真を撮る。一分もあれば、上から下まで歩ける。

鑓水の言葉を、蓮は思い出した。――あの石段の段数は、数えるたびに違うんですよ。四回数えて、三回違った。

あのときは、ただの世間話だと思った。

今は、そう思えなかった。この町では、この頃、数が合わないことが多すぎた。茶碗の数。椅子の数。帳面の行の数。数えられなくなった者がいれば、数は減る。では、数が増えるのは、何がいるときなのか。

蓮の三歩うしろで、トメが、石段を見上げていた。老婆の目は、石段のてっぺんの、何もない空に向いていた。

夕飯のとき、小夜が言った。

「影さん、この頃、夜、よく出かけられますね」

咎める声ではなかった。茶碗を持つ手を止めて、少し首を傾げただけだった。

「……散歩です。眠れないので」

「そうですか」小夜は、しばらく蓮の顔を見ていた。「この頃、谷中も、なんだか静かすぎて。夜、帳場で帳面をつけていると、誰かがいないような気がするんです。前から、誰もいないのに」

小夜は、笑おうとした。うまく笑えなかった。

「変ですよね。……気をつけてくださいね。石段、暗いですから」

卓袱台の上で、湯呑みが二つ、湯気を立てていた。一つは蓮の前に。もう一つは、誰もいない場所に。

蓮は、自分の湯呑みを両手で包んだ。

昨日、礎石のそばで、母の家の匂いを上に置いてきた。この湯呑みの温かさは、まだ、下にある。小夜の、うまく笑えなかった顔も。

では、次に下りるとき、上に残すのは、これなのか。

蓮は、茶を飲んだ。熱かった。舌が、少し痛んだ。その痛みを、蓮は、大事に数えた。

その夜、蓮は石段の下に立った。

午前一時を過ぎていた。谷中銀座のシャッターはみな下り、街灯が、石段の途中に、一つ、ぼんやりと灯っていた。猫はいなかった。風もなかった。

男は、いた。

石段の中ほどを、上っていた。

一段、上る。また一段、上る。膝を高く上げ、腕を大きく振り、まるで登山の訓練でもしているような、ひどく熱心な足どりだった。白いランニングシャツが、汗で背中に張りついていた。年は三十前後だろうか。短く刈った髪から、湯気が立っていた。

蓮は、男が上るのを見ていた。

一段、また一段。男は確かに上っていた。足は確かに次の段に乗り、体は確かに持ち上がっていた。それなのに、街灯との距離が、少しも変わらなかった。男の頭の上で、街灯は、同じ角度で、同じ明るさで、灯りつづけていた。

蓮は、男の糸を見た。

見て、息をのんだ。

糸は、上へ伸びていた。誰の糸もそうであるように。しかし、この男の糸には、節があった。竹の節のように、等間隔に、無数に。一つの節を越えるたびに、糸はその節の上から、下の節を見下ろしていた。いや、見下ろすのではない。下の節は、上の節から見ると、なかった。あるのに、数えられていなかった。

そして、その節の列の、いちばん上に、問いがなかった。

答えが詰まっていた。白解の糸と同じように。篠原の糸と同じように。ただ、詰まっているその答えは、一つの言葉の形をしていた。

――もう一段。

二

「やあ」

男が、振り返った。

上りながら振り返ったのだった。足は止めなかった。一段、上る。笑った顔が、蓮のほうを向いた。人懐こい、日焼けした顔だった。白い歯が見えた。

「こんな夜中に、学生さん? 眠れないの?」

「……あなたは、何をしているんですか」

「上ってるんだよ。見れば分かるだろう」

男は笑った。また一段、上った。

「登坂。登坂無限。変な名前だろう。親父がつけたんだ。山屋でね。無限に登れ、って。子供の頃はからかわれたけど、今は気に入ってる。名前のとおりになったから」

「どこへ、上っているんですか」

登坂は、答える前に、また一段上った。ふくらはぎの筋肉が、ランニングシャツの白さの下で、縄のように盛り上がった。

「昔、北アルプスでね」と登坂は言った。「槍の穂先に立ったことがある。三千百八十メートル。あのとき、ああ、ここがてっぺんだ、って思った。思ったのは、一秒だけだった。見上げたら、空があった。その上を、飛行機が飛んでた。飛行機の上には、雲があった。雲の上には、星があった。僕は、てっぺんに立って、一秒後には、もう、誰かの下にいた」

登坂は、笑った。その笑いは、どこにも苦しみを含んでいなかった。苦しみがあったはずの場所が、つるりと、滑らかだった。

「それからずっと、下にいた。会社でも。家でも。どこへ行っても」

蓮は、登坂の糸を、もう一度見た。

節の列の、ずっと下のほう、いちばん古い節のあたりに、何かが、ほんのかすかに、こびりついていた。乾いた泥のように。それは、かつて問いだったものの、跡だった。

「上へ」

登坂は、当たり前のことを聞かれたという顔をした。

「君、知ってる? この世には、梯子があるんだ。零階。零の梯子。上の段は、下の段を、零として数える。数えない、って言ったほうがいいかな。上に立つ者は、下の者を数えなくていい。そういうふうに、できてる」

蓮の胸の罅が、軋んだ。

それは、自分の論文の言葉だった。一字一句同じではなかった。しかし、自分が書いたことが、この男の口から、汗の匂いと一緒に出てきた。

「で、僕は気づいたんだ。梯子なら、もう一段上ればいい。誰が上にいても、その上に、もう一段ある。梯子には、てっぺんがない。無限に段がある。だったら、無限に上ればいい。そうすれば、いつかは、誰よりも上に立てる。誰のことも数えなくていい場所に」

登坂は、また一段、上った。息が弾んでいた。楽しそうだった。

「白い子がね、教えてくれたんだ。君の問いは何だって。僕は言った。『俺は、どこまで行っても誰かの下なんじゃないか』って。ずっとそれが苦しかった。会社でも、山でも、どこでも。そしたらあの子が言った。『それなら、答えはもう一段、です』って」

登坂は、胸を叩いた。

「それから、苦しくない。一度も。いい子だよ、あの子は」

蓮は、何も言えなかった。

白解が、この男の問いを取り去り、代わりに詰めた答え。その答えの、いちばん下に、自分の論文があった。零について。上に立つ者は、下を数えなくていい。

「今夜は、誰の上へ?」

と、蓮は、やっと聞いた。

登坂は、石段のてっぺんを見上げた。

「零守」

と、登坂は言った。

「梯子の番人さ。この辺りに一人、いるんだろう? 紺の羽織の女。白い子が言ってた。あの人は、まだ誰にも解かれていない、って。一度も。だから、上ってる。あの人の上まで上ったら、あの人を数えなくていい。そうしたら、あの人も、解ける」

三

登坂が、蓮のほうへ、一段、下りた。

下りたのに、上から来た。

蓮には、そうとしか言えなかった。石段の上で、男の体は確かに一段低くなった。しかし、その一段で、登坂は、蓮より上に立った。見上げたのではない。蓮の立っている場所が、登坂の足の下の、何もないところへ、すとんと落ちた。

「君、ちょっと面白い糸をしてるね」

登坂は、首を傾げた。

「罅が入ってる。珍しいな。白い子が言ってた『ほとんど解けた人』って、君のことかい?」

蓮は答えなかった。答える代わりに、手を伸ばした。

罅の奥から、見えない指を。登坂の糸の、節の一つへ。

指は、届かなかった。

届く直前に、節が、一つ、上へ増えた。登坂が、一段、上ったのだ。蓮の指が触れようとした節は、もう、登坂の足の下にあった。そして、足の下にあるものを、登坂は数えなかった。蓮の指は、数えられていないものを、つかもうとして、空を切った。

もう一度、伸ばした。

また、一段。

もう一度。

また、一段。

登坂は笑っていた。

「無駄だよ。君が手を伸ばすたびに、僕は一段上る。君がどこまで伸ばしても、僕は、その上にいる。梯子って、そういうものだろう?」

そして、登坂は、右の拳を、軽く振り下ろした。

速くはなかった。殴る、というより、上から物を置くような手つきだった。

拳は、蓮の左肩に当たった。

痛くなかった。

痛くないことが、恐ろしかった。拳が触れた場所から、蓮の左腕が、数えられなくなっていった。腕はあった。袖の中に、ちゃんとあった。指も五本あった。しかし、蓮はもう、それを自分の腕として数えられなかった。持ち上げようとしても、持ち上げる、ということが、その腕には、届かなかった。

上から来るものは、下を零にする。

蓮は、右手で、登坂の手首をつかもうとした。つかめた。汗で滑る、太い、熱い手首だった。しかし、つかんだ瞬間、蓮の右手の握力が、蓮のものでなくなった。握っている。確かに握っている。だが、その握る力は、登坂の一段の下で、零として扱われた。登坂の腕は、蓮の手の中を、何もないところを通るように、通り抜けていった。

蓮は、体をひねって、拳から逃げようとした。脇腹の、松の湯で痛めた肋骨が、悲鳴を上げた。その痛みだけは、まだ蓮のものだった。足が、石段の縁を踏み外した。背中から、二段下の石に落ちた。後頭部が石に当たり、目の奥に、白い火花が散った。口の中に、血の味がした。

登坂は、急がなかった。一段、下りてきた。下りて、また、上から来た。

登坂の拳は、そのまま、肩から胸へ、滑ってきた。胸の少し上。感じるところへ。

蓮は、下りた。

考えるより先に、手が、糸を下へ滑った。昨日、夷隅に教わったとおりに。感じるところより下へ。礎石の、苔の生えた、冷たい石のところまで。

拳が、胸に届いた。

届いて、胸の上のほうを、零にした。

そこで、止まった。

蓮が自分を持っている場所は、拳が零にしたところより、下にあった。登坂の一段は、蓮の上半分を踏んだ。しかし、蓮の根もとまでは、踏めなかった。

登坂が、眉を上げた。

「へえ」

登坂は、一段、上った。拳に、もう一段分の高さが乗った。

蓮は、また、下りた。

糸の結び目が、また一つ、上に残された。何だったのか、蓮には分からなかった。分かる暇がなかった。

登坂が、もう一段上る。

蓮が、もう一段下りる。

一段ごとに、蓮の中の何かが、上へ置き去りにされた。一段ごとに、登坂の拳は重くなった。石段の上で、男が上り、少年が下りる。その距離は、少しも縮まらなかった。

そして、蓮は気づいた。

自分には、下りる段が、無限にはない。

下りるたびに、何かを置いていく。置いていくものは、いつか尽きる。登坂は、上るたびに、何も失わない。ただ、もう一段、と言えばいい。

四段目で、蓮の膝が、石段についた。

五段目で、蓮は、トメの重さを感じた。

下の、下の、いちばん下。糸の根もとの、冷たい石のすぐそばに、老婆の重さがあった。それより下へは、下りられなかった。下りれば、トメを上に置いていくことになる。

蓮は、そこで、糸を握りしめた。

「……もう、下りません」

と、蓮は言った。誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

登坂が、六段目を上った。

四

拳は、下りてこなかった。

登坂は、六段目の上で、止まっていた。上ったまま、蓮を見ていなかった。石段のてっぺんを見上げていた。

街灯の下に、紺の羽織が立っていた。

いつからそこにいたのか、誰にも分からなかった。石段の、最後の一段の上に、夷隅は、最初からそこに置かれていた灯籠のように、立っていた。音も、匂いも、夷隅の周りで途切れていた。登坂の荒い息も、そこまでは上っていかなかった。

「零守」

登坂が、笑った。心から嬉しそうに。

「やっと会えた。白い子の言ったとおりだ。本当に、誰にも解かれてない顔をしてる」

夷隅は、登坂を見なかった。

蓮を見ていた。膝をつき、左腕をだらりと下げた蓮を。

「止まったのね」

と、夷隅は言った。

「……はい」

「どこで」

「トメさんの、上で」

夷隅は、何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに、目を細めた。前にもそうしたことがあった。何か、あまりに小さなものを、よく見ようとするときに。

「無視かい」

登坂が、石段を上り始めた。

今度は、蓮に向けてではなかった。夷隅に向けて。一段、また一段。膝を高く上げ、腕を大きく振り、汗を飛ばしながら。

蓮は、それを見た。

石段は、三十段あまりしかないはずだった。登坂は、その三十段を上った。四十段を上った。百段を上った。石段は、終わらなかった。登坂の足の下に、次の段が、次の段が、当たり前のように現れた。登坂の糸の節が、百、千と増えていった。一つ増えるたびに、下の千の節は、零になった。千の上に、千一がある。万の上に、万一がある。その先にも、その先にも。

登坂は、たしかに、上っていた。

蓮には、それが分かった。一段ごとに、登坂は、その前の自分の全部を、足の下の零にしていた。それは、嘘の上昇ではなかった。本物の、果てのない上昇だった。

それなのに。

夷隅との距離は、変わらなかった。

最初に見上げたときと、同じだった。街灯の下の紺の羽織は、同じ高さに、同じ遠さに、立っていた。登坂が千段上っても、万段上っても、夷隅は、最後の一段の上にいた。あの雨上がりの坂で、蓮が夷隅の糸へ指を伸ばしたときと同じだった。あのとき、蓮の指は、伸びるだけ伸びても、まだ夷隅の足の裏のずっと下にあった。

登坂の上昇は、本物だった。

しかし、それは、どこまで行っても、同じ種類の上昇だった。

一段、また一段。数は増える。数が増えても、段の高さは、変わらない。無限に上っても、登坂は、段を上っているだけだった。夷隅は、段の上にいるのではなかった。

どこにいるのか、蓮には分からなかった。ただ、段を上る、という仕方では、そこへは着かない、ということだけが、見ていて、はっきりと分かった。

登坂の息が、荒くなった。

汗が、顎から滴った。滴は、石段に落ちる前に、段の下の零へ、吸いこまれるように消えた。登坂のランニングシャツは、もう、背中に張りついているのではなく、体と一つになったように濡れていた。膝が、一段ごとに、わずかに震えた。体は、疲れていた。確かに疲れていた。ただ、その疲れを、登坂は、数えていなかった。疲れは、いつも、一段下に置いてきたから。

それでも、笑っていた。

「遠いなあ」

と、登坂は言った。嬉しそうに。

「遠い。いいね。遠い人は、いい」

夷隅が、初めて、登坂を見た。

「数えても」と夷隅は言った。「背は伸びない」

それだけだった。

登坂は、足を止めなかった。

「じゃあ、もっと数える」

一段。

「まだ、数え終わってない。梯子には、てっぺんがないんだ。だから、僕は、負けない。負けようがない。上る段がある限り」

また、一段。

夷隅は、登坂から目を離した。興味を失ったのではなかった。最初から、興味を持つべき高さに、登坂がいなかったのだ。

夷隅は、蓮のほうへ、一歩、歩いた。

その一歩で、夷隅は、蓮の前に立っていた。最後の一段から、蓮のいる六段目まで。登坂が千段、万段を上っても縮まらなかった距離を、夷隅は、一歩で、下りてきた。

夷隅は、蓮の左肩に、指を一本、置いた。

左腕が、戻ってきた。

戻る、という感じではなかった。数えられなくなっていたものが、もう一度、数えられるようになった。冷たかった指に、血が通った。蓮は、その指を握り、開いた。

「上から零にされたものは、もっと上から数え直せる」夷隅は、静かに言った。「あなたが上に置いてきたものは、違う。あれは、あなたが自分で置いた。誰も、数え直せない」

蓮は、うなずいた。

分かっていた。昨日、礎石のそばで、分かっていた。

五

振り返ると、登坂は、まだ上っていた。

石段の上のほうで、白いランニングシャツが、街灯の光の中を、上へ、上へと動いていた。いや、動いていなかった。同じ場所で、同じ角度で、上りつづけていた。

「また来るよ、零守」

登坂の声が、遠くから降ってきた。

「何度でも来る。僕は疲れない。上るのが、答えだから。学生さん、君もいつか、上においでよ。下りるより、ずっと楽だよ」

夷隅は、答えなかった。

次に蓮がまばたきをしたとき、夷隅も、登坂も、いなかった。

石段は、三十段あまりの、ただの石段に戻っていた。街灯が一つ、ぼんやりと灯っていた。どこかで、猫が一声、鳴いた。

蓮は、石段に座りこんだ。

膝が震えていた。左腕は、ちゃんと動いた。胸の上のほうも、少しずつ、感じを取り戻していた。登坂の拳が零にしたものは、夷隅が、数え直してくれたのだ。

しかし、蓮が自分で下りたぶんは、戻らなかった。

五段。五つの結び目を、今夜、上に置いてきた。何だったのか、一つも思い出せなかった。いや、思い出せた。思い出そうとすれば、きっと思い出せた。ただ、思い出しても、それが自分の何だったのかを、数えることができなかった。

蓮は、登坂の顔を思い出した。

汗と、白い歯と、心からの笑顔。一度も苦しくない、と言った顔。

あの男は、自分の論文を、生きていた。

上に立つ者は、下を数えなくていい。蓮が紙の上に書いたことを、あの男は、足で、膝で、汗で、生きていた。一段ごとに、下の自分をまるごと零にしながら。そして、それでも、夷隅には届かなかった。どれだけ数を重ねても、届かなかった。

では、自分の論文は、何だったのか。

上に立てば、下を数えなくていい。しかし、上に立つということが、段を数えることでしかないのなら、その権利は、どこにあるのか。千段目の者は、九百九十九段目を数えなくていいのか。万段目の者は。そして、そのすべての段のずっと上で、夷隅は、登坂を数えなかったのではない。ただ、見なかったのだ。見る高さに、いなかったから。

それは、権利だったのか。

蓮は、自分がトメの糸を切った夜のことを思い出した。あのとき、自分は、自分がトメより上にいると思っていた。思っていた、というより、上にいるはずだと、論文で証明したつもりでいた。証明したから、切れた。切れたから、正しかった。

しかし、今夜、蓮は見たのだ。本物の上昇を。千段、万段と、下の自分を零にしながら上っていく男を。その男が、どれだけ上っても、最初の一段と同じ距離に、夷隅はいた。

自分は、トメより、一段でも上にいたのか。

いなかった、と夷隅は言った。あなたの糸は、あの女の糸より一段も上ではない、と。それでも、あなたは下に置いた、と。

蓮には、分からなかった。分からないまま、その問いを、また一本、罅の中に抱えた。

トメが、蓮の隣に座った。

三歩うしろではなかった。隣だった。石段の、同じ段に。

老婆は、何も言わなかった。ただ、蓮の置いた梨の包みを、じっと見ていた。

「……食べますか」

と、蓮は言った。言ってから、馬鹿なことを言ったと思った。トメに、梨は食べられない。

トメは、首を横に振った。

それから、ほんのかすかな声で、言った。

「……上に、置いてきなさんな」

蓮は、トメを見た。

「あたしを」

トメは、それだけ言って、黙った。

蓮は、梨の包みを膝に乗せ、長いあいだ、その重さを感じていた。梨一つぶんの重さ。それは、まだ、数えられた。

石段の上のほうを、蓮は見上げた。街灯の光の輪の中に、もう誰もいなかった。ただ、光の届くいちばん上の段に、汗の染みが、一つ、丸く残っていた。見ているうちに、それは、九月の夜気の中で、ゆっくりと乾いていった。

あの男は、今も、どこかで上っているのだろう。どの梯子の、どの段かは分からない。ただ、もう一段、もう一段と、苦しみのない顔で。

蓮は、自分の手のひらを見た。握りしめていた糸の感触が、まだ残っていた。冷たく、苔の生えた石の感触。その上に、トメの重さ。

下りることには、底がある。上ることには、てっぺんがない。

それでも、今夜、負けなかったのは、底があるほうだった。

翌朝、蓮が質屋の前を掃いていると、坂の下から、鑓水が上ってきた。

帽子を脱いで、会釈をした。額に、うっすらと汗をかいていた。

「いやあ、影さん。今朝、ちょっと早起きをしましてね。夕焼けだんだんの段を、また数えてきたんですよ」

「……何段でしたか」

鑓水は、手帳を開いた。

「三十九段」

蓮は、箒の手を止めた。

「おかしいでしょう。去年、区の案内板で確かめたら、三十六段だったんです。わたしが数えたときも、三十六、三十七、三十六、三十五。多少ずれることはあっても、三十九は、初めてだ」

鑓水は、手帳を閉じた。

「誰かが、夜のあいだに、段を増やしたみたいじゃないですか」

そう言って、鑓水は笑った。いつもの、人の好さそうな笑いだった。

しかし、その目は、笑っていなかった。蓮の顔を見ていた。昨日と同じように、引っ越したあとの家を見るような目で。

そして、その目が、ふと、蓮の三歩うしろではなく、蓮の隣の、何もない場所に、ほんの一瞬、止まった。

◇ (第十章 了) ◇

第十一章 三つの無

◇ ◆ ◇

一

肋骨の痛みは、三日たっても引かなかった。

朝、寝返りを打つたびに、脇腹の奥で、古い蝶番のようなものが軋んだ。蓮は天井の染みを数えながら、その軋みが収まるのを待った。染みは十一あった。昨日も十一あった。数えられるものが、数えたとおりにそこにあることが、このごろの蓮には、ひどくありがたかった。

階下で、小夜が雨戸を開ける音がした。九月の光が、屋根裏の小窓から斜めに差しこみ、埃を金色に浮かべた。

あの男のことを、蓮は考えていた。

登坂無限。

一昨日の夜、止まった時間の底から、石段を一段ずつ上がってきた男。汗を拭い、息を整え、上がるたびに、律儀に声に出して数えていた男。夷隅は、あの男を相手にしなかった。相手にする必要がなかった。男が一段上がると、夷隅はそこにいなかった。男がもう一段上がっても、やはりいなかった。男は笑って、「遠いなあ」と言い、また上がった。夜が明けるまで、上がりつづけた。

蓮は、その背中を忘れられなかった。

上がれば届くと、心の底から信じている背中だった。信じることが、そのまま足になっている背中だった。

――自分も、ああだったのではないか。

論文を書いた夜の自分。上に立てば、下を数えなくてよいと書いた自分。あの一行を書いたとき、蓮の胸にも、きっと、ああいう足があった。

下で、湯呑みが二つ、卓袱台に置かれる音がした。

蓮は身を起こした。脇腹が、また軋んだ。

昼すぎ、根津の古い喫茶店に入ると、窓際の席に、鑓水がいた。

偶然ではないのだろうと、蓮は思った。この男に会うとき、偶然だったことは一度もなかった。鑓水は、扇子を膝に置き、冷めた珈琲を前に、新聞を畳んでいた。蓮に気づくと、少しも驚かずに、向かいの椅子を手で示した。

「やあ、影さん。ちょうど、ひとりで退屈していたところでして」

断る理由を探すより先に、蓮は座っていた。脇腹が軋み、思わず息が詰まった。

「おや」鑓水は、目を細めた。「お怪我ですか」

「階段で、転びました」

「谷中は、階段の多い町ですからな」鑓水は、あっさりと頷いた。頷きながら、蓮のシャツの、左の脇のあたりを、一度だけ見た。「松の湯の跡、ご存じですか。廃業した銭湯の。このあいだ、あそこで、男の方が亡くなっておりましてね。保険会社にお勤めだった方です。奇妙なことに、ご家族が、どなたも、あまり悲しんでおられない。悲しむ理由を、思い出せない、という顔をなさる」

蓮は、水の入ったコップを見た。氷がひとつ、かすかな音を立てて沈んだ。

「……気の毒な話ですね」

「ええ、まったく」鑓水は、扇子をゆっくりと開いた。「ところで、影さん。先日お会いしたときと、どうも、お顔の具合が違う。痩せた、というのではない。なんと申しますか、話していると、こちらの言葉が、一段下のほうへ落ちていって、そこから返事が上がってくるような」

蓮は、答えなかった。

「妙なことを申しました。年寄りの勘です」鑓水は笑った。「先日、質屋さんの前で、金木犀が匂ったでしょう。今年最初の。私は、ああいう匂いがすると、どうしても、田舎の家を思い出してしまう口でしてね。あなたも、何か思い出しておいでのようだった。それなのに、お顔は、他人様の庭の話を聞いているようでしたよ。今日も、この店の裏の家で、あの木が咲いている。お気づきでしたか」

蓮は、気づいていなかった。窓の隙間から、確かに、甘い、少し粉っぽい匂いが流れこんでいた。蓮は、仙台の借家の台所を思い出そうとした。思い出せた。日に干した布団。醤油で煮しめた牛蒡。窓から入ってくる、この同じ花の匂い。母の手の、安いハンドクリーム。ひとつずつ、正確に言えた。ただ、言葉にしても、胸のどこにも、何も触れなかった。

鑓水は、珈琲の代金を二人分、卓の上に置いて立ち上がった。

「影さん。私は、数えるのが仕事でしてね。死んだ人、いなくなった人、帳尻の合わない人。数えているうちに、ときどき、ひとり多いような気がする晩がある」扇子を、ぱちりと閉じた。「そういう晩には、多いほうを信じることにしております。では、お大事に」

鑓水が出ていったあとも、蓮は、しばらく動けなかった。窓の外で、猫が一匹、塀の上を、端から端まで歩いていった。

その日の夕方、谷中の時間が、また止まった。

蓮は夕焼けだんだんの石段の中ほどにいた。買い物袋を提げた主婦の手から、葱が一本、落ちかけたまま宙に浮いていた。石段の下で、三毛猫が、欠伸の途中で口を開けたまま固まっていた。夕陽は、傾いたまま動かなかった。風鈴の舌が、鳴る前の角度で止まっていた。

石段のいちばん上に、夷隅が立っていた。

いつもの、墨色の着物だった。帯のあたりが、ほんの少し、ほつれていた。一昨日の夜には、なかったほつれだった。

「来なさい」

夷隅はそれだけ言った。

蓮は、止まった葱の横をすり抜けて、石段を上った。上りながら、段を数えた。三十六。いつもは三十六段だ。三十七段目に、足が乗った。三十八段目にも乗った。石段は、夕焼けの色のまま、蓮の足もとから、どこまでも上へ続いていた。

振り返ると、谷中の町は、もう、ずいぶん下にあった。

下にある、というのとも違った。遠いのではなかった。小さいのでもなかった。ただ、そこにあるものが、ここからは、何も占めていなかった。

トメが、三段下にいた。いつもの紺の絣で、下駄の音を立てずに、ついて来ていた。

二

「あの男は、また来ます」

石段の途中の、少し幅の広い踊り場で、夷隅は言った。

「今夜か、明日か。あれには、時間は関係がない。上がることしか、していないから」

「あの人は」蓮は言った。「あなたに、届かないんですか」

「届きません」

「どうして」

夷隅は答えなかった。代わりに、蓮の顔を、長いこと見た。黒い目だった。その目の中で、蓮は、自分がどれくらいの大きさで映っているのか、分からなかった。

「あなたは、打たれても、何に打たれたのか分からない」夷隅は言った。「それでは、次は死にます。死ぬか、死ぬより悪いことになる」

「……教えてください」

「教えません」

夷隅は、右手を、軽く持ち上げた。

「打ちます。覚えなさい」

最初は、小石だった。

夷隅は、踊り場の隅から、小指の先ほどの小石を拾い、蓮の掌に載せた。

「握りなさい」

蓮は握った。冷たく、角のある、ただの石だった。

夷隅の指が、蓮の拳に、そっと触れた。

拳の中が、軽くなった。

蓮は手を開いた。何もなかった。石は消えていた。砕けたのでも、落ちたのでもなかった。ただ、なかった。けれども、掌には、まだ、冷たさの形が残っていた。石の角が皮膚に押しつけた小さな窪みが、赤く、二つ、並んでいた。

「これが、無」夷隅は言った。「物が、なくなる。それだけです。いちばん浅い。あなたの手は、石があったことを覚えている。同じ石は、もうないけれど、また石を拾えば、そこに載る」

夷隅は、もう一つ小石を拾い、蓮の窪みに載せた。石は、窪みにぴたりと収まった。

「場所が、残っているから」

二度目は、足だった。

「上がりなさい」

蓮は、踊り場から、次の段へ足を出した。

夷隅が、その段を見た。触れもせず、指さしもせず、ただ、見た。

蓮の足は、下りなかった。

段は、そこにあった。夕焼けの色の、欠けた石の段が、目の前に、確かにあった。壊れてもいなかった。消えてもいなかった。だが、蓮の足は、そこへ下りることが、できなかった。重さを預けようとした瞬間、預ける先が、ないのだった。段がないのではない。段に足を置く、ということが、世界のどこにも、起こりうることとして、なかった。

蓮は、宙で片足を上げたまま、ぐらりと傾いた。夷隅の手が、蓮の襟を掴んで、引き戻した。

膝が、がくがくと震えていた。

「これが、空」夷隅は言った。「物は、ある。けれど、物の置き場所がない。そこに足が下りる、という余地が、消える。起こりうることが、起こりえなくなる」

蓮は、段を見た。段は、何も変わらずに、そこにあった。

「さっきの石は、また拾えば載った」蓮は、自分の声が乾いているのを聞いた。「これは」

「載りません。いくら拾っても。いくら治しても」夷隅は言った。「無から、物は、また生まれます。場所があるから。空からは、何も生まれない。生まれるための、場所がないから」

それから、夷隅は、その段から目を外した。

蓮は、恐る恐る、もう一度足を出した。今度は、下りた。石の固さが、足の裏に戻ってきた。蓮は、それだけで泣きそうになった。

三度目は、指だった。

夷隅は、蓮の左手を取った。冷たい手だった。温度のない冷たさではなかった。雪のような、確かに冷たいという冷たさだった。夷隅は、蓮の小指に、自分の親指の腹を、軽く押し当てた。

それだけだった。

蓮は手を見た。

小指は、あった。動かすと、動いた。曲げると、曲がった。爪の形も、関節の皺も、昨日と同じだった。触れば、触った感じがした。

「数えなさい」と夷隅は言った。

蓮は、左手の指を、親指から順に折った。一、二、三、四。

四で、終わった。

蓮は、もう一度数えた。一、二、三、四。小指は、そこにあった。目で見えていた。曲げることもできた。それなのに、数えようとすると、数が、その指の上を、するりと通りすぎた。まるで、指と指のあいだに、ただ少し広い隙間があるだけのように。

右手と合わせて、九本だった。

「これが、虚零」

夷隅の声は、変わらなかった。

「物は、ある。場所も、ある。けれど、数える権利がない。足しても、何も増えない。治そうとしても、治すものがない。壊れていないから。ただ、数に入らない」

蓮は、自分の小指を見つめた。

見つめているうちに、胸の底から、冷たいものが、ゆっくりと上がってきた。それは吐き気に似ていた。

背後で、トメが、身じろぎする気配がした。

蓮は振り向けなかった。

――これを、自分は、した。

この老婆に。

壊したのでも、消したのでもなかった。トメは、そこにいる。場所もある。朝には起き、夜には眠る。ただ、数に入らない。釣り銭を渡されない。湯呑みを注がれても、なぜ注がれるのか、注いだ者にも分からない。

自分の小指一本のことで、こんなにも、胸が冷える。

では、トメは、この一年を、どうやって。

「……返してください」蓮は、かすれた声で言った。

「貸しただけです」

夷隅は、もう一度、蓮の小指に触れた。数えると、五本になった。蓮は、その五本目を、右手でぎゅっと握った。握りしめたまま、しばらく、顔を上げられなかった。

「三つを、間違えないこと」夷隅は言った。「無を受けたなら、また拾えばいい。空を受けたなら、別の段を探しなさい。虚零を受けたなら――」

そこで、夷隅は、言葉を切った。

石段の、ずっと下から、声が聞こえてきたからだった。

「……千と、八十二。千と、八十三」

三

登坂無限は、一昨日と同じ格好をしていた。

色の抜けた登山用の上着に、膝の出た作業ズボン。底のすり減った革の登山靴。三十をいくつか過ぎたくらいの、日に焼けた男だった。額に汗を浮かべ、首に手拭いを巻き、一段ごとに、きちんと膝を上げて上がってきた。急いではいなかった。息も、乱れていなかった。長い山道を、自分の歩幅で登る人の、落ち着いた足どりだった。

「千と、九十」

男は、踊り場の三段下で、立ち止まった。手拭いで顔を拭き、にこりと笑った。

「やあ。また会いましたね、お嬢さん。それから――」男は、蓮を見た。「ああ、君か。論文の人だ」

蓮は、答えなかった。

「読みましたよ。いい文章だった」登坂は、嬉しそうに言った。「上にいる者は、下を数えなくていい。ね。僕はあれを読んで、分かったんです。ああ、上がればいいんだ、って。上がりつづければ、いつか、いちばん上に着く。いちばん上に着けば、何も、僕を数えなくていいなんて言えない」

男の糸を、蓮は探した。

やはり、なかった。篠原と同じように、胸の上に、何かが、きちんと収まっていた。ただ、篠原のそれが、答案の最後の欄に清書された答えだとすれば、登坂のそれは、どこまでも続く算用数字の列のようだった。一、二、三、四。終わりのない、けれども少しも迷わない列。次の数は、必ず、前の数より一つ大きい。それだけが、この男の、問いのかわりに、そこにあった。

「お嬢さん」登坂は、夷隅に向かって、明るく言った。「今日は、ちょっと、やり方を変えてみます。上がるだけじゃ、どうも、届かないみたいなので」

夷隅は、何も言わなかった。

「昔ね、山をやってたんです」登坂は、誰に聞かせるともなく言った。「八千メートルの頂上にも、二度立った。でも、立つたびに思った。まだ上がある、って。空がある。空の上がある。頂上ってのは、足がそれ以上上がらない場所のことで、上がないって意味じゃない。だから、足が上がる山を、ずっと探してた。そしたら、見つけたんです。この石段を。ここは、いくら上がっても、次の段がある」

男は、心から幸福そうに笑った。

「こんなにありがたいことは、ないですよ」

登坂は、手拭いを首に戻した。そして、蓮を見た。

「君、ちょっと、どいてもらえますか」

その声には、少しの悪意もなかった。山道で、前を歩く人に道を譲ってもらうときの声だった。

四

それは、打撃ではなかった。

登坂は、動かなかった。拳も上げなかった。ただ、蓮のほうを見て、ほんの少し、首を傾けた。邪魔な枝を、どう避けて通ろうかと考えるときのように。

蓮の足もとが、消えた。

足もとだけではなかった。

蓮は、そこにいた。体は、どこも欠けていなかった。息もしていた。だが、蓮が「ここにいる」ということの、その「ここ」が、どこにもなかった。踊り場が消えたのではない。踊り場は、夕焼けの色のまま、そこにあった。蓮が、そこに在ってよい、という余地が、なかった。

――空だ。

夷隅が見せた段と、同じだった。いや、段ではなかった。蓮そのものだった。蓮が在りうる、ということが、起こりえないこととして、世界から削られていた。

夷隅の手が、蓮のほうへ伸びるのが、見えた気がした。けれども、その手が届く先に、蓮はいなかった。届くための場所が、なかった。

石段の下のほうで、トメが、何か叫んでいた。声は聞こえなかった。数えられていない者の声だからではなかった。蓮の側に、声の届く耳の置き場所が、もう、なかったのだ。

体が、端から、ほどけはじめた。

痛みはなかった。崩れる感じもなかった。ただ、指先の、在ってよい場所がなくなり、手首の、在ってよい場所がなくなった。在るのに、在りうる場所がないものは、どうなるのか。蓮は、それを、自分の体で知りつつあった。そこに在るものが、次の瞬間には、そこに在ったことのない形に、静かに変わっていく。

――間違えるな。

夷隅の声ではなかった。蓮自身の声だった。

これは無ではない。自分は、なくなっていない。なくなったのなら、また拾えばいい。だが、拾うための場所がない。

これは虚零でもない。自分は、数えられている。登坂は、自分を数えたうえで、どかそうとしている。だから、数えてくれと叫んでも、意味がない。

空だ。場所がない。

蓮は、治ろうとした。石を拾いなおすように、自分を拾いなおそうとした。だが、拾いなおした手は、置く場所がないまま、また、そこに在ったことのない形へ、ほどけていった。治すという力は、無には効く。空には効かない。夷隅の言ったとおりだった。治すほど、ほどける速さが、はっきりと分かるだけだった。

では、場所を持たないものは、何だ。

初めから、どこにも置き場所を持たなかったものは。

ほどけていく腕の奥で、胸の罅が、軋んだ。

蓮は、その軋みに、しがみついた。

罅の中には、あの夜があった。トメの糸に手を伸ばした夜。自分は、そうしてよい者なのかを、試した夜。そして、その答えが、まだ出ていなかった。

――自分は、した。

――自分には、する権利がなかった。

その二つが、一つの胸の中で、どちらも少しも譲らずに、ぶつかりあっていた。どちらかが正しければ、もう一方は消えるはずだった。だが、どちらも消えなかった。消えないまま、蓮を、二つに裂いていた。白解が、人を引き裂くと言ったもの。篠原の胸から、取り去られたもの。

その裂け目は、どこにも置かれていなかった。

初めから、置き場所などなかった。「した」と「する権利がなかった」が、同時に在ってよい場所など、この世界のどこにも、ありはしない。それでも、それは在った。場所なしで、在った。在ってはならないまま、在りつづけていた。

だから、場所を消されても、それは、どこへも行かなかった。

「――アポリア」

夷隅の声が、すぐ近くで、一度だけ、した。

蓮には、その言葉の意味は、分からなかった。分からなかったが、それが、今自分のしがみついているものの名であることだけは、分かった。

蓮は、その裂け目を、両手で握った。

握った手が、戻ってきた。

手首が戻り、腕が戻り、肩が戻った。場所が戻ったのではなかった。蓮は、場所の上にではなく、自分の裂け目の上に、立ち直ったのだった。踊り場の石が、足の裏に、また固く触れた。そのことを、蓮は、あとから知った。

蓮は、膝をついて、激しく咳きこんだ。

登坂は、ぽかんとしていた。

それから、手拭いで額を拭い、声を上げて笑った。

「へえ。へえ、そうか」心から、面白がっていた。「どかしたはずなんだけどな。君、どこに立ってるんです」

蓮は答えられなかった。自分でも、分からなかった。

登坂の目が、蓮の胸のあたりに、ほんの一瞬、止まった。そこに何かを見つけて、首を傾げ、それから、興味をなくしたように、目を上げた。

「まあ、いいや。君は、段の上にいないみたいだ。段の上にいないものは、僕の邪魔にはならない」

男は、夷隅を見上げた。

「次は、全部持ってきますよ、お嬢さん。僕の段を、全部」

そう言うと、登坂は、踵を返し、石段を、下りはじめた。下りながら、また数えていた。千と、八十九。千と、八十八。その声が、夕焼けの色の中に、少しずつ、遠ざかっていった。

五

夷隅は、長いあいだ、黙っていた。

蓮は、石段に座りこんだまま、自分の両手を見ていた。震えが、止まらなかった。十本の指を、何度も数えた。十本あった。十本あることを確かめても、震えは止まらなかった。

「さっきの言葉は」蓮は、ようやく言った。「何ですか」

夷隅は、答えなかった。

その代わりに、夷隅は、帯のほつれに、そっと手を当てた。ほつれは、さっきより、ほんの少し、広がっていた。夷隅が、蓮の前に立っていたことに、蓮はそのとき初めて気がついた。登坂が首を傾けた、あの一瞬に。

「あなたは」夷隅は言った。「それを、解かないこと」

それだけだった。

夷隅は、石段の上のほうへ歩きだした。三段上がったところで、いつものように、そこにいなくなった。

時間が、戻った。

葱が、主婦の袋から落ちて、石段を転がった。三毛猫が、欠伸を終えて、口を閉じた。風鈴が、一度、鳴った。石段は、三十六段に戻っていた。

蓮は、転がってきた葱を拾い、主婦に渡した。主婦は、礼を言って、少し怪訝そうに蓮の顔を見た。汗で、シャツが背中に貼りついていた。

トメが、石段の下で、待っていた。

老婆は、蓮の左手を見ていた。小指のあたりを。

蓮は、その目を、正面から見返すことができなかった。

「ばあさん」蓮は言った。声が、ひどく小さかった。「……一本でも、ああなんだな」

トメは、何も言わなかった。

ただ、蓮の横を、いつもより、半歩だけ近く、歩いた。

下宿に戻ると、小夜が、帳場で帳面をつけていた。

「お帰りなさい。汗、すごいですよ」

「石段を、何度か、上り下りしたので」

「まあ」小夜は、少し笑った。それから、帳面に目を戻した。「影さん、ちょっと、見てもらえます? 今月の、お預かりの数が、どうしても合わないんです。何度数えても、ひとつ、多いの」

蓮は、帳面をのぞきこんだ。細い、右に少し傾いた字で、品物の名が並んでいた。その字が誰のものか、蓮は知っていた。帳面の数は、合っていた。合っていないのは、小夜の胸の中の数のほうだった。数えられない誰かの分だけ、いつも、ひとつ、多い。

「……合ってますよ」蓮は言った。「多いと思うのは、たぶん、あなたが丁寧だからです」

「そうかしら」小夜は、首を傾げた。「でも、ひとつ多いほうが、なんだか、安心するんです。変ですよね」

蓮は、何も言えなかった。帳場の隅の暗がりで、トメが、孫娘の背中を、じっと見ていた。

夜、蓮は屋根裏で、ノートを開いた。

鉛筆で、三つの字を書いた。無。空。虚零。

無は、物をなくす。場所は残る。だから、また拾える。

空は、場所をなくす。物は残っていても、在りうることが消える。だから、何も生まれない。

虚零は、何もなくさない。物も、場所も、残る。ただ、数える権利を、取り上げる。

蓮は、三つ目の字の下に、長いあいだ、鉛筆の先を置いていた。

自分がトメにしたのは、三つ目だった。

いちばん深い、と夷隅は言わなかった。いちばん浅いのが無だと言っただけだった。だが、蓮には分かった。無なら、トメは死んでいた。死ねば、人は悼まれる。数えられたまま、いなくなる。空なら、トメは、初めからいなかったことになっていた。小夜は、祖母のことを、何も覚えていなかっただろう。けれど、虚零は。

トメは、ここにいる。ここにいて、数に入らない。その差分の中で、毎日、生きている。

自分は、いちばん残酷なものを、選んだのだ。選んだつもりもなく。

鉛筆の先が、ノートの紙に、小さな穴をあけた。

蓮は、もう一行、書き足そうとした。自分は、それをしてよい者だったのか。書きかけて、やめた。答えを書けば、あの裂け目が、閉じてしまう気がした。今夜、自分を、場所なしで立たせたものが。

階下で、湯呑みを洗う音がした。二つ分の音だった。

蓮は、ノートを閉じた。閉じた表紙の上に、左手を置いた。五本の指を、もう一度、ゆっくりと数えた。

五本目を数えるとき、胸の罅が、かすかに、軋んだ。

それは、痛みに似ていた。そして、痛みであることを、蓮は、はじめて、少しだけありがたいと思った。

◇ (第十一章 了) ◇

第十二章 梯子の戦い

◇ ◆ ◇

一

登坂無限が「全部」を持ってきたのは、それから四日目の、真夜中だった。

蓮は、眠っていなかった。屋根裏の布団の上で、天井の十一の染みを、何度も数えていた。十一。十一。数えるたびに、同じ数が返ってきた。そのことに縋るようにして、夜を過ごしていた。

零時を少し過ぎたころ、階下の柱時計の音が、途中で止まった。

振り子の、左へ振れきった、あの一瞬の、かち、という音の前半だけが鳴って、後半が来なかった。窓の外で、夜風に揺れていた隣家の柿の葉が、揺れの途中で、止まった。遠くを走っていた車の音が、音のまま、空中に貼りついた。

蓮は、起き上がった。

階段を下りると、台所の卓袱台に、湯呑みが二つ、伏せて置かれていた。小夜は、奥の部屋で眠っていた。寝息が、吸ったまま、吐かれずに止まっていた。蓮は、その襖の前で、少しだけ立ち止まった。

――あの子を、ひとりにしないでくださいまし。

トメが、土間に立っていた。紺の絣の上に、古い羽織を一枚、引っかけていた。老婆は、蓮を見て、それから、玄関の戸を見た。行くのか、とも、行くな、とも、言わなかった。

「すぐ、戻る」と蓮は言った。

トメは、首を横に振った。そして、下駄を履いた。

ついて来る、という意味だった。

蓮は、止めようとして、やめた。止める言葉を、自分は持っていなかった。この老婆がどこへ行くかを決める権利を、自分はとうに、別の形で使いはたしていた。

玄関の戸を開けると、路地の夜気は、止まったまま、肌に触れなかった。どこかの家の犬が、吠える口の形のまま、声を出さずにいた。二人は、音のない路地を、坂の下へ向かって歩いた。トメの下駄は、やはり、鳴らなかった。

夕焼けだんだんの石段は、夜の色をしていなかった。

真夜中なのに、石段だけが、夕焼けの色に濡れていた。三十六段目から先が、上へ、上へと、どこまでも続いていた。そして、今夜は、下へも続いていた。谷中銀座の、シャッターの閉まった商店街の敷石が、いつのまにか段になり、段が段を呼んで、地の底のほうへ、同じ夕焼けの色のまま、降りていた。

石段のずっと上に、夷隅が立っていた。

蓮は、上った。数えなかった。数えても意味がないことを、もう知っていた。上っているのか、ただ夷隅のほうへ近づいているのか、自分でも分からなかった。やがて、夷隅の立つ踊り場の、二段下まで来た。

夷隅は、振り向かなかった。下を見ていた。

「下がっていなさい」夷隅は言った。「あなたの段で」

「あの人は」

「来ています」

蓮は、夷隅の視線の先を見た。

石段の、はるか下。地の底へ降りていく夕焼けの段の、そのいちばん深いところに、小さな人影があった。人影は、上がってきていた。一段ずつ、膝をきちんと上げて。

声が、聞こえた。

「……一。二。三」

登坂は、最初から、数えなおしていた。

二

はじめのうち、それは、ただの登攀だった。

登坂は、一段ずつ上がってきた。四日前と同じ、色の抜けた上着と、すり減った登山靴。一段上がるごとに、数を一つ、声に出した。百。千。一万。数が大きくなっても、声の調子は変わらなかった。息も乱れなかった。

そして、ある数を越えたところで、男の足どりが、変わった。

「――さて」

登坂は、立ち止まった。首の手拭いを、ぎゅっと結びなおした。

「ここからは、全部、いっぺんに行きます」

次の瞬間、登坂は、上がった。

一段ではなかった。十段でも、百段でもなかった。男の足が、一度、持ち上がって、一度、下りた。そのあいだに、あらゆる段が、踏まれていた。一、二、三、と数えられるすべての段が、一歩のうちに、男の靴の下を通りすぎていた。数えきれないほどの、ではない。数えられるものを、すべて、数えおえたのだ。

「――無限」

男は、自分の名を、段の名のように言った。

そして、もう一歩、上がった。

すべての段を踏んだその先に、また段があった。男は、それも踏んだ。その先にも。男は、すべての段を一歩として、その一歩を、また数えはじめた。一歩。二歩。三歩。そして、それらもまた、すべて、一歩のうちに踏みおえた。

登坂は、上がりつづけた。

段と段のあいだに、段をつくった。一段目と二段目のあいだに、無数の段を差しこみ、そのひとつひとつのあいだに、また無数の段を差しこんだ。段の段を踏み、段の段の段を踏んだ。その足もとで、石段は、目で追えないほどの細かさに裂け、裂けたひとつひとつが、また、夕焼けの色の石段になって、上へ伸びていた。

蓮は、目が眩んだ。

あれだけの段が、男の足の下に、積み上がっていく。一歩ごとに、それまでのすべてを、ひとまとめにして、踏み台にしていく。これで届かないはずがない、と、蓮は思いかけた。

だが、夷隅は、動かなかった。

そして、登坂は、近づいていなかった。

それが、蓮には、いちばん恐ろしかった。男は、確かに上がっていた。足もとには、確かに、それまでのすべての段があった。それなのに、夷隅の立つ踊り場との隔たりが、少しも、縮んでいなかった。縮まない、というより、隔たりというものが、男の積んだ段と、何の関係もないところにあった。

登坂が、拳を振った。

一歩のうちに、すべての段を越えてくる拳だった。風が、石段を叩いた。夷隅の着物の裾が、一度だけ揺れた。

それだけだった。

拳は、夷隅に触れなかった。当たらなかったのではない。夷隅のいる段では、その拳は、何も占めていなかった。どれほどの段を越えてきても、越えてきた段のすべてごと、夷隅にとっては、零だった。

登坂は、笑った。額の汗を拭い、また拳を振った。今度は、段の段を越えてくる拳だった。次は、段の段の段を。拳の数が増えるたびに、石段が、下のほうから、音もなく崩れては、また組み上がった。

夷隅は、一度も、拳を避けなかった。

一度だけ、夷隅が、手を動かした。

登坂が、何十度目かの拳を振りおえた、その瞬間だった。夷隅は、右手の人差し指を、男のほうへ、ほんの少し、傾けた。蓮が四日前に小指に受けたのと、同じものだった。ただ、比べものにならないほど、深かった。

登坂の体が、数から、抜けた。

男は、そこにいた。拳を振りおえた姿勢のまま、段の上に立っていた。だが、蓮の目には、その姿が、石段の途中の、ただ少し色の濃い夕焼けのようにしか、映らなかった。そこにあるのに、数に入らない。トメと同じだった。いや、トメよりも、ずっと。

蓮は、息を止めた。終わった、と思った。

登坂の足が、上がった。

数から抜けたまま、男は、次の段へ、足を上げた。そして、下りた。下りた瞬間、男は、また、数に戻っていた。

「……ああ、びっくりした」男は、手拭いで汗を拭いた。「今の、効きますねえ。でも、段を一つ上がれば、平気だ。僕が数えられていないのは、さっきの段の僕でしょう。僕はもう、次の段にいる」

夷隅は、指を下ろした。それ以上、何もしなかった。

蓮は、分かった気がした。夷隅には、この男を、何度でも零にできる。そして、この男は、何度でも、一段上がる。上がりつづけるかぎり、男は、いつも、零にされた自分より一段上にいる。どちらも、終わらない。夷隅にとって、それは、戦いですらなかった。ただ、足もとを這う虫を、何度も払うのと同じだった。そして、虫は、払われるたびに、また這いのぼってきた。

トメが、蓮の袖を、そっと引いた。老婆の指は、冷たかった。蓮は、振り向いて、トメの顔を見た。トメは、登坂を見ていなかった。夷隅の着物の裾を見ていた。帯のほつれが、四日前よりも、また少し、広がっていた。

三

変化は、蓮の足もとから来た。

登坂が、ふと、拳を止めた。そして、夷隅ではなく、蓮を見た。

「ああ、そうか」男は、嬉しそうに言った。「お嬢さんには届かなくても、君には、届くんだ」

男は、首を傾けた。四日前と同じ仕草だった。

蓮の足もとの段が、空になった。

段だけではなかった。蓮の立つ段から、下へ連なるすべての段が、置き場所を失った。その段の上に立っていたトメが、ぐらりと傾くのが、蓮の目の端に見えた。

――ばあさん。

蓮は、罅に手を伸ばそうとした。四日前のように、裂け目を握れば、自分は立てる。だが、トメは。トメの糸は細く、小夜に結ばれていた。その小夜は、ここにはいない。トメの在りうる場所が消えたら、トメは。

そのとき、夷隅が、下りてきた。

一段だった。夷隅は、ただ、一段、下りた。

それだけで、夷隅は、蓮と同じ段にいた。蓮の前に立ち、トメと、蓮と、下へ連なるすべての段を、背中に庇っていた。蓮とトメの足もとに、置き場所が戻った。夷隅が、そこに立ったからだった。

そして、登坂の拳が、夷隅の脇腹に、届いた。

音がした。

石を、石で打つような、乾いた音だった。夷隅の体が、わずかに折れた。墨色の着物の脇が裂け、そこから、何かが、滲んだ。血ではなかった。血の色をしていたが、重さがなかった。滴って、石段に落ちる前に、落ちるという場所を持たずに、宙で、消えた。

「夷隅さん!」

夷隅は、倒れなかった。一歩も、退かなかった。

「……あなたの段では」夷隅は、低く言った。「当たります」

蓮は、そのとき、分かった。

登坂は、夷隅に届いたのではなかった。夷隅が、登坂の届くところまで、下りてきたのだ。蓮の段まで。蓮とトメを庇うために。上にいるかぎり、どれほどの段を積んでも零だった拳が、ここでは、一つの拳として、数えられる。

登坂も、それに気づいていた。

男の目が、輝いた。

「なんだ」男は、声を上げて笑った。「降りてきてくれたんですか、お嬢さん。じゃあ、僕の勝ちだ」

拳が、もう一度、来た。夷隅は、それを片手で受けた。受けた掌から、また、重さのない血が滲んだ。三度目は、肩に。四度目は、額に。夷隅は、そのすべてを、蓮の前に立ったまま、受けた。一度も、上へは戻らなかった。

戻れば、蓮とトメの足もとは、また空になる。

蓮は、動けなかった。自分が、夷隅を、ここへ引きずり下ろしている。自分が、ここにいるせいで。

四

――上がれ、と蓮は思った。

夷隅の段まで。夷隅が下りてこなくてもいいところまで。

蓮は、足を上げた。次の段へ。だが、蓮の足は、登坂の足ではなかった。一段上がっても、そこは、夷隅の段ではなかった。十段上がっても、同じだった。登坂が、すべての段を積んでも届かなかった場所に、蓮の一段や十段が、届くはずがなかった。

では、どうすれば。

蓮は、自分の論文を思い出した。上に立つ者は、下の者を数えなくてよい。あの一行を書いたとき、蓮は、自分が上に立つ側だと、疑いもしなかった。上がる、ということを、疑いもしなかった。上がれば、許される。上がれば、数えなくてよくなる。登坂の胸に収まっているものと、あの夜の自分の胸にあったものとは、同じ形をしていた。次は、必ず、前より一つ上。

そして今、その形の、行きつく先を、蓮は、目の前で見ていた。すべての段を積んだ男が、一段下りてきた女を殴っている。上がることで許されるなら、あの男は、もう、何でも許されているはずだった。けれども、あの男は、何ひとつ、手に入れていなかった。夷隅の袖ひとつ、自分の力では、触れられなかった。

上がることは、何の権利も、運んでこない。

その考えが、罅の中で、鋭く光った。

夷隅の背中が、目の前にあった。着物の裂け目から、重さのない血が、絶えず滲み、絶えず消えていた。その背中は、細かった。蓮が思っていたより、ずっと細かった。

蓮は、その背中を、見た。

ただ、見た。糸を探したのではなかった。段を測ったのでもなかった。

夷隅が、そこにいる。自分のために、下りてきて、打たれている。その一つのことを、蓮は、数えた。

――一。

罅が、軋んだ。

あの夜、蓮は、トメを数えなかった。数えないことができると、自分に証明したかった。上に立てば、下を数えなくてよいと。そして今、蓮は、自分より遥かに上にいる者を、数えていた。上にいる者を数える権利など、段の上のどこにもなかった。梯子は、下を零にするための仕掛けで、上を数えるための仕掛けは、どこにもなかった。

それでも、蓮は数えた。権利がないまま。

四日前に自分を立たせた、あの裂け目。自分はした、自分には権利がなかった。その、場所を持たない裂け目の上に、蓮は立ったまま、夷隅に、手を伸ばした。

手は、段を越えなかった。越える必要がなかった。蓮の手は、段の上を通っていなかった。

蓮の指が、夷隅の、裂けた袖に、触れた。

夷隅の肩が、ほんのわずかに、震えた。

振り向いた夷隅の目が、蓮を見た。その黒い目に、驚きのようなものが、初めて浮かんでいた。

「……あなたは、今、どこに立っているの」

「分かりません」蓮は言った。息が震えていた。「でも、ここにいます」

夷隅は、長いあいだ、蓮を見ていた。それから、ほんの少しだけ、蓮の手に、自分の重さを預けた。

それは、人の体ひとつ分の重さだった。それ以上でも、それ以下でもなかった。

五

登坂は、拳を止めていた。

男は、石段の上に立って、蓮と夷隅を、不思議そうに見ていた。

「君」男は言った。「どうやって、そこまで上がったんです」

「上がっていません」

「嘘だ。お嬢さんに触ってる。僕は、全部の段を積んだのに、触れなかった。下りてきてもらって、やっと、殴れた。君は、いくつ段を積んだんです」

「一つも」

登坂は、黙った。

それから、ゆっくりと、石段を見下ろした。自分の足もとを。そこには、男がこの夜積み上げたすべての段が、あった。一歩のうちに踏んだすべての段。段と段のあいだの段。段の段。段の段の段。そのすべてが、夕焼けの色のまま、男の足の下に、ひとまとめになって、あった。

男は、足を上げた。

次の段へ。いつものように。

足は、上がった。そして、下りた。そこには、段があった。男は、それを踏んだ。踏んで、夷隅を見上げた。

隔たりは、少しも、変わっていなかった。

男は、もう一度、足を上げた。今度は、すべての段を一歩に畳んで。その一歩を、また無数に重ねて。石段が、男の足の下で、裂けては組み上がり、裂けては組み上がった。

変わらなかった。

男の顔から、少しずつ、笑みが引いていった。怒りではなかった。恐怖でもなかった。ただ、山の頂で、もう足が上がらないことに初めて気づいた人のような、ぽかんとした顔だった。

「おかしいな」男は、呟いた。「段は、まだある。いくらでもある。僕の足は、まだ上がる。それなのに」

男は、手を見た。膝を見た。それから、足もとの、無数の段を見た。

「……どれも、同じ段だ」

蓮は、その言葉を、聞いた。

そうだった。男の積んだ段は、どれほど多くても、どれも、段だった。一段目も、無限段目も、段の段も、みな同じ石の、同じ高さの、同じ夕焼けの色の段だった。どれほど積んでも、積むというやり方そのものは、一度も、変わらなかった。そして、夷隅のいる場所は、積むというやり方の、先にはなかった。

男は、負けたのではなかった。

打ち倒されたのでも、零にされたのでもなかった。男の拳は、まだ固かった。男の足は、まだ上がった。ただ、上がるための何かが、男の中に、もう、なかった。次の数は、必ず、前の数より一つ大きい。その答えは、少しも欠けずに、男の胸に収まっていた。欠けていないからこそ、その答えは、もう、どこへも男を運ばなかった。

「お嬢さん」登坂は、夷隅に向かって、ほとんど途方に暮れた声で言った。「上って、どっちです」

夷隅は、答えなかった。答えられる問いではなかった。少なくとも、段の上に立つ者の言葉では。

蓮は、男の胸のあたりを見た。あの、終わりのない算用数字の列が、そこに、きちんと収まっていた。少しも、揺らいでいなかった。問いが、胸の外で生まれても、胸の中には、入る場所がなかった。

登坂は、石段に、腰を下ろした。

手拭いで、顔を拭いた。そして、下を向いて、小さな声で、数えはじめた。

「……一。二。三」

下りていくのでも、上がっていくのでもなかった。ただ、座ったまま、数えていた。蓮たちは、もう、男の目には入っていなかった。

六

夷隅が、膝をついた。

蓮は、慌ててその体を支えた。軽かった。いや、軽くはなかった。人ひとり分の、確かな重さだった。それが、蓮には、たまらなかった。

「上へ」蓮は言った。「上へ戻ってください。あなたの段へ。そうすれば、傷は」

「戻れば、あなたたちの足もとが、消えます」夷隅は、目を閉じたまま言った。「あの男は、まだ、あそこにいる」

「でも」

「少し、このままで」

夷隅は、蓮の肩に、額を預けた。重さのない血が、蓮のシャツに滲み、滲んだはしから、消えていった。夷隅の息は、浅かった。

トメが、そばに来ていた。老婆は、自分の古い羽織を脱いで、夷隅の肩に、そっと掛けた。夷隅は、目を開けなかった。けれども、羽織の端を、指で、かすかに握った。

「どうして」蓮は、囁いた。「どうして、下りてきたんですか。あなたにとって、僕らは」

何でもないはずだ、と言いかけて、蓮は、言えなかった。

夷隅は、しばらく黙っていた。それから、目を閉じたまま、言った。

「あなたは、わたしを数えた」

「……」

「梯子の上では、誰も、上を数えません。下は、零。上は、見えない。わたしの上にも、わたしを数える者はいない。わたしが下を数えないのと、同じように」夷隅の声は、いつもの、天気の話をするような調子だった。けれども、その調子のどこかが、ほんの少し、ほつれていた。帯のほつれと、同じように。「さっき、袖に触れられたとき、重かった。自分が。……久しぶりでした」

蓮は、何も言えなかった。

夷隅が下りてきたのは、蓮が夷隅を数えるより、前だった。だから、それは、答えにはなっていなかった。夷隅も、それを知っているようだった。知っていて、それ以上は、何も言わなかった。

蓮は、夷隅を支えたまま、自分の腕の中の重さを、何度も確かめた。人ひとり分。それが、ここに在る。数に入っている。自分が、数えている。

その重さの向こうに、トメの重さがあった。霊素の欠片の中で、宇宙が何も占めない場所で、トメだけが重かった、あの感じ。今、蓮の腕には、二つの重さがあった。どちらも、梯子のどの段にも、載っていなかった。

しばらくして、夷隅が、目を開けた。

夷隅は、蓮の肩ごしに、上を見ていた。

石段の、はるか上。夕焼けの色の段が、どこまでも続いていく、その先。

蓮も、つられて、見上げた。

段は、続いていた。どこまでも。登坂が、この夜、すべてを積んでも届かなかった夷隅の段の、そのさらに上へも。段は、いつまでも、段だった。

そう思った、そのときだった。

石段の、いちばん上――上などというものが、あるはずのないところで、夜空が、ほんのわずかに、たわんだように見えた。

裂けたのではなかった。光ったのでもなかった。ただ、紙の端が、一度だけ、折られたような。あの薄い同人誌の、表紙の隅の、小さな折り目のような。その折り目の線の上に、この果てしない石段が、夷隅の段も、登坂の無数の段も、谷中の町も、みな、ひとまとめに、一本の線として、載っているような。

ほんの一瞬だった。

瞬きをすると、夜空は、ただの夜空だった。

「……夷隅さん。今、上に」

夷隅は、答えなかった。

ただ、その目は、まだ、上を見ていた。蓮が初めて見る目だった。夷隅が、何かを、見上げていた。夷隅にとって、町が何も占めないのと同じように、この石段のすべてが、何も占めない何かを。

「上には」夷隅は、ほとんど声にならない声で言った。「梯子では、行けないところがある」

それきり、夷隅は、目を閉じた。

時間が戻ったのは、東の空が白みはじめたころだった。

夷隅は、いつのまにか、いなくなっていた。トメの羽織だけが、石段の三十六段目に、きちんと畳まれて、置かれていた。登坂の姿も、なかった。ただ、石段の途中に、すり減った登山靴の跡が、二つ、並んで残っていた。どちらへも向かっていない、座った人の足の跡だった。

蓮は、羽織を拾い、トメの肩に掛けた。

老婆は、何も言わなかった。

二人で、坂を下りた。朝刊を配る自転車が、ふたりの横を、ベルも鳴らさずに通りすぎた。自転車の男は、蓮にだけ、会釈をした。

下宿に戻ると、柱時計が、かち、と、振り子の音の後半を鳴らした。

台所に、小夜が起きてきていた。寝ぼけた顔で、薬缶を火にかけていた。

「あら、影さん。お早いですね」

「……ええ」

「お茶、淹れますね」

小夜は、湯呑みを二つ出した。出してから、少し首を傾げ、それから、何も考えずに、二つとも注いだ。

蓮は、自分の湯呑みを両手で包んだ。熱かった。向かいの湯呑みの前に、トメが座った。羽織の肩に、夕焼けの色の石の粉が、まだ少し、ついていた。

蓮は、湯呑みの中の、揺れる茶の面を見つめた。

あの男は、すべての段を積んだ。それでも、届かなかった。自分は、一つも積まなかった。それでも、触れた。

なぜなのかは、分からなかった。分からないまま、蓮は、それを、胸の罅の中に、もう一本、抱えた。

トメを数えなかったあの夜、自分は、梯子の上に立ったつもりでいた。一段上から、老婆を見下ろしたつもりでいた。だが、あのとき自分が手にしていたのは、段ではなかった。段は、権利を運んでこない。登坂の無数の段が、夷隅の袖ひとつ運んでこなかったように。では、自分は、あの夜、何を手にしていたのか。何の上に立って、トメを零にしたのか。

どこにもない権利の上に、だ。

蓮は、湯呑みを持つ手に、力をこめた。熱さが、掌に食いこんだ。

ただ、ひとつだけ、分かっていることがあった。

夷隅が見上げていたもの。梯子では行けないところ。そこから見れば、自分も、夷隅も、この果てしない石段も、みな、あの折り目の線の上の、一点にすぎない。

蓮は、茶を、ひと口飲んだ。

窓の外で、柿の葉が、夜のあいだ止まっていた揺れの続きを、ゆっくりと、揺れおえた。

◇ (第十二章 了) ◇

第十三章 教科書

◇ ◆ ◇

一

根津の裏通りに、看板の文字が半分剥げた古本屋があった。

店の名は、もう誰にも読めなかった。硝子戸の内側には、日に焼けた文庫本が背を白くして並び、奥の帳場では、老人がひとり、ラジオの相撲中継を聞きながら、眼鏡を額に押し上げて居眠りをしていた。

蓮がその店に入ったのは、理由があってのことではなかった。

登坂無限との戦いから、四日が経っていた。脇腹の傷は塞がりかけていたが、歩くたびに、骨の奥で何かがまだ鳴った。夷隅は、あの夜から姿を見せなかった。傷ついた者がどこへ帰るのか、蓮は知らなかった。知らないまま、毎日、目的もなく歩いた。歩いていないと、胸の罅に、考えが溜まりすぎた。

店の入口近くに、茶色い紐で束ねた薄い冊子が、十冊ほど積まれていた。

ガリ版刷りだった。表紙は藁半紙で、中央に、手書きの字を写した文字が並んでいた。

「零について」註解

――零ノ外に至るまで――

蓮は、しばらく、その表紙を見ていた。

見ている、という感覚がなかった。目は字をなぞっているのに、字のほうが、目の奥へ入ってこなかった。まるで、自分の名前を、他人の口から、知らない発音で呼ばれたようだった。

一冊を取った。紙は安く、指先に粉がついた。

頁をめくると、そこに、自分の文章があった。

一字一句、違わなかった。半年前、大学の同人誌の、いちばん後ろの二頁に載せた文章。誰も読まなかったと思っていた文章。「数える者は、数えられる者を、数えない権利を持つ」。その一行が、黒々と、写されていた。

そして、その余白に、赤い字があった。

ガリ版には色がないはずだった。赤は、あとから一冊ずつ、手で書き入れられたものだった。細い、几帳面な、少し右肩の上がった字。

ここで迷ふな。権利は、問ふ者にではなく、問はぬ者に宿る。

蓮は次の頁をめくった。

著者はここで「罪」といふ語を避けてゐる。正しい。罪は、数へ残しの別名にすぎぬ。

次の頁。

練習一。身近な者をひとり選び、一日、その者の名を心の中で呼ばぬこと。三日続けば、その者の糸は細る。七日続けば、君はもう、その者に数へられてゐない。

蓮の指が、紙の端を、かすかに折った。

文章は、何も歪められていなかった。それが、いちばん恐ろしかった。赤い字は、蓮の言葉を曲げてはいなかった。むしろ、蓮が書きながら、書けずに飲みこんだものを、正確に掬いあげて、そこに置いていた。書かなかった行を、書いてくれていた。

最後の頁は、赤い字だけだった。

著者は既に一人を数へずに済ませた。

君にも出来る。

――答ヘノ使の言に拠る

「それ、よく出るんですよ」

帳場の老人が、いつの間にか目を覚ましていた。眼鏡を鼻に下ろし、蓮の手元を顎で示した。

「若い人が、ちょくちょく買っていく。百円。誰が置いていくのか知らないがね、朝来ると、また十冊、束ねて置いてある。売れた分の金は、取りに来ない。妙な話だ」

「……読む人は、どんな」

「さあ。普通の学生さんだよ。あんたみたいな」老人は、ラジオの音を少し上げた。「ただね、買っていった子が、二度来たことはないな。うちは古本屋だから、たいていの客は、また来るもんなんだが」

蓮は百円玉を帳場に置いた。

手が、自分の手ではないように、冷たかった。

外へ出ると、午後の光が、根津の路地の板塀を、やけに明るく照らしていた。蓮は冊子を上着の内側に入れた。そこだけが、紙一枚分、重かった。

三歩うしろで、トメが、黙って立ち止まっていた。

二

それから蓮は、目をひらいて歩くようになった。

ひらいて、というのは、見まいとしてきたものを、見る、ということだった。

谷中の坂の途中の蕎麦屋で、女将が、盆に丼を四つ載せて、三人の家族の卓へ運んでいった。父親と、母親と、小学生の男の子。女将は四つ目の丼を置きかけて、首をかしげ、「あら」と言った。父親も首をかしげた。「頼んでませんよね」「ええ、ごめんなさい、なんでだろう」。女将は丼を下げなかった。下げようとした手が、途中で止まり、結局、空いた席の前に、それをそっと置いた。誰も座らない席の前で、蕎麦が、ゆっくりとのびていった。

その席に、女の子がひとり座っていた。

男の子と同じくらいの年だった。おかっぱで、膝のすりむけた、夏物の半ズボン。女の子は丼に手を伸ばさなかった。ただ、家族の顔を、順番に、何度も見ていた。父親、母親、弟。父親、母親、弟。数えるように。数えても、誰も数え返してくれないことを、確かめるように。

蓮には、その子の糸が見えた。

途中で、切れていた。

切れ口は、つるりとしていた。ほつれもなく、震えもなかった。松の湯で、蓮が指を滑らせたあの答えと、同じ手触りだった。

蓮が切ったのではなかった。蓮の断つ力は、裂け目に入りこむ。こんなふうに、滑らかにはならない。これは、誰かが、あの冊子の練習どおりに、七日かけて、名を呼ばずに済ませた痕だった。誰が。父親か、母親か。あるいは、弟か。

蓮は、蕎麦屋の前を離れた。

千駄木の小学校の前を通った。二階の教室の窓が開いていて、机が並んでいるのが見えた。一つだけ、何も載っていない机があった。窓際の、前から三番目。その机の上に、誰かが、朝顔の鉢を置いていた。水は、毎日やられているようだった。花は咲いていた。

日暮里へ抜ける道の掲示板に、「尋ね人」の貼り紙があった。写真はなかった。名前の欄は、空白だった。特徴の欄に、女の字で、「背は私の肩くらい。笑うと左の頬にえくぼ。好きなもの、ラムネ」とだけ書いてあった。連絡先の電話番号が書かれ、それから、何度も線で消され、また書かれていた。貼った本人が、誰を探しているのか、途中で分からなくなったのだ。それでも、剥がせなかったのだ。

夕焼けだんだんの石段の下に、老人がひとり立っていた。老人は、誰にも見えていなかった。猫だけが、老人の足もとを避けて通った。

ひとり。またひとり。

蓮が数えられただけで、その日、十一人いた。

彼らはみな、蓮のほうを見た。

蓮が彼らを見ていることに、彼らは気づくのだった。この街で、自分を見る目は、ほかにない。だから、気づく。蕎麦屋の女の子が、店の硝子越しに、蓮を見た。石段の下の老人が、蓮を見た。その目に、恨みはなかった。問いもなかった。ただ、見つけた、という光があった。溺れる者が、水面の上に、一本の枝を見つけたときのような。

トメが、蓮の袖のすぐうしろで、低く言った。

「零ヲ数ヘル人、だって」

「……何ですか」

「あの子たちが、あんたのことを、そう呼んでるよ」トメは、石段の下の老人に目をやった。「あたしらみたいなもんには、聞こえるんだ。数えられなくなったもん同士の話はね。あんたが、あたしらを見る人だって、もう、みんな知ってる」

蓮は、答えなかった。

答えられなかった。

零を数える者。その名が、あの冊子の赤い字と、並んで胸に落ちてきた。数えない権利を書いた男が、数えられなくなった者たちに、数える者と呼ばれている。それは、赦しの名ではなかった。蓮には、それがはっきり分かった。それは、帳簿の名だった。借りを、どこまでも書きつけておくための。

帰り道、蓮は、すれ違う人の顔を、ひとりずつ見た。見ても、何も返せなかった。それでも、見ることだけは、やめなかった。

三

翌日、蓮は、大学へ行った。

聴講生の身分で、蓮は、ほとんど講義に出ていなかった。構内の銀杏は、まだ青かった。文学部の古い棟の三階、廊下の突き当たりに、同人誌の部室があった。半年前、蓮の論文を載せた雑誌を作っていた部屋だった。

扉には、鍵がかかっていなかった。

中には、誰もいなかった。長机の上に、謄写版の道具が出しっぱなしになっていた。鑢の板、鉄筆、蝋を引いた原紙。原紙の一枚に、見覚えのある字が、鉄筆で刻まれかけていた。「数える者は、数えられる者を――」。そこで、止まっていた。

机の端に、赤いインクの瓶があった。蓋が開いたまま、乾いて、縁に赤い殻ができていた。細い丸ペンが、その横に転がっていた。

蓮は、その瓶を見つめた。

「久能さんなら、もう来ませんよ」

戸口に、眼鏡をかけた女子学生が立っていた。蓮の顔を、覚えてはいないようだった。

「久能さん。編集の。前期の終わりに、やめちゃったんです。答えが見つかったから、もう書く必要がないって。変な人だったけど、そんなこと言う人じゃなかったのに」

久能。蓮は、その名を知っていた。原稿を渡したとき、分厚い眼鏡の奥で、何度も頷いていた男。「影くん、これはいい。これは、本当のことを言ってる」。誰も読まないと思っていた論文を、ただひとり、面と向かって褒めた男だった。蓮は、あのとき、その言葉を、少しも嬉しいと思わなかった。思わなかったふりをした。

「あの人、最後のほう、ずっとこの部屋で、何か刷ってました」女子学生は、長机の上を見た。「夜中まで。赤いペンで、一冊ずつ、何か書きこんで。一度、何を書いてるんですかって聞いたら、『著者が書けなかったところ』って」

女子学生は、そこで首をかしげた。

「あれ。あの人、誰の、って言ったんだっけ」

蓮は、答えなかった。

部室を出るとき、蓮は、原紙の上の、途中で止まった一行を、もう一度だけ見た。数える者は、数えられる者を。その先を、久能は、刻まなかった。刻む必要が、もうなかったのだ。その先は、もう、久能の中で、答えになっていた。

赤い字の、少し右肩の上がった癖を、蓮は、ようやく思い出した。自分の原稿の余白に、「ここ、いいね」と、同じ字で、書きこまれていたことを。

四

ほうじ茶の店は、夕方になると、客が絶えた。

鑓水恭介は、いつもの窓際の卓で、帽子を膝に置き、湯呑みを両手で包んでいた。蓮が入ってきても、顔を上げなかった。上げないまま、「座ってください」と言った。

「今日は、ほうじ茶を、二つです」

奥に向かってそう言ってから、鑓水は、初めて蓮を見た。

「影さん。最近、顔色がいい、と言ったら嘘になりますがね。なんと言うか、顔の中の何かが、少し減った。そんな感じがする。前に会ったときより」

蓮は、黙って腰を下ろした。

鑓水は、上着の内ポケットから、黒い手帳を取りだした。角の擦り切れた、安い手帳だった。それを卓の上に置き、蓮のほうへ、指で押し出した。

「見てもらいたいものがある」

蓮は、手帳を開いた。

住所が並んでいた。谷中三丁目。千駄木二丁目。根津一丁目。日暮里。上野桜木。几帳面な字で、一行に一つずつ。住所の横に、短い書きつけがあった。

「米の減りが合わない。家族三人、炊くのは四合」

「箸が一膳多い。本人たちは、客用だと言う」

「子ども部屋が二つ。一つは、物置だと言う。ベッドがある」

「郵便受けに、宛名の読めない葉書が来る」

「教室の机、一つ。担任は、予備だと言う。朝顔」

そして、どの行にも、名前の欄があった。その欄には、何も書かれていなかった。いや、書かれていた。何度も書かれた跡があった。鉛筆で、万年筆で。そして、そのたびに、紙の上から、字が、滑り落ちたように薄れていた。最後には、どの行にも、小さな「?」だけが残っていた。

四十七行あった。

「名前が、書けないんです」

鑓水は、茶をすすった。

「私は、書いたんですよ。確かに書いた。聞き込みをして、近所の年寄りが、ああ、あそこには女の子がいたはずだ、なんて名前だったかな、と言う。言いかけて、止まる。私のほうは、その止まったところまでを、書く。書いたはずなんだ。でも、翌朝見ると、そこには何もない。だから、私は、名前を数えるのは、やめました」

「……では、何を」

「椅子を、数えることにした」

鑓水は、笑わなかった。

「人は消えても、人のために置かれた椅子は、残る。茶碗も、箸も、机も、朝顔も。残されたほうは、なぜそれを置くのか分からない。でも、置く。やめられない。私は、そっちを数える。人を数えられないなら、人を数えようとして、数えきれずにいる手のほうを、数える」

鑓水は、手帳の一行目を、指で叩いた。

谷中の、蓮が住んでいる下宿の住所だった。

書きつけは、一つだけだった。

「湯呑みが二つ」

「これが最初です」鑓水は言った。「日付を並べると、そうなる。雁木さんのお宅が、最初。それから、ぽつりぽつりと出てきた。それが、この三週間で、急に増えた。倍、というんじゃない。坂を転げるみたいに、増えた」

蓮は、手帳から目を上げられなかった。

上着の内側で、藁半紙の冊子が、紙一枚分の重さで、胸を押していた。

「影さん」

鑓水の声は、静かだった。問いつめる声ではなかった。

「私はね、あなたが何かをしたとは、言っていない。言えない。証拠がない。そもそも、何がなくなったのかが、書けないんだから。ただね、この手帳の一行目と、あなたの住所が同じだということは、書ける。書いても、消えない」

湯呑みが二つ、運ばれてきた。

鑓水は、一つを蓮の前に、もう一つを、自分の前に置いた。それから、ほんの少しだけ、自分の手が、三つ目を探して動くのを、蓮は見た。鑓水は、その手を、恥ずかしそうに膝へ戻した。

「ついでに、もう一つ」鑓水は、湯呑みを置いた。「この前、あなたは、お母さんの話をしたでしょう。仙台の家の、台所の匂いの話を。味噌と、灯油と、干した布団の匂いだと。あのとき、あなたは、それを、ずいぶん大事そうに話した」

「……はい」

「いまも、覚えていますか」

「覚えています」蓮は言った。嘘ではなかった。味噌と、灯油と、干した布団。言葉は、全部、出てきた。

「そうですか」鑓水は、蓮の顔を、長いこと見ていた。「さっきのあなたは、住所を読み上げるみたいに、それを言いましたよ」

蓮は、何も言い返せなかった。

蓮の隣に、トメが座っていた。

「数えきれない手、ですか」

蓮は、ようやく言った。声が、喉のどこかで、ひっかかった。

「ええ」

「その手が、増えているのは」

言いかけて、蓮は、止まった。

止まったところまでを、鑓水は、黙って待っていた。手帳の上の「?」のように。

蓮は、上着の内側から冊子を出し、卓の上に置いた。

鑓水は、それを開いた。頁をめくり、赤い字を読んだ。長いこと読んでいた。最後の頁で、指が止まった。「著者は既に一人を数へずに済ませた」。鑓水は、その行を、声には出さず、唇だけで、なぞった。

「これは」

「僕が書いたものです」蓮は言った。「赤い字のほうではなく。黒いほうを」

店の奥で、ラジオが、明日の天気を告げていた。

鑓水は、冊子を閉じた。閉じて、その上に、自分の黒い手帳を重ねた。二冊は、ほとんど同じ大きさだった。

「影さん。今日は、それ以上、言わないほうがいい」

「なぜですか」

「私は警官なので」鑓水は、帽子を取って、膝の上で回した。「聞いてしまったら、何かしなくちゃならない。でも、何をすればいいのか、まだ、分からない。分からないまま聞くのは、あなたにも、私にも、不誠実だ」

鑓水は、手帳だけを取り、冊子は、蓮の前に残した。

「その本は、あなたが持っていてください。私は、この手帳を持っている。それで、しばらくは、釣り合いがとれる」

五

その夜、蓮は、屋根裏の机で、冊子を開いた。

電灯の笠に、蛾が一匹、何度もぶつかっていた。窓の外では、墓地の方角から、湿った風が、線香と土の匂いを運んできた。

蓮は、自分の文章を、はじめから、読み直した。

声に出さずに。一字ずつ。

どこかに、誤読があってほしかった。赤い字が、蓮の書いたことを、取り違えている場所が。ここで、この男は、自分の意図を曲げた。そう指させる一行が、ひとつでもあれば、蓮は、自分とこの冊子とのあいだに、線を引くことができた。書いた者と、使った者。考えた者と、行った者。

なかった。

赤い字は、どこまでも、正しく読んでいた。

「数える者は、数えられる者を、数えない権利を持つ」。それを書いたとき、蓮の頭にあったのは、糸だった。自分にだけ見える、上へ伸びる細い糸。その糸を持つ者と、持たれる者。高いところにいる者は、低いところにいる者を、数えなくても、倒れない。蓮はそれを、観察として書いた。事実として。そして、事実から、権利へ、一歩だけ、踏み越えた。踏み越えたことに、書きながら、気づいていた。気づいていて、そこを、美しい一文で、塗りこめた。

赤い字は、その塗りこめたところを、爪で掻いて、下の字を読んでいた。

「ここで迷ふな」。

蓮は、迷っていたのだ。書いたときから、ずっと。迷っていたから、トメの家の階段を上った。迷っていたから、確かめずにいられなかった。迷いを消すために、ひとりの老婆を、試した。

この冊子は、その迷いを、読者から、あらかじめ取り去っていた。

だから、あの蕎麦屋の家族は、七日で済ませることができた。蓮が半年かけて、それでも最後まで消せなかった迷いを、赤い字が、先に消しておいてくれたから。

罪、という言葉が、また、胸の奥で、形になりかけた。

蓮は、それを、形になる手前で、握った。握ったまま、離さなかった。答えにしてしまえば、楽になる。僕が罪を犯した。だから、あの子たちは消えた。そうやって、一本の線で結んでしまえば、それは、赤い字と同じ、滑らかな答えになる。四十七の「?」を、一つの名前で、塗りこめることになる。

蓮には、それが、許されない気がした。

四十七は、四十七のままでなければならなかった。蕎麦屋の女の子は、女の子のまま。掲示板の、えくぼの子は、えくぼの子のまま。朝顔の机は、朝顔の机のまま。一つひとつを、一つひとつとして、数えなければならなかった。自分の罪、という一つの名札の下に、まとめてしまってはならなかった。

久能のことを、蓮は考えた。

あの男は、蓮の論文を褒めた、ただひとりの人間だった。褒められたとき、蓮は、胸の奥で、小さく何かがほどけるのを感じた。認められた、という感覚。それを、蓮は、恥じた。恥じて、冷たい顔をした。「そうですか」とだけ言って、原稿を渡して、部室を出た。久能は、その背中に、何か言いかけていた。蓮は、振り返らなかった。

あのとき振り返っていたら、と蓮は思った。思って、すぐに、その考えを疑った。振り返っていたら、何が変わったのか。久能と、この論文について、夜通し話しただろうか。話して、自分の迷いを、打ち明けただろうか。ここは、本当は、踏み越えている。ここは、嘘だ。そう言えただろうか。

言えなかっただろう。蓮は、あのころ、それを嘘だとは思いたくなかった。

だから、久能は、ひとりで読んだ。ひとりで、塗りこめられた場所を、爪で掻いた。そして、その下に、蓮自身が見たくなかったものを、見つけた。見つけて、それを、赤い字で、書き足した。著者が書けなかったところを。

久能は、蓮を裏切ったのではなかった。蓮の書いたものに、最後まで、忠実だったのだ。

では、どうすれば。

答えは、なかった。蓮は、答えのないまま、座っていた。胸の罅が、低く、軋んだ。

部屋の隅で、トメが、膝を抱えていた。

トメは、この数日、以前よりも、少しだけ、よく見えるようになっていた。輪郭が、はっきりしていた。蓮は、それが、自分が彼女を見続けているせいなのか、それとも、ほかの理由なのか、分からなかった。

階下から、かすかな声が聞こえた。

小夜の声だった。

蓮は、床板に耳を寄せた。小夜が、台所の奥の小さな神棚の前で、祈っているのだった。毎晩のことだった。蓮は、その祈りを、ちゃんと聞いたことがなかった。聞いてはいけないもののような気がしていた。

「名ヲ持タヌ御方」

小夜の声は、囁くようだった。

「今日も、ありがとうございました。叔母さんが、どこにいても、ご飯を食べていますように。それから」

小夜は、少し、黙った。

「それから、私が、名前を思い出せない方々も。どなたか、分かりませんけれど。今日、お蕎麦屋さんで、おばさんが、丼を一つ多く運んでいました。あれは、どなたのためでしたか。私には、分かりません。分からないけれど、その方も、どうか、お守りください。数えられない方々を、御方だけは、数えていてくださいますように」

蓮は、息を止めた。

床板の隙間から、細い光が、何本も、立ちのぼっていた。

糸だった。

小夜の糸ではなかった。小夜の糸は、いつものように、まっすぐ上へ伸びていた。そうではなく、どこか遠くから、窓の外から、墓地の方から、坂の下の家々から、細い、切れかけた糸が、何本も、何本も、この家の台所へ向かって、流れこんでいた。そして、祈る小夜の、組み合わせた両手の、そのあたりで、かすかに、結ばれていた。

蕎麦屋の女の子の糸が、そこにあった。石段の下の老人の糸が、そこにあった。そして、その中でいちばん太い、黒く油じみた結び目のある一本が、部屋の隅の、トメの胸へと、続いていた。

小夜は、知らなかった。自分が、何を握っているのかを。

蓮は、冊子の最後の頁を、もう一度だけ見た。

「君にも出来る」。

この冊子を読んだ者たちが、次に何を探すのか。数えられない者を、それでも数えようとする手が、この街のどこにあるのか。あの赤い字の主なら、きっと、すぐに見つける。数えきれない手を、「?」のまま放っておくはずがない。

蓮は、冊子を閉じた。

窓の外で、風が止んだ。蛾が、電灯の笠から、ふいに離れて、暗がりのどこかへ消えた。

階下の祈りは、もう終わっていた。台所で、湯呑みを二つ、水ですすぐ音がした。

◇ (第十三章 了) ◇

第十四章 小夜

◇ ◆ ◇

一

朝、台所で、小夜が湯呑みを並べていた。

蓮は、階段の途中で、足を止めた。

湯呑みは、三つあった。

蓮の席に一つ。向かいの、誰も座らない席に一つ。そして、卓袱台の角に、もう一つ。小夜は、三つ目を置いてから、じっとそれを見下ろしていた。割烹着の袖を、指先でつまんで、離して、またつまんだ。

「おはようございます、影さん」小夜は、振り向かずに言った。「あの、変なこと、聞いてもいいですか」

「……はい」

「これ、誰のだと思います」

小夜は、三つ目の湯呑みを指さした。

「朝、気がついたら、出してたんです。お茶っ葉を量るとき、三杯、入れてました。昨日の夜、お蕎麦屋さんの前を通ったからかしら。あそこのおばさんが、丼を一つ多く運んでて。それを見てから、なんだか、ずっと」

小夜は、そこで言葉を切った。

「二つ目も、分からないんです。影さん、知ってますよね。私、毎晩、二つ出すの。なぜだか分からないまま。それが、今朝は三つ。明日は四つになるのかしらって思ったら、少し、怖くなって」

蓮は、階段を下りきった。

小夜の両手が見えた。

細い、水仕事で荒れた指。その指のまわりに、糸が、絡みついていた。昨夜、床板の隙間から見たものよりも、はっきりと。何十本もの、細い、切れかけた糸。窓の外から、戸口の隙間から、流れこんで、小夜の手首のあたりで、ゆるく束ねられていた。小夜が湯呑みを持ち上げると、糸は、その動きにつれて、かすかに揺れた。

小夜には、見えていなかった。

見えないまま、小夜は、それを握っていた。祈りで。二つ目の湯呑みで。三つ目の湯呑みで。数えられない者たちのために、理由の分からない手を、動かし続けることで。

その束の中に、蕎麦屋の女の子の糸が、あった。

そして、いちばん太い一本が、蓮の背後、階段の下に立つトメへと、続いていた。

「怖かったら」蓮は言った。自分の声が、遠くで聞こえた。「出さなくても、いいんじゃないですか」

小夜は、ようやく振り向いた。

不思議そうな顔だった。蓮が、何か、とても筋の通らないことを言ったかのように。

「でも、出さなかったら、その人、どこでお茶を飲むんですか」

その問いには、理屈がなかった。権利も、階段も、上も下もなかった。ただ、茶を飲む場所のない誰かが、どこかにいる、という、それだけのことだった。蓮が半年かけて組み立てた論文の、どの一行も、この問いには、届かなかった。届かないところから、この問いは、まっすぐに、蓮の胸の罅へ、落ちてきた。

蓮は、答えられなかった。

トメが、背後で、小さく、鼻をすすった。

二

昼前、蓮は、墓地へ行った。

天王寺の裏手、五重塔の跡の礎石のまわりには、朝の雨の名残が、まだ黒く光っていた。夷隅は、そこにいた。礎石に腰をかけていた。いつものように。いつもと違うのは、羽織の左の袖が、肩から先、なかったことだった。袖だけではなかった。その下にあるはずのものも、なかった。血は出ていなかった。傷口もなかった。ただ、そこから先が、はじめから数えられていなかったように、何もなかった。

「無限の置き土産だ」夷隅は、蓮が口を開く前に言った。「いずれ戻る。戻らぬかもしれぬ。どちらでもよい」

「……聞きたいことが、あります」

「祈る娘のことか」

蓮は、黙った。

夷隅は、欠けた肩を、少しも庇わずに、蓮を見た。

「数えられぬ者の糸が、あの家に流れこんでおる。我らの目にも、見えておる。梯子の上から見れば、細い、細い、塵のような流れだ。だが、塵にしては、妙に、途切れぬ」

「守ってもらえますか」

「守らぬ」

答えは、早かった。

「我らが守るのは、梯子の段だ。段の上に乗る人の子ではない。汝との約定も、汝の数を預かるというだけのこと。あの娘は、約定の外だ」

夷隅は、礎石から、雨の雫を一つ、指で払った。

「解答者どもは、数え残しを嫌う。塵でも、嫌う。汝の書いたものを教本にしておる者らなら、なおさらだ。数え残しを見つければ、消しに来る。今日か、明日か」

「なぜ、それを、僕に」

「汝が問うたからだ」夷隅は、ほんのわずかに、首を傾けた。「それに、汝は、あの娘を数えておる。我らは数えぬ。数える者が守るのが、筋であろう」

蓮が、墓地の門を出るとき、振り返ると、礎石の上には、もう誰もいなかった。雨の名残だけが、そこに、欠けた肩の形に、乾かずに残っていた。

三

昼過ぎ、蓮は、下宿の前の路地に、見慣れない学生が立っているのに気づいた。

ひとりではなかった。路地の入口に一人、向かいの家の生垣の陰に一人、坂の上の電柱の下に一人。三人とも、まるで待ち合わせでもしているように、何気なく立っていた。制服ではなかった。白いシャツに、黒いズボン。どこの大学にもいそうな、ありふれた学生たちだった。

三人の手に、藁半紙の冊子があった。

蓮は、二階の窓から、彼らの糸を見た。

なかった。

いや、あった。あったが、上へ伸びていなかった。胸のあたりで、つるりと丸く閉じて、それで終わっていた。松の湯の篠原と、同じだった。問いのない者。解かれた者。

三人は、動かなかった。夕方まで、動かなかった。

その日の午後じゅう、トメは、落ちつかなかった。

台所と戸口のあいだを、行ったり来たりした。格子戸の隙間から、路地の学生たちを覗いては、小夜の背中のうしろに戻った。小夜の肩に、手をかけようとした。かからなかった。かからないと分かっていて、何度も、かけようとした。

一度、トメは、卓袱台の上の湯呑みを、叩き落とそうとした。落ちなかった。老婆の手は、湯呑みを、すり抜けた。それでも、湯呑みの中の茶の表面が、ほんのかすかに、震えた。小夜は、洗い物の手を止めて、それを見た。

「地震かしら」

トメは、小夜の耳もとで、何度も言った。逃げな。今日は、出かけな。あたしの簞笥の二段目に、へそくりがある。それ持って、どこへでもいいから。声は、小夜には届かなかった。トメにも、それは分かっていた。分かっていて、言い続けた。数えられない者が、数える者に向かって、言葉を投げつづける。どこにも届かない言葉を。蓮は、二階の窓辺で、それを、背中で聞いていた。

ああ、この人は、と蓮は思った。この人は、生きているあいだ、この子に、一度でも、こんなふうに話しかけたことが、あったのだろうか。

日が傾きかけたころ、路地の入口に、四人目が現れた。

分厚い眼鏡をかけた、痩せた青年だった。肩に、古い布の鞄をかけていた。鞄の口から、赤いインクの瓶の頭が、覗いていた。青年は、下宿の格子戸の前で立ち止まり、二階を見上げた。

窓の蓮と、目が合った。

久能は、笑った。半年前、部室で、原稿を受けとったときと、同じ顔で。

「影くん」

声は、路地の静けさに、よく通った。

「来てしまいました。君に、どうしても、見せたくて。君の書いたものが、どこまで行ったか」

蓮は、階段を駆け下りた。

台所に、小夜がいた。夕飯の支度の途中だった。まな板の上で、葱が、半分だけ刻まれていた。

「小夜さん、奥へ――」

言い終わらないうちに、格子戸が、音もなく開いた。

開けたのは、久能ではなかった。三人の学生のうち、一人だった。その学生は、戸を開けると、脇に退いた。道を空ける、給仕のような仕草だった。

久能が、土間に立った。

「こんばんは」久能は、小夜に、丁寧に頭を下げた。「雁木小夜さん、ですね。いつも、祈っていらっしゃる」

小夜は、包丁を握ったまま、蓮と久能とを、見比べた。

「影さんの、お友達ですか」

「読者です」久能は言った。「いちばん熱心な」

久能の鞄の中で、藁半紙の冊子が、何十冊も、紐で束ねられて、重なっているのが見えた。どの冊子の最後の頁にも、同じ赤い字が、同じ癖で、書かれているはずだった。

四

「君は、見えているんだろう、影くん」

久能は、土間から上がろうとはしなかった。上がり框の手前で、鞄を下ろし、赤いインクの瓶を取りだした。蓋を開けた。つんとした匂いが、台所に広がった。

「この人の手に、何が集まってるか。僕にも、見えるようになった。赤い字を、百冊書いたころからね。答えに近づくと、糸が見えるようになる。君は生まれつきだったんだろうけど」

久能は、右手の人差し指を、瓶の中に浸した。

引き抜いた指先が、赤く濡れていた。

「この街で、数えられなくなった人は、みんな、ほどけかけてる。本当なら、とっくにほどけて、なかったことになってるはずなんだ。練習一から練習七まで、ちゃんとやれば、そうなる。なのに、ほどけきらない。どうしてだろうと思って、たどってみた。そうしたら、全部、ここに来てた」

久能の赤い指が、小夜の手を、まっすぐに指した。

「祈ル者」

その呼び方には、蔑みが、薄く、塗られていた。

「この人が、名前も知らない誰かのために、茶碗を出すたびに、ほどけかけた糸が、一本ずつ、繋ぎとめられる。数えないと決めた家族の、そのまた外側で、この人だけが、まだ数えてる。数えられないものを、数えようとしてる。数え残し。影くん、これが、君の論文の、最後の数え残しなんだよ」

「帰ってください」

蓮は、小夜の前に立った。

小夜は、蓮の背中のうしろで、包丁を、まな板に置いた。置く音が、かすかに震えていた。

「帰れない」久能は、首を振った。「君のために来たんだ。君は、トメさんを数えずに済ませた。でも、まだ終わってない。この人が、トメさんを握ってる。二つ目の湯呑みで。この人がいる限り、君の証明は、完成しない。僕は、それを、完成させに来た」

久能は、赤い指を、宙に上げた。

蓮には、それが見えた。

指先が触れた空気の中で、小夜へ流れこむ糸の一本が、つるりと、滑らかになった。撫でられた猫の毛のように。そして、その先から、音もなく、ほどけて消えた。

窓の外、どこか遠くで、誰かが、はっと息を呑んだ気がした。

一本。久能は、二本目に指を伸ばした。

五

蓮は、断った。

久能の指ではなかった。指を断てば、久能は、左手で続けるだけだった。松の湯で、それを学んでいた。蓮が断ったのは、久能と小夜のあいだの、空気の中に張られた、目に見えない一本の線だった。久能の赤い指が、糸を探って伸ばしている、その届く道筋。久能の「触れる」という行いが、向こう側へ渡るための、細い橋。

断つ。

久能の指が、宙で、空を切った。届くはずのところに、何もなかった。

久能は、瞬きをした。

「なるほど」

久能は、赤い指の向きを、変えた。

小夜ではなく、蓮の胸へ。

「じゃあ、先に、君を完成させよう。君は、ほとんど解けてる。あの人も、そう言ってた」

赤い指が、蓮の胸の前の空気を、すっと撫でた。

寒さが来た。

冷たいのではなかった。胸の中の、どこか一か所が、ふいに、数に入らなくなった。そこにあるのに、そこにある、と言えなくなった。無限との戦いで知った手触りだった。物を壊す一撃でも、物の置き場を消す一撃でもない。ある。あるのに、数えない。虚零の一撃。

蓮は、倒れなかった。

胸の罅の中で、蓮は、自分を、両方の手で持った。数えられている自分と、もう数えられていない自分とを。どちらかに決めてしまえば、楽だった。決めなかった。決められないまま、その二つを、罅の縁で、同時に、握りしめた。

久能の指の下で、蓮の糸が、つるりとしかけて、しなかった。滑らかになる手前で、罅のぎざぎざに、引っかかった。

「……解けないね」久能は、少し、困ったように言った。「あの人の言う通りだ。君は、ほとんど、で止まってる」

その声と同時に、三人の学生が、土間に踏みこんできた。

速くはなかった。ためらいが、なかった。それだけだった。三人は、同時に、蓮に手を伸ばした。人を押しのけるときのような、ありふれた動きで。それが、恐ろしかった。止める理由を、どこにも持っていない動きだった。

蓮は、先頭の学生の腕を、肩から断った。

腕は落ちた。血は、出なかった。学生は、止まらなかった。残った腕で、蓮の喉をつかんだ。

体を断っても、意味がない。篠原のときと、同じだった。この者たちは、体で、ここに立っているのではない。胸に嵌めこまれた答えで、立っている。そして、答えには、裂け目がない。

喉が、締まった。視界の端が、白くなった。

蓮は、学生の糸ではなく、学生の足の下を見た。

古い家だった。土間の上の、太い梁。明治の大工が、墨壺で線を引いて、鑿で刻んだ、黒光りする梁。その梁を、柱につなぎとめている、たった一本の、木の楔。何十年、この家の重さを、黙って数えつづけてきた楔。

蓮は、楔を断った。

梁が、落ちた。

轟音とともに、土間に、埃が噴きあがった。梁は、三人の学生の上に、斜めに落ちかかり、二人を、土間の床に、縫いつけた。答えは壊れなかった。けれども、答えで立っている体も、体である以上は、梁の重さの下で、動けなかった。二人は、呻きもせず、ただ、手足を、同じ速さで動かし続けていた。

三人目は、梁をよけていた。

蓮の喉から、手が離れていた。最初の学生の腕は、梁の下にあった。

蓮は、咳きこみながら、膝をついた。

その隙に、久能が、上がり框を、越えていた。

久能は、蓮を見ていなかった。台所の奥の、小夜を見ていた。赤い指は、もう、糸を一本ずつ探ってはいなかった。手のひら全体が、赤く濡れていた。瓶の中身を、手に、ぶちまけたのだった。

「一本ずつじゃ、間に合わない」

久能は、手のひらを、小夜の、組み合わされた両手の上に、かざした。

糸の、束ねられた、その結び目に。

蓮には、分かった。あの手が触れれば、束ねられた何十本もの糸が、一度に、滑らかになる。蕎麦屋の女の子も、石段の下の老人も、掲示板のえくぼの子も。いま、かろうじて、この台所の、この手に繋ぎとめられている者たちが、残らず、ほどける。数え残しが、なくなる。

そして、小夜自身も。

数えることをやめた手は、もう、何も握らない。

蓮は、立とうとした。脚が、言うことを聞かなかった。梁を落とすのに、何かを、使いすぎていた。胸の罅の奥が、紙やすりで擦られたように、薄かった。

届かない。

そのとき、トメが、動いた。

六

トメは、小夜の前に、立っていた。

いつ動いたのか、蓮には分からなかった。階段の下にいたはずの老婆が、次の瞬間には、小夜と久能のあいだに、両手を広げて、立ちはだかっていた。小さな体だった。背中が、曲がっていた。広げた腕が、細かく、震えていた。

久能の赤い手が、トメの胸を、通り抜けた。

当然だった。トメは、もう、数えられていない。数えられていないものに、手は、触れられない。赤い手は、何の抵抗もなく、老婆の体を、霧のように抜けて、その向こうの、小夜の手へ、届こうとした。

トメが、叫んだ。

声は、出なかった。数えられない者の叫びは、この世界のどこにも、響かない。それでも、蓮には、聞こえた。聞こえたのではなかった。胸の罅が、その叫びの形に、裂けた。

赤い手が通り抜けたところで、トメの輪郭が、滲んでいた。墨を水に落としたように。トメの糸が、蓮の目の前で、ひと筋、またひと筋、ほつれていった。虚零の上に、さらに虚零が重ねられたのではなかった。数える権利を奪われた者から、奪えるものは、もう、ない。けれども、久能の手は、トメの糸が、かろうじて繋がっている、その先を、撫でていた。小夜の手の中の、いちばん太い一本を。

トメは、それでも、退かなかった。

老婆の、皺だらけの手が、久能の手首を、つかもうとした。

つかめるはずがなかった。

「……叔母さん?」

小夜が、言った。

小夜には、何も見えていなかった。見えていないはずだった。梁が落ちて、見知らぬ学生が倒れて、眼鏡の青年が、赤い手をこちらに伸ばしている。それだけが見えているはずだった。それなのに、小夜の目は、久能ではなく、その手前の、何もない空気を、見ていた。

「叔母さん、そこに、いるの?」

トメの指が、久能の手首を、つかんだ。

つかんだ。

久能が、はじめて、表情を変えた。自分の手首に、何かの重さがかかったのだった。見えない、ありえない、数えられていないはずの、老婆の、握力が。

一瞬だった。

その一瞬で、蓮は、久能の糸を見た。

久能の糸も、胸のあたりで、丸く、滑らかに閉じていた。答えの手触り。裂け目は、ない。けれども、その答えの表面に、蓮は、見覚えのある模様を見つけた。字だった。答えの、いちばん底に、黒い字が、写されていた。蓮自身の字だった。「数える者は、数えられる者を、数えない権利を持つ」。

久能の答えは、久能のものではなかった。蓮の論文から、写されたものだった。

ならば、そこには、あるはずだった。

蓮が、書きながら、美しい一文で塗りこめた場所が。事実から権利へ、一歩だけ踏み越えた、その継ぎ目が。赤い字がどれほど上から爪で掻いても、写した以上は、写されている、あの一瞬の迷いが。

あった。

答えの底に、髪の毛ほどの、罅があった。

蓮自身の、罅と、同じ形の。

蓮は、それを、断った。

音は、しなかった。

久能の手が、止まった。濡れた赤い手のひらが、小夜の手の上、指一本分のところで、止まった。

久能は、自分の手を見た。それから、蓮を見た。分厚い眼鏡の奥で、目が、ゆっくりと、見開かれていった。

「影くん」

声が、半年前の、部室の声に戻っていた。

「ここ、嘘だったの?」

蓮は、膝をついたまま、頷いた。

「嘘でした。書いたときから、分かっていました」

久能は、その場に、座りこんだ。赤い手を、膝の上に置いた。インクが、ズボンに、じわりと染みていった。久能は、それを、ぼんやりと見ていた。泣いてはいなかった。泣き方を、思い出そうとしているような顔だった。

「じゃあ、僕は」久能は言った。「僕は、何を、写してたんだろう。百冊も」

答えは、なかった。蓮には、答えを渡す資格がなかった。

梁の下の二人が、動きを止めていた。三人目の学生が、久能の腕を取って、立たせた。久能は、されるままだった。格子戸の敷居で、久能は、一度だけ振り返った。

「僕、明日から、何を考えたらいいのかな」

「分かりません」蓮は言った。「僕にも」

久能は、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。答えではない顔で。

格子戸が閉まった。

梁の下から、残りの二人が、這いだしていった。腕を一本失った学生も、それを拾おうとはしなかった。落ちた腕は、土間の上で、指先を、まだかすかに動かしていた。やがて、それも止まった。蓮は、目をそらさなかった。そらせば、それを、数えずに済ませることになる気がした。

路地の向こうで、四人の足音が、坂を下りていった。一人の足音だけが、ほかの三人と、揃っていなかった。途中で、何度も、止まった。

台所に、埃が、ゆっくりと降りていた。

トメは、小夜の前に、まだ立っていた。輪郭は、滲んだままだった。けれども、消えてはいなかった。小夜の手の中の、いちばん太い糸は、ほつれながらも、繋がっていた。トメは、振り返って、小夜の顔を、長いこと見ていた。触れようとして、手を上げて、下ろした。

小夜は、何もない空気を、見つめていた。

「影さん」

小夜の声は、静かだった。

「いま、誰かが、私の前に、立っていましたね」

蓮は、答えなかった。

「梁が落ちるのも、あの人たちが倒れるのも、私、見てました。影さんが、何かを、指で、切るみたいにするのも。でも、それより、いまの。私の前に、誰かいた。小さい人。背中の曲がった」小夜は、自分の両手を、見下ろした。「その人が、私の代わりに、何かを、受けとめてくれた気がするんです」

小夜は、顔を上げた。

「影さん。あなたは、知ってるんですね。二つ目の湯呑みが、誰のなのか」

まな板の上で、半分刻まれた葱が、乾きはじめていた。

蓮は、梁の埃にまみれた膝で、小夜の前に、座り直した。

「明日」蓮は言った。「明日の朝、全部、話します。今夜は、まだ、言葉に、できない」

小夜は、しばらく、蓮の顔を見ていた。

それから、黙って、立ち上がり、割れずに残った湯呑みを、三つ、卓袱台の上に並べた。

その夜、蓮は眠らなかった。

屋根裏の、窓の下に座って、落ちた梁の埃が、髪から、ぱらぱらと膝に落ちるのを、そのままにしていた。トメが、部屋の隅にいた。輪郭は、まだ滲んでいた。滲んだまま、トメは、自分の手を、何度も握っては開いていた。久能の手首をつかんだ、その手を。

「つかめたよ」トメは言った。誰に、というのでもなかった。「あの子が、呼んだから。叔母さん、って。あの一瞬だけ、あたし、あそこに、いたんだよ」

「……はい」

「あの子に、あたしのこと、言うんだね」

蓮は、頷いた。

トメは、長いあいだ、黙っていた。

「影さん。あたしはね、あの子を、女中みたいに使ったよ。飯を炊かせて、帳面をつけさせて、給金なんか、ろくに払わなかった。あの子の母親の借金を、盾に取ってさ。あの子が、あたしのために茶を淹れるのは、あたりまえだと思ってた。二つ目の湯呑みなんて、あたしには、もったいないんだよ」

トメは、顔を上げた。

「言っとくれ。あたしがどんな女だったかも。いいとこだけ、言うんじゃないよ。あの子は、きれいな話を、信じない子だから」

蓮は、窓の外を見た。墓地の上に、細い月が、出ていた。

明日の朝、自分は、何を、どの順番で、言うのだろう。どんな言葉も、口に出した瞬間に、答えの形になってしまいそうだった。蓮は、言葉を一つ、胸の中で組み立てては、崩した。組み立てては、崩した。夜が、白むまで。

◇ (第十四章 了) ◇

第十五章 告白

◇ ◆ ◇

一

夜明け前に、蓮は、階段を下りた。

台所には、もう灯りがついていた。小夜は、卓袱台の前に、正座していた。眠らなかったのだと、蓮には分かった。昨日の割烹着のままだった。落ちた梁は、土間の隅に寄せられ、埃は、きれいに掃かれていた。夜のうちに、ひとりで、掃いたのだ。

卓袱台の上に、湯呑みが三つあった。それから、鉛筆が一本と、帳面が一冊。

帳面は、小夜が家計をつけているものだった。表紙の角が、丸く擦り切れていた。

「座ってください」小夜は言った。「お茶は、話が終わってから淹れます。先に淹れると、冷めてしまうから」

蓮は、小夜の向かいに座った。二つ目の湯呑みの、前だった。いつもトメが座っている場所だった。トメは、蓮のうしろ、階段の下に、立っていた。

蓮は、自分の膝を見た。昨日の梁の埃が、ズボンの布目に、まだ白く残っていた。

話すことは、楽になることかもしれない、と蓮は思った。胸の中に抱えてきたものを、外へ出す。出してしまえば、軽くなる。それを望んでいる自分が、どこかにいた。その自分を、蓮は、見張っていなければならなかった。軽くなるために話すのなら、それは、小夜の前に、自分の荷物を下ろすだけのことだった。トメを数えなくしたのと、形の違う、同じことだった。

どこから話せばいいのか、蓮は、夜通し考えていた。組み立てては崩した言葉が、どれも、口の中で、形になる前に砕けた。

だから、蓮は、いちばん最初から、話した。

「半年前に、大学の同人誌に、論文を書きました。『零について』という題です」

小夜は、黙って聞いていた。

「人には、上へ伸びる糸があります。僕には、それが見えます。生まれたときから。糸を持つ者と、持たれる者がいる。高いところにいる者は、低いところにいる者を、数えなくても、倒れない。僕は、そう書きました。それから、その先を書きました。だから、上にいる者には、下にいる者を、数えない権利がある、と」

鉛筆が、帳面の上に、置かれたままだった。

「書いたとき、そこが、嘘だと分かっていました。倒れない、というのは、見たことです。権利がある、というのは、見ていないことです。僕は、見ていないことを、見たことと同じ字で書きました。それで、確かめたくなった。自分の書いたことが、本当かどうか」

蓮は、息を吸った。

「春の、夕方でした。僕は、この家の、二階の部屋へ、上がりました。そこに、ひとりの人がいました。僕に部屋を貸していた人です。僕は、その人の糸を、切りました。殺したのではありません。その人は、いまも、います。ただ、誰にも、数えられなくなった。あなたにも」

小夜の手が、膝の上で、ゆっくりと、握られた。

「その人の名前を、言います」

蓮は、小夜の目を見た。

「雁木トメ。あなたの、叔母さんです」

小夜は、瞬きをした。

何かを聞いた顔だった。そして、聞いたものが、耳の中で、形を保てずに、崩れていく顔だった。

「……がんぎ」小夜は、繰り返した。「がんぎ、の。すみません。もう一度」

「雁木トメ」

「がんぎ、と……」

名前は、小夜の中で、滑った。蓮には、それが見えた。言葉が、小夜の糸の表面に触れて、つかまる場所を見つけられずに、落ちていくのが。

小夜は、鉛筆を取った。

帳面の、白い頁に、書いた。雁木、トメ。震える字だった。書き終えて、小夜は、それを見た。見ているうちに、字が、薄れはじめた。鉛筆の粉が、紙から浮いて、どこかへ散っていくように。

小夜は、その上に、もう一度、書いた。

また薄れた。

また書いた。

「雁木トメ」蓮は、言った。

「雁木、トメ」小夜は、書きながら、声に出した。

何度も。何度も。頁が、薄れた字の影で、灰色になっていった。

トメが、階段の下で、口を押さえていた。

二

「叔母さんの話を、します」

蓮は言った。十回目の名前が、帳面の上で、まだ、かすかに残っていた。

「きれいな話は、しません。その人に、そう頼まれました」

小夜が、顔を上げた。

「質屋をしていました。この家の一階で。帳場に座って、算盤をはじいて、近所の人に、金を貸していた。利子は、高かった。取り立ては、厳しかった。返せない人の家から、簞笥を運びだしたこともある。ケチで、細かくて、ひとりでした。夜、帳場で、金を数えていました。何度も数えていました。数え終わっても、また、はじめから」

蓮は、トメの糸を思い出していた。黒く油じみた、無数の結び目。

「あなたのことも、使っていた。飯を炊かせて、帳面をつけさせて、給金は、ろくに払わなかった。あなたのお母さんの借金を、盾にとって。あなたが、その人のために茶を淹れるのは、あたりまえだと、その人は思っていた。本人が、そう言っていました」

小夜は、黙っていた。

「でも、あなたの帳面の、前のほうの字」

蓮は、卓袱台の上の帳面に、手を伸ばした。頁を、ずっと前へ、めくった。小夜が、この家に来たばかりのころの頁。そこには、細くて、少し右に傾いた、きれいな字が、並んでいた。

「あなたは、前に、言いましたね。この字は、自分の字じゃない。誰に習ったのか、分からないって」

小夜の目が、その字の上に、落ちた。

「その人の字です」蓮は言った。「その人が、あなたに、帳面のつけ方を教えた。算盤も。数え方を。あなたの手が、名前も知らない誰かのために、茶碗を数えられるのは」

蓮は、そこで、言葉を止めた。

それ以上言えば、答えになる、と思った。きれいな話に。

だから、そこで、止めた。

小夜は、長いこと、細い字を見ていた。それから、指で、その字をなぞった。なぞって、自分のいまの字と、見比べた。自分の字も、ほんの少し、右に傾いていた。

小夜の目から、涙が一粒、帳面の上に落ちた。

小夜は、それを、拭わなかった。

「……影さん」

小夜の声は、泣き声ではなかった。

「あなたは、それを、私に、話してどうしてほしいんですか」

蓮は、答えられなかった。

許してほしい、とは、言えなかった。罰してほしい、とも。どちらも、同じ形をしていた。これで終わりにしてほしい、という形を。

「分かりません」蓮は言った。「ただ、あなたが、知らないまま、湯呑みを出し続けるのは、間違っていると、思いました。あなたには、それが誰のためなのか、知る権利がある」

権利、という言葉が、自分の口から出たことに、蓮は、ぞっとした。

小夜は、それに気づいたようだった。ほんのかすかに、口もとが、歪んだ。笑ったのではなかった。

「権利」小夜は、その言葉を、帳面の上に置くように、言った。「影さんは、そういう言葉で、考えるんですね」

三

外が、白みはじめていた。

路地で、牛乳屋の瓶が、かちゃかちゃと鳴った。どこかの家で、雨戸が開いた。谷中の、いつもの朝だった。何ひとつ、変わっていなかった。

小夜は、帳面を閉じた。

閉じて、両手を、その上に置いた。

「許しません」

小夜は、言った。

はっきりとした声だった。震えていなかった。

「あなたを、許しません。叔母さんが、どんな人だったとしても。ケチでも、ひとりでも、私を使っていたとしても。あなたには、その人を、数えなくしていい理由なんか、どこにもなかった。上とか、下とか、糸とか、私には、分かりません。分かりたくもない。でも、それだけは、分かります」

蓮は、頷いた。

頷く以外に、何もできなかった。

小夜は、立ち上がった。台所へ行き、薬缶に水を汲み、火にかけた。蓮に背を向けたまま、湯が沸くのを、待っていた。背中が、小さく、震えていた。

湯が沸いた。

小夜は、急須に茶葉を入れた。三杯。それから、少しだけ手を止めて、もう一杯。四杯。湯を注いだ。

盆に、湯呑みを載せて、戻ってきた。

湯呑みに、茶を注いだ。一つは、蓮の前に。一つは、卓袱台の角に。

そして、次の一つを、蓮が座っている、その席の前に、置いた。二つ目の湯呑みの席に。トメの席に。蓮が、いま、ふさいでいる場所に。

「どいてください」小夜は言った。「そこ、叔母さんの席なんでしょう」

蓮は、横に退いた。

小夜は、湯呑みの前に、帳面の頁を一枚、破って置いた。そこに、鉛筆で書いた。雁木トメ。字は、また、薄れはじめた。小夜は、それを見ていた。見ながら、言った。

「毎晩、書きます。消えたら、また書きます。朝になって、分からなくなっていたら、この紙を見て、なんだろうって思って、それでも、書きます」

小夜は、蓮のほうへ、向きなおった。

「影さん。あなたは、見えるんでしょう。叔母さんも、昨日の、小さい人も。お蕎麦屋さんの、丼の人も。私には、見えません。見えないけど、数えたい。でも、私一人じゃ、足りない。私は、明日の朝には、忘れてしまうから」

小夜は、息を吸った。

「数えるなら、数え続けてください」

蓮は、顔を上げた。

「私は、あなたを、数えます」

その言葉の意味が、蓮の中に届くまで、しばらく、かかった。

許しではなかった。小夜は、許さないと言った。それは、変わらなかった。けれども、小夜は、手を放さなかった。蓮を、数えない者の側へ、突き放さなかった。蓮が、トメにしたことを、小夜は、蓮に、しなかった。

それは、赦しより、ずっと、重かった。

数えられる、ということは、逃げられない、ということだった。この家の、この卓袱台の前で、毎朝、小夜の目に、数えられる。自分が何をしたのかを知っている目に。それが、何年続くのか。何十年続くのか。

蓮の胸の罅が、軋んだ。痛みではなかった。何かが、罅の縁に、しっかりと、結びつけられる感じだった。

トメが、蓮の横に、座っていた。

自分の湯呑みの前に。紙切れの、薄れていく名前の前に。老婆は、両手で顔を覆って、肩を震わせていた。声は、出なかった。出なくても、よかった。

四つ目の湯呑みは、まだ盆の上にあった。小夜は、それを、しばらく見ていた。それから、卓袱台の、もう一つの角に、置いた。誰のためか、小夜には、分からなかった。分からないまま、置いた。

「ありがとう、は、言わないでください」小夜は、自分の湯呑みを両手で包んで、言った。「言われたら、私、たぶん、叩いてしまうから」

蓮は、何も言わなかった。

熱い茶を、飲んだ。熱かった。舌が、焼けた。それでも、最後まで、飲んだ。

四

昼過ぎ、蓮は、谷中の交番の前に立っていた。

言問通りの角の、小さな交番だった。硝子戸の向こうで、若い巡査が、机に向かって、何かを書いていた。壁に、指名手配の写真が並んでいた。その下に、「落とし物・拾い物はこちら」という札が、画鋲で留められていた。

蓮は、そこに、十五分、立っていた。

なぜ来たのか、自分でも、はっきりとは分からなかった。小夜は、許さないと言った。けれども、罰するとは、言わなかった。罰することは、小夜の仕事ではなかった。では、誰の仕事なのか。蓮は、それが、この硝子戸の向こうにあるのではないかと、思ったのだった。机と、書式と、判子と、条文のある場所に。人が、人を裁くための、ちゃんとした形のある場所に。

そこへ行けば、形がもらえる。

罪という名の形。罰という名の形。刑期という、終わりのある数。それを受けとって、数えて、いつか、その数が尽きる日を、待つことができる。

蓮は、それが、欲しかった。

欲しいと思ったことに、蓮は、気づいた。気づいて、硝子戸の前で、動けなくなった。

巡査が、顔を上げた。

「どうしました。落とし物ですか」

人の好さそうな、まだ二十そこそこの顔だった。蓮は、硝子戸を開けた。

「……人を」

言いかけた。

「人を、どうしました」

「人を、なくしました」

巡査は、書類を一枚、引き寄せた。「迷子ですか。お名前と、特徴を」

蓮は、口を開いた。雁木トメ、と言おうとした。言えた。声は、出た。巡査の鉛筆が、書式の上で、動きかけた。そして、止まった。巡査は、眉を寄せて、自分の鉛筆の先を見た。

「すみません、もう一度」

「雁木トメ」

「がんぎ……」

巡査の鉛筆は、また、止まった。巡査は、困ったように笑った。「あれ。おかしいな。ちょっと、今日、耳が変で」

蓮は、頭を下げた。

「いいえ。すみません。僕の、勘違いでした」

交番を出たとき、背中に、巡査の声が、追いかけてきた。「何かあったら、また来てくださいね」。蓮は、振り返らなかった。

言問通りを、車が、何台も、何台も、通り過ぎていった。

罰は、ここにはなかった。形は、どこにも、用意されていなかった。蓮が、自分で、手放したのだった。数える権利などというものを、自分の手で書いたとき、蓮は、この硝子戸の向こうにある形もまた、自分のいる場所から、切り離していたのだ。法は、数えられる者のためにある。数えられなくなった者を、法は、数えない。蓮の罪は、蓮の論文と同じ場所に、ひとりで、立っていた。

三歩うしろに、トメがいた。

「あんた、捕まりたかったのかい」トメは、言った。

「……分かりません」

「楽なほうへ行こうとしたね」トメは、鼻を鳴らした。「あたしには、分かるよ。借金取りに追われた人は、みんな、一度はそういう顔をする。いっそ、全部、取り上げてくれって顔をね。取り上げてもらったら、それで、終わりだから」

蓮は、何も言い返せなかった。

五

夕方、蓮は、夕焼けだんだんの石段の上で、鑓水を待った。

呼びだしたのではなかった。鑓水は、そこに来るような気がした。そして、来た。坂の下から、帽子を手に持って、一段ずつ、唇だけで数えながら、上ってきた。

「三十九」鑓水は、最上段で言った。「今日は、三十九でした。昨日は、四十だった。一段、数えられなくなったのかもしれない」

鑓水は、蓮の隣に立った。二人の下で、谷中銀座の屋根が、夕日に、赤く並んでいた。猫が、三匹。一匹が、石段の途中で、何もない場所を、よけて通った。

「昨日、雁木さんのお宅で、梁が落ちたそうですね」

「はい」

「近所の人が、音を聞いた。行ってみたら、娘さんが、ひとりで掃除をしていた。何でもありません、古い家だから、と。私も、行きました。梁の楔が、切れていた。鋸の跡もなく、斧の跡もなく。まるで、はじめから、そこだけ、なかったみたいに」

鑓水は、帽子を、指で回した。

「影さん。この前、あなたは、言いかけて、止めた。私は、止めてくれと言った。今日は、止めません。言ってください」

蓮は、言った。

小夜に言ったことを、もう一度、全部。論文のこと。糸のこと。春の夕方。二階の部屋。雁木トメ。そして、冊子のこと。久能のこと。赤い字のこと。四十七の「?」の、一つ目は、自分の手によるもので、残りの四十六は、自分の書いたものが、ほかの手を通して、したことだと。

鑓水は、一度も、口を挟まなかった。手帳を出しもしなかった。ただ、石段の下の、何もない場所を、見ていた。猫がよけて通った、その場所を。

話し終えたとき、日は、屋根の向こうに、沈みかけていた。

長い沈黙があった。

「私はね、影さん」鑓水は、ようやく言った。「昨日の夜、署に戻って、逮捕状の請求書を、書こうとしたんですよ。本気で。書式を出して、机に向かって」

鑓水は、自分の手のひらを見た。

「被疑者の欄に、あなたの名前を書いた。これは、消えなかった。次に、罪名の欄。ここで、止まった。殺人じゃない。傷害でもない。誘拐でも、監禁でもない。人を、数えなくした罪。そんな条文は、刑法の、どこにもない。それで、被害者の欄に、進んだ。そこに、名前を、書いた」

鑓水は、手帳を出して、開いた。

一枚の書式が、挟まれていた。被疑者、影蓮。罪名、空白。被害者の欄には、何度も書いては消えた、鉛筆の灰色の跡と、小さな「?」が一つ。

「書けなかった。被害者の書けない事件は、事件にならない。罪名のない罪は、罪にならない。少なくとも、私の仕事の中では」

鑓水は、書式を、丁寧に、四つに畳んだ。

「だから、私は、あなたを、逮捕しません」

蓮は、鑓水を見た。

「できない、と言ったほうが、正確かな」鑓水は、少しだけ、笑った。笑っていない目で。「法がないんです。これには。法が、届かない。あなたの書いたものが、法より先へ行ってしまった。だから、影さん、あなたが、あなたの刑になるしかない」

「……僕が」

「ええ。ほかに、誰もいないから。裁く人も、刑を決める人も、刑期を数える人も。あなたしか、いない。あなたが、自分で、自分に、刑を科して、自分で、それを、毎日、執行する。刑期は、あなたが決める。終わりも、あなたが決める。いや」

鑓水は、首を振った。

「終わりは、決めないほうがいいでしょうね。終わりを決めたら、それは、答えになるから。あなたが、いちばん嫌っているものに」

鑓水は、畳んだ書式を、手帳の、四十七行の頁に、挟みなおした。それから、その手帳を、まるごと、蓮に差しだした。

「これを、預けます」

「でも、これは、あなたの」

「写しは、とってあります。私は、写しのほうで、椅子を数え続ける。あなたは、原本で、名前を数えてください。あなたには、見えるんでしょう。私には、椅子しか見えない。椅子と、名前。二人で数えれば、少しは、数え残しが減る」

蓮は、手帳を受けとった。

軽かった。紙の重さしか、なかった。それが、恐ろしかった。

「一つだけ、約束してください」鑓水は、帽子をかぶった。「あなたが、いつか、もう数えられないと思ったら。数えるのをやめたいと思ったら。そのときは、この石段で、私を待ってください。逮捕はできない。でも、話は聞ける。聞いて、数えることくらいは、できる」

鑓水は、石段を、下りはじめた。一段ずつ、唇だけで数えながら。

途中で、立ち止まり、振り返った。

「影さん。私も、あなたを、数えていますよ。ずっと前から。刑事ですから」

六

その夜、蓮は、屋根裏の机に、二冊を並べた。

藁半紙の冊子と、黒い手帳。

冊子を開いた。自分の黒い字と、久能の赤い字が、並んでいた。蓮は、しばらく、それを見ていた。それから、鉛筆を取った。

赤い字を、消そうとは、しなかった。消しても、それが書かれたことは、消えない。久能が、百冊書いたことも。それを読んだ者たちが、七日かけて、誰かの名を呼ばずに済ませたことも。

蓮は、赤い字の、さらに外側の、余白の、わずかに残った白いところに、書いた。

雁木トメ。

字は、薄れなかった。蓮の手では、薄れなかった。蓮が、見ているからだった。

次の頁の余白に、書いた。

「蕎麦屋、坂の途中。おかっぱ。膝のすりむけ。弟がいる。父、母、弟、と数える」

名前は、書けなかった。蓮は、それを知らなかった。明日、あの子に、聞かなければならなかった。聞いても、あの子は、もう、言えないかもしれない。それでも、聞かなければならなかった。

次の頁。

「千駄木小学校、二階、窓際の前から三番目。朝顔」

次の頁。

「日暮里、掲示板。えくぼ、左。ラムネ」

次の頁。

「夕焼けだんだん、下。老人。猫がよける」

一行書くたびに、胸の罅が、低く、鳴った。書くことは、救うことではなかった。蓮は、それを、よく分かっていた。書いても、あの子たちは、家族のもとへ戻らない。蕎麦は、のびたままだ。朝顔の机は、空いたままだ。書くことは、ただ、数えることだった。数えて、数え残さないことだった。答えにしないことだった。四十七を、四十七のまま、抱えることだった。

黒い手帳の、四十七の「?」の横に、蓮は、一つずつ、冊子の頁番号を、書きこんでいった。一つ書くたびに、手帳の中の「?」は、「?」のまま、残った。蓮は、それを、消さなかった。

夜が、更けていった。

机の向かいに、トメが座っていた。

輪郭は、昨日より、少しだけ、戻っていた。小夜の、あの紙切れのせいかもしれなかった。トメは、黙って、蓮の手もとを見ていた。一行書くたびに、老婆の唇が、かすかに動いた。蓮の書いた住所を、読んでいるのだった。帳場で、何十年も、帳面を読んできた目で。

「字が、汚いね」トメは、言った。

「すみません」

「帳面はね、あとで読む人のために、書くもんだよ。自分のためじゃない」トメは、鼻を鳴らした。「あの子には、そう教えた」

蓮は、字を、少しだけ、丁寧にした。

あとで読む人。それが誰なのか、蓮には、分からなかった。小夜かもしれなかった。鑓水かもしれなかった。あるいは、いつか、数えることに疲れ果てた、未来の自分かもしれなかった。誰であっても、その人が、一行も読み落とさずに済むように、蓮は、一画ずつ、書いた。

窓の外で、墓地の木々が、夜風に揺れた。どこか遠くで、電車の、最後の音がした。

二十三行目を書き終えたとき、階下で、かすかな音がした。

格子戸の、郵便受けの蓋が、かたん、と鳴ったのだった。

蓮は、階段を下りた。台所は、暗かった。卓袱台の上に、四つの湯呑みが、洗って伏せてあった。トメの席の前に、紙切れが一枚。薄れた「雁木トメ」の上に、もう一度、書き直された跡があった。小夜は、寝る前に、もう一度、書いたのだ。

土間の郵便受けに、白い封筒が、一通、入っていた。

宛名はなかった。封も、されていなかった。

中に、一枚の、白いカードが入っていた。細い、迷いのない字で、こう書かれていた。

影蓮様

大いなる解答の夜に、ご招待いたします。

君の数え残しを、すべて、持っておいでなさい。

今度こそ、一緒に、答え合わせをしましょう。

白解

蓮は、カードを持ったまま、暗い土間に、長いあいだ、立っていた。

それから、カードを、手帳の、四十七行の頁に、挟んだ。

屋根裏へ戻り、二十四行目を、書きはじめた。

◇ (第十五章 了) ◇

第十六章 大いなる解

◇ ◆ ◇

一

その朝、谷中で最初に黙ったのは、豆腐屋の喇叭だった。

毎朝六時十分、三崎坂を下りてくる自転車の、あの間の抜けた二音の喇叭が、その日は鳴らなかった。自転車は来た。豆腐屋の親爺は、いつものように荷台に木箱を積み、いつものように坂の途中で止まり、いつものように首から下げた喇叭を口に当てた。そして、吹かなかった。

吹く理由が、なかったのだ。

蓮はそれを、屋根裏の窓から見ていた。親爺は喇叭を唇に当てたまま、しばらく坂の上を眺め、それから静かに喇叭を下ろした。顔には何も浮かんでいなかった。困惑も、疲れも、あきらめもなかった。ただ、問いがひとつ、きれいに片づいた人の顔だった。――なぜ毎朝ここで喇叭を吹くのか。誰が聞いているのか。聞いていなかったら、どうなのか。その問いに、誰かが答えを嵌めてしまったのだ。

親爺は、喇叭を鳴らさずに坂を下りていった。豆腐は、一丁も売れなかった。買いに出てくる者も、いなかったからだ。

部屋の隅で、トメが顔を上げていた。

昨夜まで畳の縁ばかり見ていた濁った目が、窓の外に向いていた。蓮は、そのことに、胸の底で冷たいものが動くのを感じた。数えられていない者が、何かに気づいている。それは、数えられている者たちが、何かに気づけなくなっているということだった。

「……始まったのですか」

声に出して訊いたのは、トメにではなかった。答えたのも、トメではなかった。

「始まった」

窓の外、電線の上に、夷隅が立っていた。

立っている、と言っていいのか分からなかった。電線は少しもたわんでいなかった。朝の風が夷隅の羽織の裾を揺らしているのに、夷隅の足もとの電線は、そこに誰もいないかのように、雀一羽ぶんの重さも受けとっていなかった。それが当然だった。夷隅にとって、この電線も、この町も、無ですらない、数えることの要らないものだった。

「大解」と夷隅は言った。「あの白いのたちは、そう呼んでいる。谷中を、一度に解く」

蓮は窓枠を掴んだ。

「一度に、とは」

「一軒ずつではない。一人ずつでもない」夷隅は、坂の下を見た。「町の問いを、まとめて一つの答えで塞ぐ。塞がれた者は、空ろになる。静かになる。何も求めなくなる」

「篠原さんのように」

「篠原のように」と夷隅は繰り返した。その名を、夷隅が覚えていたことに、蓮は少し驚いた。「七千人の篠原」

二

蓮は階段を駆け下りた。

帳場の障子は開いていた。小夜が、文机の前に座っていた。算盤の上に指を置いたまま、動いていなかった。

「小夜さん」

小夜は顔を上げた。目は、澄んでいた。澄みすぎていた。

「影さん。おはようございます」

「……大丈夫ですか」

「はい」小夜は、首をかしげた。「大丈夫、というのは、何がですか」

蓮の喉が、音を立てて閉じた。

彼は、小夜の糸を見た。

あった。まだ、あった。細く、白く、震えながら、上へ伸びていた。ただ、その糸のまわりを、薄い膜のようなものが包みはじめていた。膜には、字が書いてあった。読めない字だった。いや、読めば分かってしまう字だった。――もういい。数えなくていい。あなたはもう十分に苦しんだ。問いを下ろしなさい。

答えの字だった。

膜は、小夜の糸だけを包んでいるのではなかった。蓮が目を上げると、帳場の格子の向こう、路地の向こう、屋根の向こう、谷中の町じゅうの糸という糸に、同じ膜が、蜘蛛の巣に降りた朝露のように、きらきらと掛かっていた。露は美しかった。美しくて、冷たかった。一滴ごとに、同じ答えが、同じ字で、写しとられていた。

「影さん」小夜が言った。「今朝、お茶碗、いくつ出したらいいか、分からなくて」

文机の脇の盆に、湯呑みが一つだけ伏せてあった。

一つ。

蓮は、その一つの湯呑みを見つめた。この二か月、小夜は毎晩、理由も分からないまま二つ出してきた。理由が分からないことを、苦しみながら。その苦しみが、今朝、片づけられかけていた。

部屋の隅に、トメが立っていた。いつものように三歩うしろではなく、小夜のすぐ背中に。老婆の手が、小夜の肩の上で、触れられないまま止まっていた。

「小夜さん」と蓮は言った。自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。「二つ、出してください」

「どうしてですか」

「分からなくていいから」

小夜は、蓮を見た。長いあいだ見ていた。膜の字が、小夜の糸の上で、一度、滲んだ。

「……影さんが、そう言うなら」

小夜は、戸棚から、もう一つの湯呑みを出した。指が、少し震えていた。震えは、問いの形をしていた。蓮は、その震えを、この世でいちばん大事なもののように見た。

それから、小夜は、目を閉じて、手を合わせた。

「名ヲ持タヌ御方」と小夜は、ほとんど聞こえない声で言った。「数えきれないものを、どうか、数えていてくださいまし」

祈りが、糸を一本、膜の外へ押し出した。ほんの一本。けれども、その一本のまわりだけ、答えの露が、乾いた。

三

町は、静かに解けていった。

蓮は、トメを背に、谷中の路地を走った。

よみせ通りの八百屋は、店を開けていた。親爺は、梨を並べていた。一つずつ、きちんと、同じ間隔で。並べ終わると、また並べ直した。客は来なかった。来なくても、困らなかった。困る、という問いが、塞がれていたからだ。

寺の境内では、住職が箒を持ったまま立っていた。落ち葉は掃かれていなかった。掃く意味を問わなくなった者は、掃くことも、掃かないことも、同じだった。

子供が、道の真ん中に座っていた。泣いていなかった。母親を呼んでもいなかった。母親は、三軒先の軒下に立って、空を見ていた。二人の糸は、朝までは途中で絡みあっていたはずだった。今は、それぞれの胸に、それぞれの答えがぴたりと嵌まり、絡む必要をなくしていた。

蓮は、子供の前に膝をついた。

「お母さんは」

「あそこ」子供は、指をさした。「でも、いいの」

「いい、って」

「いらないの」子供は、少しも悲しくない顔で言った。「もう、いらないんだって」

蓮は、立ち上がれなかった。

これが、自分の書いたものの、最後の頁だった。――高きに立つ者は、低きを数えない権利を持つ。

書いたときには、それは、上から下へ向けた言葉だった。上にいる者が、下を見下ろす権利の話だった。だが、白解たちは、その言葉を裏返した。数えられないことが権利であるなら、数えることをやめることも権利だ。自分自身の問いを、数えないことも。そして、それを人に分け与えることも。

人は、自分を数えることをやめたとき、こんなに静かになるのだ。

蓮は、その静けさを、知っていた。論文を書き上げた夜、最後の句点を打ったとき、屋根裏に降りてきたのが、これだった。何も求めない、澄んだ、冷たい静けさ。あのとき蓮は、それを、真理に触れた者の安らぎだと思った。今、七つの子供の顔の上に、同じものが載っていた。安らぎは、少しも子供に似合っていなかった。似合わないものを、似合わないと思える自分が、まだここにいることだけが、蓮を立ち上がらせた。

罅の奥で、何かが言った。おまえが書いたのだ。おまえが、この子に、これを渡したのだ。

蓮は、その声を、否まなかった。否めば、それもまた、ひとつの答えになるからだった。

「影」

背後で、声がした。

振り向くと、路地の角に、二人、立っていた。

ひとりは、背が高く、痩せて、灰色の着流しに、擦りきれた下駄を履いていた。四十前後に見えたが、目だけが、ひどく古かった。もうひとりは、まだ少女のように見える女で、赤い毛糸の襟巻きを、九月だというのに首に巻き、両手をポケットに入れていた。

二人とも、何のにおいもしなかった。

夷隅と同じだった。

「鳴海」と、痩せた男が言った。それが名前らしかった。「こっちは千草」

「夷隅に、呼ばれたの」赤い襟巻きの少女が言った。声は子供のようで、口調は老人のようだった。「めんどうくさい。下のことは、下でやればいいのに」

「下、というのは」

「ここ」千草は、足もとを、靴の先でとんと叩いた。石畳は、音を立てなかった。「ここ全部」

四

鳴海と千草は、零守――零階を守る者だと、夷隅は言った。

三人は、谷中霊園の、天王寺の五重塔の跡に集まっていた。塔は、何十年も前に燃えた。今は、礎石だけが、芝の中に、四角く並んでいる。心柱の据わっていた真ん中の石だけが、少し窪んで、雨水を溜めていた。

その窪みに、町が映っていた。

水は、本物の町を映しているのではなかった。答えの露に覆われた、糸の町を映していた。七千本の糸が、上へ伸びるのをやめ、それぞれの長さで、ぴたりと止まっている。まるで、誰かが一本ずつ、定規を当てて切りそろえたように。

「どうして、止めないんですか」と蓮は言った。「あなたたちなら、止められるでしょう」

鳴海は、窪みの水を見ていた。

「止められる」と鳴海は言った。「町ごと」

蓮は、その意味が分かるのに、一呼吸かかった。

「あの白いのたちは、町の上に網を張っている」夷隅が言った。「網は、町の糸と、一本ずつ結ばれている。われらが網を払えば、町も払われる。われらの手は、町に触れるようにはできていない」

「あたしたちにとって、ここは無ですらない、って話」千草が、襟巻きに顎をうずめた。「無なら、壊れる。ないものは、壊れようもない。あたしが指一本動かせば、網も、町も、あんたのおばあちゃんも、はじめから数えなかったことになる」

トメが、蓮の背後で、ほんの少しだけ身を縮めた。

「だから、網を張っているあいつらを、網の外で叩く」鳴海が言った。「網は、あいつらが持ち上げているから、張っていられる。持つ手を払えば、網は落ちる。落ちた網は、ただの答えだ。答えは、下の者が、下の手で剥がすしかない」

三人の零守が、同時に、蓮を見た。

見る、というより、ほんの一瞬、蓮の上で、三つの目が止まった。数えることの要らないものの中に、何かが引っかかった、というように。

「下の手」と夷隅は言った。「おまえの手だ、罅ノ子」

五

塔の跡を離れる前に、蓮は一度だけ、質屋へ引き返した。

質屋の格子戸の前に、鑓水恭介が立っていた。

いつもの帽子に、いつもの皺だらけの背広。ただ、いつもの扇子は、閉じたまま、手の中で握りしめられていた。鑓水は、格子戸の向こうの帳場を、じっと覗きこんでいた。蓮の足音に気づくと、振り向いて、いつものように、人のいい顔で笑おうとした。笑いは、途中で止まった。

「影さん」と鑓水は言った。「ちょうどよかった。いや、ちっともよくはないんですが」

鑓水の目が、蓮の後ろへ動いた。何もない場所へ。トメの立っている場所へ。見えてはいないはずだった。それでも、鑓水の目は、ほんの一瞬、そこで止まり、それから、礼儀正しく逸れた。

「今朝から、手帳が埋まらないんですよ」鑓水は、背広の内ポケットを叩いた。「谷中じゅうで、妙な話を拾いましてね。豆腐屋が喇叭を吹かない。八百屋が梨を並べ直している。住職が掃除をしない。みんな、訊けば、にこにこ答えてくれる。困っていないって。何も要らないって。事件じゃない。誰も何も失くしていない。書くことが、何もない」

鑓水は、扇子の先で、自分のこめかみを軽く叩いた。

「それがね、私はいちばん怖い。二十年、この商売をやってきて、書くことのない朝ほど怖いものは、なかった」

蓮は、鑓水の糸を見た。

露が、掛かっていた。答えの字が、鑓水の糸の上で、半分まで写しとられていた。けれども、残りの半分に、何かが、ひっかかっていた。字が、そこから先へ進めなかった。

「鑓水さん」と蓮は言った。「今、何を考えていますか」

「あなたのことですよ」鑓水は、あっさり言った。「この前、あなたは、私とお嬢さんに、ずいぶん妙な話をなさった。数えられない、とかね。私はまだ、半分も信じちゃいない。刑事ですから。ところが、今朝、目が覚めたら、信じないと決めれば楽になるような気がしましてね。何もかも、わからないままで、いいような気が。それが、無性に腹が立った」

鑓水は、扇子を、ぱちりと開いた。

「わからないことを、わからないまま手帳に書いておくのが、私の仕事でして。わからないのをやめたら、手帳を閉じるしかない。閉じたくないんですよ。あなたの件は、まだ、閉じたくない」

露の字が、鑓水の糸の上で、一字、崩れた。

蓮は、何も言えなかった。胸の罅が、痛いほど、軋んだ。この男は、自分を追っていた。追っていることで、自分を数えていた。

「小夜さんのそばに、いてください」と、やっと言った。「二つ目の湯呑みを、片づけさせないでください。理由は、訊かないで」

「訊きますよ」と鑓水は言った。「あとで、全部、訊きます。ほうじ茶を奢りますからね。だから、戻っていらっしゃい」

鑓水は、帽子を軽く持ち上げて、格子戸をくぐった。靴の音が、ちゃんと、帳場の板に響いた。

塔の跡へ戻る途中、蓮は、夷隅の左の袖に気づいた。

夷隅の黒い羽織の左の袖が、肩のあたりから、ほんのわずか、色を失っていた。焦げたのではない。濡れたのでもない。その部分だけ、布が、夷隅の他の部分ほどには、確かでなかった。

登坂無限との、最後の段でのことだった。無限の手は、夷隅に届かなかった。無限は何段登っても届かなかった。それでも、無限が蓮を狙って消した可能性の、その余波が、夷隅の袖を掠めた。夷隅は、それを、傷とも呼ばなかった。

「痛みますか」と蓮は訊いた。

「痛む」と夷隅は言った。天気の話と同じ調子だった。「おまえたちの言う痛みとは、違うが」

「僕を庇ったから」

「おまえを庇ったのではない」夷隅は、前を向いたまま言った。「おまえが数えているものを、庇った。取られた権利は、返されるか、払われるかしなければならない。途中で消えられては、帳面が閉じない」

帳面、という言葉を、夷隅は、トメの算盤の音でも聞いたように、口にした。

六

解答者たちは、谷中の上にいた。

上、というのは、空のことではなかった。蓮は、夷隅に教わった降り方の、ちょうど逆のやり方で、それを見た。胸の罅に指をかけ、自分の足もとを、ほんの半歩、数えないことにする。すると、町の屋根が、紙に描いた屋根のように、薄く、平たくなり、その向こうに、零階の、最初の段が見えた。

段の上に、白い者たちが、輪になって立っていた。

十人ほどいた。白い上着、白いシャツ、白い手袋。顔はそれぞれ違っていたが、表情はひとつだった。穏やかな、何も求めない微笑。彼らは、それぞれの手のひらを、下へ向けていた。手のひらから、細い光の糸が、町へ垂れていた。それが網だった。

白解の姿は、なかった。

「いない」と蓮は言った。

「いない」と夷隅が言った。「あれは、網の真ん中にいる。見えないところに」

輪の中のひとりが、顔を上げた。

眼鏡をかけた、三十ほどの男だった。几帳面に分けた髪、細い顎。蓮は、その顔に見覚えがあった。大学の図書館の、閲覧室の、いつも同じ席に座っていた男だ。

「仁科均です」と男は言った。「影くん。君の論文を、最初に筆写したのは、僕です。三十二回、写しました。字の癖まで」

均は、手のひらを網に向けたまま、微笑んだ。

「邪魔をしないでほしい。これは、君の結論なんだ」

鳴海が、動いた。

動いた、と蓮が思ったときには、鳴海は、もう輪の中にいた。下駄の音はしなかった。一歩も踏んでいなかった。鳴海の古い目が、白い者のひとりの上で、止まった。

それだけだった。

白い者は、消えなかった。倒れもしなかった。ただ、その者が網に垂らしていた光の糸が、ぷつりと、鳴海の側から数えられなくなった。垂らしていた糸がなくなったのではない。糸はまだそこにある。けれども、もう、何も持ち上げていなかった。持ち上げる、ということが、鳴海の前では、勘定に入らなかった。

白い者は、自分の手のひらを見下ろし、不思議そうに首をかしげた。

零守の、下への一撃だった。

「虚零」と、蓮の口が、勝手に言った。

「そう」千草が、輪のもう一方の端に立っていた。「あんた、分かるようになったね」

千草の襟巻きが、風もないのに揺れた。彼女の前の白い者が、ふいに、そこに立っていなかったことになった。

蓮は、目を凝らした。違った。今のは、虚零ではなかった。白い者は、まだそこにいた。いたのに、いる場所が、なかった。段の上の、その者が立っていた一寸四方が、もともと空いていなかったことになっていた。白い者の足は、どこにも載っていなかった。載るための、その場所の可能性ごと、なかった。

空だった。

白い者は、落ちなかった。落ちる先の場所もなかったからだ。ただ、どこにも居られないまま、その者の糸だけが、網から外れた。

七

解答者たちも、黙って払われはしなかった。

均が、網から片手を離した。その手が、蓮のほうへ向いた。

「影くん。君は、分かっているはずだ。三つの無を」

均の手のひらの前で、空気が、ほどけた。

最初に来たのは、無だった。

蓮の左の袖が、肘から先、消えた。布も、糸も、そこにあった埃も、何もなくなった。痛みは、遅れて来た。肘の先の皮膚が、焼けるように冷たかった。物が、なくなったのだ。在ったものが、無に落とされた。

蓮は、よろめきながら、それを見た。見ることができた。夷隅の階で、登坂無限と戦ったあの夜々に、身体で覚えたことだった。無は、物を奪う。けれども、物が在った場所は、まだ残る。場所が残っているなら、罅は、そこに、自分の糸の端を引っかけられる。

蓮は、袖のなくなった腕を、そのまま前へ出した。腕は、まだあった。皮膚の上を、無がなめただけだった。

二度目は、空だった。

均の指が、蓮の足もとの段を、軽く撫でた。段が、なくなったのではなかった。段の上の、蓮の立つ場所が、はじめから在りえなかったことになった。足を置くための可能性が、削られた。

落ちる、と思った。落ちなかった。落ちる先もなかった。蓮は、どこにもいなかった。千草の前の白い者と同じように。

――空は、可能性を消す。

登坂無限の声が、どこかで響いた。十二段目の夜、彼が段の可能性そのものを消したとき、蓮はそれでも立っていた。立っていられたのは、足が場所に載っていたからではなかった。

蓮は、罅を開いた。

胸の奥の、あの裂け目。自分が自分を持ちながら、同時にもう持っていない場所。そこには、場所がなかった。はじめから、なかった。蓮はそこに、足を置いた。

場所のない場所に、蓮は立っていた。

均の眼鏡の奥で、目が、ほんの少し、見開かれた。

「……背理核で、立つのか」

三度目は、虚零だった。

均の手のひらが、蓮の胸に向いた。何も飛んでこなかった。何も消えなかった。ただ、蓮は、自分が、少しだけ、勘定に入らなくなったのを感じた。自分の重さが、段に伝わらない。自分の息が、空気を揺らさない。均の目に、自分が映っていない。

トメが、いつも感じていることだった。

蓮は、それを、知っていた。二か月、知っていた。自分がトメにしたことを、今、自分がされていた。

知っていたから、崩れなかった。

数えられないことの冷たさを、蓮は、毎朝、部屋の隅に見ていた。それは、蓮の中で、もう知らないものではなかった。知っているものは、裂け目の中で、問いとして持つことができた。問いは、数えられなくても、問いのままだった。

蓮は、段を踏んだ。段は、音を立てなかった。構わなかった。音がしなくても、蓮は、自分が踏んだことを、数えていた。

蓮は、均の糸を見た。

均の胸の上には、答えが嵌まっていた。篠原と同じように。ただ、均の答えの縁から、細い糸が一本、網へ伸びていた。網を持ち上げている糸。答えを人に分け与えるための糸。

蓮は、その糸に、指をかけた。

断律。

切れた。

均の手のひらから、網へ垂れていた光が、途切れた。均は、よろめきもしなかった。ただ、手のひらを見下ろし、それから、ゆっくりと蓮を見た。

「僕の、糸を」

「あなたの糸じゃない」と蓮は言った。声が震えていた。「網を持つための糸です。あなたのは、もう、ない」

均は、黙った。眼鏡の奥で、何かが、ほんの一瞬、揺れた。問いに似たものが。

そして、また静かになった。

八

輪は、崩れた。

鳴海が三人の糸を払い、千草が二人の場所を消し、夷隅は、ただ段の端に立って、残りの者たちを見ていた。見ているだけで、白い者たちの手は、網から離れていった。夷隅の前で、網を持ち上げる、ということは、もう数に入らなかった。

網が、落ちはじめた。

町の上に張られていた光の糸が、ほどけ、垂れ下がり、谷中の屋根の上に、薄い雪のように降りていった。けれども、消えはしなかった。

答えは、残った。

蓮は、段の上から、町を見下ろした。糸という糸の上に、答えの露が、まだ嵌まっていた。網は落ちた。答えは、そのまま、一人一人の胸に残った。持ち上げる手がなくなっても、一度嵌まった答えは、自分からは外れなかった。

「言っただろう」鳴海が、蓮の横に立った。「答えは、下の手で剥がすしかない」

「七千人ぶん、ですか」

「七千人ぶん」

蓮は、自分の両手を見た。袖のない左腕と、震えている右手。

七千本。

一本ずつ、断律で。

「それに」と夷隅が言った。

夷隅の目が、網の、ちょうど真ん中が落ちていった場所を見ていた。

天王寺の五重塔の跡。礎石の、心柱の窪み。

そこに、白い上着の青年が、座っていた。

網の中心は、落ちていなかった。そこだけ、答えが、まだ上へ向かって、ぴんと張られていた。一本の糸で。青年の胸から伸びる、白い、まっすぐな、一本の糸で。

糸は、震えていなかった。

白解は、窪みの水に、指先を浸していた。水面に映った町を、そっと撫でるように。それから、顔を上げて、段の上の蓮を見た。

微笑んでいた。

「来てくれましたね、影さん」

その声は、遠くの段の上にいる蓮の耳に、すぐ隣で話すように届いた。

「ちょうど、最後の一問が残っているんです」

◇ (第十六章 了) ◇

第十七章 埋められた糸

◇ ◆ ◇

一

段を降りるのに、足は要らなかった。

蓮は、夷隅に教わったとおり、自分の立つ場所を、ほんの半歩ぶん、また数えることにした。紙に描いたようだった谷中の屋根が、厚みを取り戻した。瓦の一枚一枚に、朝の光が、斜めに溜まった。墓石の列が、立ち上がった。卒塔婆が、風に鳴った。

そして、蓮は、天王寺の五重塔の跡に立っていた。

芝は、露に濡れていた。礎石は、四角く並んでいた。心柱の窪みの水には、答えの露に覆われた糸の町が、まだ映っていた。その縁に、白解が、腰かけていた。

背後で、三人の零守の気配が、段の上に留まっていた。降りては来なかった。来られないのではなかった。来れば、この芝も、この礎石も、この窪みの水も、数えなくていいものになってしまう。それを、三人とも、知っていた。

トメだけが、蓮の三歩うしろに、降りてきていた。

「座りませんか」と白解は言った。自分の隣の礎石を、手のひらで示した。「長い話ではないけれど、立ったままするような話でもない」

蓮は、座らなかった。

白解は、気を悪くしたふうもなかった。水面から指を上げ、雫を一滴、芝に落とした。雫は、芝の葉の上で、丸く光った。

「僕のことを、まだ見ていないでしょう、影さん」

「見ました」と蓮は言った。「光っていて、見えなかった」

「それは、見ていないということです」白解は、微笑んだ。「君はいつも、僕の胸の上を見るとき、目を細める。眩しいものを見る目で。でも、眩しいのは、君が、そこに糸を探しているからです。糸がないところに糸を探せば、何でも眩しく見える」

白解は、白い上着の前を、指先で、そっと開いた。

「今日は、細めずに、見てください。最後ですから」

二

蓮は、目を細めなかった。

白解の胸の上に、糸は、なかった。

篠原のときと同じだった。糸が上へ伸びはじめるはずの場所に、答えが嵌まっていた。

だが、篠原の答えとは、違った。

篠原の答えは、欄に書きこまれた清書だった。枠の形に切りそろえられ、ぴたりと収まり、そこで終わっていた。何も伸びていなかった。

白解の答えは、伸びていた。

糸の形をしていた。細く、白く、まっすぐ上へ。震えてはいなかった。何かを探してもいなかった。けれども、形だけは、糸だった。糸があるべき場所を、糸とまったく同じ形のまま、答えが、隙間なく埋めていた。根もとから、先の先まで。まるで、糸の型に、白い石膏を流しこんで固めたように。

埋メラレタ糸。

蓮は、その言葉を、胸の中で呟いた。呟いた瞬間、それが、この青年の名前だと分かった。

「分かりますか」白解は、上着の前を閉じた。「僕は、僕を解いたんです。十四のときに。問いを全部、答えで埋めた。在りたい僕と、在ってはならない僕。そのあいだの裂け目を、一分の隙もなく。でも、篠原さんのようには、空ろにならなかった。形を、残したんです。問いを持っていたときと、同じ形を。だから、僕は、話せる。歩ける。人の問いを見て、それに合う答えを、選んであげられる」

白解は、窪みの水を見下ろした。

「ほかの人には、それができない。解かれた人は、みんな、空ろになる。形まで、答えに合わせて縮んでしまう。僕だけが、残った。問いの形をした、答えとして」

「……それで、町じゅうに」

「町じゅうに、僕の答えを写したんです」白解は、あっさり言った。「僕の形は、問いの形ですから。どんな問いにも、嵌まる。篠原さんのも、あの子供のも、豆腐屋さんのも。七千の問いに、一つの答えで足りた。僕が、原本です」

蓮は、窪みの水を見た。糸の町。七千本の糸の上の、七千の露。一滴ごとに写しとられた、同じ字。

原本。

「君のも、嵌まりますよ」白解は、やさしく言った。「君の罅は、僕の裂け目と、同じ形をしている。はじめて論文を読んだとき、そう思いました。この人は、ほとんど、解けている。あと一行で」

三

蓮は、動いた。

考えるより先に、罅が開いた。白解の身体に、指をかけた。肩から胸へ、斜めに。夷隅の階で覚えた、身体を裂く断律。登坂無限の脚を、三度、裂いたやり方。

白解の身体は、裂けた。

白い上着ごと、肩から胸へ、斜めに。血は出なかった。裂け目の向こうに、朝の墓地が見えた。

そして、閉じた。

閉じた、というより、裂けたことが、そこに収まらなかった。白解の形は、答えに支えられていた。身体に支えられていたのではなかった。答えが白解の形をしているかぎり、身体がどう裂けても、白解は、白解の形に戻った。

「松の湯の夜と、同じです」と白解は言った。自分の胸を、軽く撫でた。「君は、篠原さんの身体を裂いた。でも、篠原さんは、身体に掴まっていなかった。僕も、同じです」

蓮は、糸を探した。

なかった。糸は、埋められていた。断律は、糸を切る。糸がなければ、指をかける端もない。蓮の指は、白い石膏の表面を、滑った。

「無でも、空でも、虚零でも、同じですよ」白解は、立ち上がった。「僕を無にしても、答えは残る。僕の場所を消しても、答えに場所は要らない。僕を数えなくしても、答えは、数えられることを求めていない。求めていないものから、何を奪えますか」

白解が、一歩、近づいた。

攻撃ではなかった。白解は、手を上げもしなかった。ただ、蓮の顔を、まっすぐに見た。

見られたところから、蓮の中に、字が流れこんできた。

――もういい。

罅の縁に、答えの露が、降りた。

――おまえは、あの人を数えなくした。取り返しはつかない。つかないことを、いつまでも数えているのは、罰ではない。ただの、自分への執着だ。

字は、正しかった。どの一字も、正しかった。蓮が、屋根裏で、夜ごと自分に言い聞かせてきたことと、同じ字だった。

――あの人は、もう苦しんでいない。苦しんでいるのは、おまえだけだ。おまえが問いを下ろせば、この町に、苦しむ者はいなくなる。

罅が、閉じはじめた。

閉じる、というのは、こんなに気持ちのいいことだったのか、と蓮は思った。十七年、胸の奥で軋みつづけていたものが、ようやく、静かになる。裂け目の両岸が、ゆっくりと寄り、答えの白が、その隙間を埋めていく。

――お母さんも、そう言うでしょう。

母の顔が、浮かんだ。

台所の、裸電球の下の顔。洗い物の手を止めて、振り返る顔。蓮の論文を読まずに、「難しいことを考えるのね」と笑った顔。笑いの端に、少しだけ、疲れの残る顔。

その顔が、答えの字で、上書きされようとしていた。――あなたが楽になれば、母さんは嬉しい。

四

蓮は、それでも、指を動かした。

閉じかける罅の、最後の隙間から。白解の足もとの芝に、指をかけた。芝が、根ごと、裂けた。礎石が、音もなく、二つに割れた。白解の立つ場所を、下から崩そうとした。

白解は、崩れなかった。

「そこには、僕はいません」と白解は言った。割れた礎石の上に、白解は、少しも傾かずに立っていた。「僕が立っているのは、答えの上です。答えは、どこにでも立てる」

蓮は、窪みの水に、指を向けた。水に映った七千の露と、白解の答えとを繋いでいるはずのものを、探した。原本と写しを結ぶ糸。それを切れば、町は、ほどける。

何も、なかった。

露は、白解と、糸で結ばれてはいなかった。ただ、同じ形をしていた。同じ字で、同じ答えだった。それだけで、足りていた。結ばれていないものは、切れなかった。

「写しは、原本に掴まっていません」白解は、すまなそうに言った。「掴まる必要がないんです。同じだから。君の断律は、すがるものを切る力でしょう。すがらないものには、届かない」

白解は、蓮の、袖のない左腕を見た。

「僕も、昔は、すがっていました」

白解は、礎石に、また腰を下ろした。まるで、疲れた友人の隣に座るように。

「僕は、三番目の子でした。上の兄が二人、生まれてすぐ死んだ。母は、僕が生まれたとき、泣きながら、三番目だから、と言ったそうです。三番目だから、今度こそ、と。僕は、ずっと、その今度こその中で育った。どうして兄たちは死んで、僕は生きているのか。僕は、兄たちの代わりなのか。代わりなら、僕の分は、どこにあるのか。毎晩、それを考えました。天井の染みを、数えながら」

蓮は、動けなかった。天井の染み。屋根裏の、木目。

「誰も、答えてくれなかった。母も、父も、寺の和尚さんも。だから、十四の夏に、自分で答えたんです。僕の分は、ない。はじめから、ない。だから、問わなくていい。そう書いて、裂け目に、流しこんだ」

白解は、自分の胸に、軽く指を当てた。

「それから、一度も、天井の染みを数えていません。数える必要が、なくなった。解答者の人たちは、僕を、三番目の解答者と呼びます。三番目の子が、三番目に、自分を解いたから。うまい洒落でしょう」

白解は、笑った。いつもの、何も求めない微笑で。

蓮は、その微笑の下に、十四の少年の、天井を見上げる目を、見ようとした。見えなかった。見えないように、完全に、埋められていた。

「君の論文を読んだとき、嬉しかったんですよ」と白解は言った。「僕と同じことを、僕より上手に書く人がいた。数えなくていい、と。高いところから、あの頃の僕を、見下ろしてくれる人がいた。だから、君にも、同じものを、あげたい」

五

トメの手が、蓮の背中に触れた。

触れた、はずはなかった。数えられていない者の手は、何にも触れない。けれども、蓮の背中の、肩甲骨の少し下に、小さな、骨ばった、冷たい手のひらの重さが、確かにあった。

重さ、だった。

数えられていない者の手に、重さがあるはずはなかった。あるとしたら、それは、蓮が、数えているからだった。

遠くで、何かが聞こえた。

祈りだった。質屋の帳場で、小夜が、目を閉じて、手を合わせていた。蓮には、それが見えた。見えるはずのない距離で。小夜の前の盆に、湯呑みが二つ並んでいた。鑓水が、その横で、帽子を膝に置き、手帳を開いたまま、何も書かずに、座っていた。

「名ヲ持タヌ御方」と小夜は言っていた。「数えきれないものを、どうか。わたしも、数えますから」

罅の縁で、答えの露が、止まった。

蓮は、白解を見た。

「……あなたの言うことは、全部、正しい」

「ええ」

「正しいから、閉じていいと思った。でも、正しいことと、閉じていいことは、違う」

白解は、首をかしげた。はじめて、その微笑に、ほんの少し、分からないものが浮かんだ。

「違いませんよ。正しい答えがあるなら、問いは要らない」

「問いは、答えを探すためにあるんじゃない」

蓮は、自分の言葉に、自分で驚いた。どこから来た言葉なのか、分からなかった。分からないまま、続けた。

「僕は、あの人を数えている。答えが出たから数えているんじゃない。答えが出ないから、数えている。答えが出たら、やめてしまう。だから――」

蓮は、罅を、開きなおした。

答えの露が、裂け目の両岸から、はがれ落ちた。痛かった。閉じかけた傷を、自分の指でこじ開けるのと、同じ痛みだった。

「だから、これは、閉じない」

六

白解の身体は、裂けても戻る。糸は、埋められている。

なら、どこを。

蓮は、白解の胸の上の、白い石膏を見た。糸の形をした、答え。原本。

身体ではない。糸でもない。

答えそのもの。

そこへ、指をかけるには、もっと下まで降りなければならなかった。夷隅は言った。降りるたびに、上に置いてきたものは、数えられなくなる。覚えていても、重さを失う。はじめて降り方を教わった夜、蓮は、母の家の匂いを、そうやって置いてきた。

今度は、何を置いていくのか。

蓮は、知っていた。知っていて、降りた。

胸の罅に、指を深くかけた。自分の立つ場所を、半歩ではなく、ずっと深く、数えないことにした。芝が、礎石が、墓石が、朝の光が、薄く、平たくなった。白解の身体も、紙に描いた人のように、平たくなった。

深く降りるほど、蓮の中から、何かが、上へ置き去りにされていくのが分かった。それが何なのか、まだ、見なかった。見れば、降りる足が止まる。

平たくならないものが、一つだけ、残った。

白解の胸の上の、答え。

それは、下まで降りると、もう石膏には見えなかった。蓋だった。何かの上に、ぴたりと閉められた、白い、丸い蓋。蓋の縁に、髪の毛ほどの隙間もなかった。十四の少年が、どれほどの力で、それを閉めたのか。

蓋の下に、何かがあった。

見えなかった。けれども、蓋が、それの形をしていた。糸の形。問いの形。蓋は、下にあるものの形を、あまりにも正確に写しとっていたので、蓮には分かった。

その下には、まだ、問いがあった。

解かれて、埋められて、蓋をされて、それでも、消えてはいなかった。

蓮は、蓋の縁に、指をかけた。

身体を裂くのでも、糸を切るのでもなかった。答えを、裂いた。

断律。

蓋に、罅が入った。

一本。髪の毛ほどの。

それで、足りた。

七

白解は、礎石に腰かけたまま、自分の胸を見下ろした。

白い上着の上から、何も変わっては見えなかった。けれども、蓮には見えた。糸の形をした白い答えの、根もとから三分の一ほどのところに、細い罅が一本、斜めに走っていた。

罅から、何かが、ほんの少し、滲んでいた。

震えだった。

白解の胸の上で、埋められた糸が、はじめて、震えた。ほんのわずか。朝の風に、蜘蛛の糸が一度だけ揺れるほど。

「……ああ」

白解は、そう言った。

声が、変わっていた。どこにも力の入っていなかった声に、ほんの少し、何かが、引っかかっていた。

「これは」

白解は、自分の胸に、手のひらを当てた。当てた手が、かすかに、震えた。

そして、笑った。

今までの微笑とは、違った。何も求めない、澄んだ微笑ではなかった。口の端が、少し歪んで、目の端に、光るものがあった。痛がっているのか、喜んでいるのか、蓮には分からなかった。白解自身にも、分からないようだった。

「そうか」と白解は言った。「答えられない問いが、あるんですね」

窪みの水が、揺れた。

水面に映った糸の町で、七千の露が、一斉に、滲んだ。原本に罅が入ったのだ。写しは、写しでいられなくなった。露の字が、一字、また一字、崩れていった。豆腐屋の親爺の糸が、ぴくりと震えた。梨を並べる八百屋の糸が、住職の糸が、道の真ん中の子供の糸が、そして、三軒先の母親の糸が。二本の糸が、ゆっくりと、途中で、また絡みあった。

どこかで、子供が泣きだした。

泣き声は、少しも美しくなかった。鼻をすする、しゃくり上げる、母親を呼ぶ、みっともない、生きた声だった。その声に、三軒先の軒下で、母親が振り向く気配がした。下駄が、石畳を、駆けた。蓮は、その音を、罅の奥で、ひとつずつ数えた。数えずには、いられなかった。

三崎坂のほうから、間の抜けた、二音の喇叭が、聞こえた。

「困ったな」と白解は言った。目の端の光を、指の甲で拭った。「これは、困った。僕は、これを、どうしたらいいのか、分からない」

分からない、と言うとき、白解の声は、少しだけ、嬉しそうだった。

「影さん。君は、ひどいことをする」

「……あなたを、殺してはいない」

「ええ。殺してくれたほうが、ずっと楽だった」白解は、上着の前を、しっかりと閉じた。罅を、隠すように。あるいは、守るように。「答えを、裂かれた。僕は、これから、この罅を持って歩かなければならない。君のように」

白解は、立ち上がり、一歩、退いた。

芝を踏む音が、した。はじめて。

「また会いましょう」と白解は言った。「今度は、僕が、訊く番です」

白い上着が、墓石の列のあいだに、遠ざかっていった。光は、もう、どこからも余分に集まっていなかった。ただの、白い服を着た、痩せた青年の背中だった。

段の上で、夷隅が、何かを言った。蓮には、聞こえなかった。

八

深く降りた場所から、蓮は、ゆっくりと上がってきた。

芝が、厚みを取り戻した。墓石が立ち上がった。朝の光が、瓦に、斜めに溜まった。上がるたびに、息が、少しずつ、胸に戻ってきた。戻ってこないものがあることにも、蓮は、うすうす気づいていた。気づかないふりをした。今は、まだ。

段の上から、夷隅が降りてきた。

降りてきた、というのは正しくなかった。夷隅は、段の上にいたまま、蓮の前にもいた。羽織の裾が、芝に触れていた。芝は、少しもたわんでいなかった。夷隅は、この場所を、ほんの少しだけ、数えることにしたのだった。蓮と話すために必要な、その分だけ。

鳴海と千草は、段の上に残っていた。千草が、襟巻きに顎をうずめたまま、蓮を見下ろしていた。

「今の」と千草は言った。子供の声で、老人の口調で。「あたし、はじめて見た」

「何を」と蓮は訊いた。

「答えを、切るの」千草は、首をかしげた。「あたしたちは、場所を消せる。数えなくできる。でも、答えは、消しても、数えなくしても、答えのまま残る。答えは、すがってないから。すがってないものには、下からも上からも、手のかけようがない。……はずだった」

鳴海は、何も言わなかった。古い目で、白解の去った墓石の列を、じっと見ていた。

夷隅が、蓮の前に、立った。

「罅ノ子」

「……はい」

「おまえが今したことは」夷隅は、そこで、言葉を切った。夷隅が言葉を選ぶのを、蓮は、はじめて見た。「われらの階には、ない」

蓮は、夷隅を見上げた。

「階の上に、いくら段を重ねても、あれは、できない。千段でも。果てしなく重ねても」夷隅は、白解の去ったほうを見た。「登坂無限が、どれほど登っても、わたしに届かなかったのと同じだ。段の数では、届かないものがある」

「じゃあ、何で」

夷隅は、答えなかった。

答えずに、ほんの一瞬、空を見上げた。晴れた、九月の、何もない空を。電線が一本、ゆるく垂れていた。夷隅の目は、その空の、さらに上の、どこでもない一点に、止まった。そして、すぐに、下りてきた。

「白いのは、また来る」と夷隅は言った。「罅の入った答えは、もう答えではない。問いの形をした、問いだ。あれは、それを持って、歩く」

「僕のように、と言っていました」

「おまえのように」夷隅は、繰り返した。「――おまえは、それを、数えるのか」

前にも、同じことを訊かれた、と蓮は思った。坂の上の、止まった雨の夜に。あのとき、蓮は、答えられなかった。

「数えます」と蓮は言った。「あの人も」

夷隅の目が、ほんの少しだけ、細くなった。笑ったのではなかった。何かの、あまりにも小さなものを、よく見ようとしたのだった。

それから、夷隅は、段の上へ戻った。いや、段の上にしか、いなかったことになった。

九

蓮は、礎石の上に、座りこんだ。

トメが、隣に、正座していた。

蓮は、目を閉じた。母の顔を、思い出そうとした。

思い出せた。

台所の、裸電球の下。洗い物の手を止めて、振り返る顔。「難しいことを考えるのね」と笑う顔。笑いの端の、少しの疲れ。目尻の小さな黒子。右の頬にだけ出る、浅い笑窪。

全部、覚えていた。一つも、欠けていなかった。

けれども、それは、もう、重さを持っていなかった。

写真を見ているのとも、違った。写真なら、見る者の胸に、何かが落ちる。この顔は、何も落とさなかった。そこにある。形も色も、少しも変わらずにある。ただ、蓮の中で、それが、勘定に入らなかった。一。二。三。蓮がこれまで数えてきたものの列の中から、母の顔だけが、音もなく、抜け落ちていた。抜け落ちた場所も、数に入らなかった。

母さん、と蓮は、口の中で言った。

言葉は、どこにも届かなかった。

蓮は、泣かなかった。泣くための重さが、なかった。そのことが、泣くよりも、ずっと恐ろしかった。

蓮は、自分の論文の一行を、思い出した。高きに立つ者は、低きを数えない権利を持つ。

今、蓮は、自分の母を、数えていなかった。数えないことを、選んだのではなかった。深く降りた者の足もとで、上に置いてきたものが、ひとりでに、そうなったのだ。権利ではなかった。ただ、そうなっただけだった。誰も、それを許していなかった。蓮自身も。

これが、トメの側から見た、あの夜なのだ、と蓮は思った。数える者が、何の悪意もなく、ただ上に立ったというだけで、数えなくなる。数えられなくなった者は、そこにいる。何も変わらずにいる。ただ、重さだけが、どこにも落ちない。

母は、今も、どこかの台所で、洗い物をしているだろう。蓮が数えなくなったことを、母は、知らない。知らないまま、蓮の分の茶碗を、戸棚の同じ場所に、伏せているだろう。

その茶碗のことを思っても、胸は、少しも痛まなかった。

痛まないことを、蓮は、痛みの代わりに、覚えておくことにした。数えられないものを、数えられないまま、ひとつ、胸の帳面に書いておくように。

隣で、トメが、身じろぎした。

老婆の濁った目が、蓮を見ていた。いつものように畳の縁を見るのではなく、まっすぐに。責める目ではなかった。数えられない者の目で、数えられなくなったものを失った者を、見ていた。

「……おまえさんも」

トメが、口をきいた。夷隅が去ったあの夜以来、はじめてだった。

「おまえさんも、置いてきたのかい」

蓮は、うなずいた。

トメは、それ以上、何も言わなかった。ただ、膝の上で重ねていた両手の、片方を、ほんの少しだけ、蓮のほうへ、ずらした。触れはしなかった。触れられなかった。ずらした、というだけだった。

蓮は、それを、数えた。

一つ。

母の顔の、抜けた場所には、入らなかった。入れようとも、思わなかった。それは、新しい一つだった。

墓地の向こうで、豆腐屋の喇叭が、もう一度、鳴った。遅れた朝の、間の抜けた二音。谷中じゅうの窓が、一つ、また一つ、開く音がした。

◇ (第十七章 了) ◇

第十八章 二つの茶碗

◇ ◆ ◇

一

十月に入ると、谷中は、また文句を言うようになった。

豆腐屋の親爺は、喇叭の音が近ごろ裏返ると言って、三崎坂の途中で何度も吹き直した。よみせ通りの八百屋は、梨が高いと客に言われ、高いのは梨のせいだと言い返した。寺の住職は、落ち葉を掃きながら、掃いても掃いても落ちてくる、と誰にともなく愚痴をこぼした。道の真ん中に座っていたあの子供は、今は母親の袖を掴んで、駄菓子屋の前で泣いていた。買ってもらえないのだった。

誰も、九月のあの朝のことを、覚えていなかった。

覚えていない、というのとも、少し違った。みな、その朝、なんとなく静かだった気がする、と言った。よく眠れた朝だった、と。それから、少し眉を寄せて、でも何だか気味が悪かった、と付け足した。何も要らなかったことが、あとから、少しだけ、怖いのだった。

蓮は、それを聞くたびに、胸の罅の奥で、ひとつずつ数えた。

文句を。愚痴を。泣き声を。気味が悪い、という、その眉の寄せ方を。どれも、答えではなかった。問いの、小さな、みっともない、生きた欠片だった。

篠原にも、一度だけ、会った。

日暮里の駅の、朝のホームだった。灰色の背広、紺のネクタイ、磨かれた靴。篠原は、ベンチに座って、上りの電車を、三本、見送っていた。蓮が近づくと、顔を上げた。

胸の上に、答えは、まだ嵌まっていた。白解の手で、直に嵌められた答えだった。写しではなかった。罅は、原本から写しへは伝わっても、篠原の答えまでは、届いていなかった。

けれども、その縁が、ほんの少し、浮いていた。

「影さん」と篠原は言った。礼儀正しく。「おかしなことを、お訊きしますが」

「はい」

「今朝、娘の夢を見ました。何の夢だったか、思い出せません。思い出す必要も、ないのですが」篠原は、自分の胸に、手を当てた。「思い出せないのが、少し、気になるのです。気になる、というのが、どういうことだったか、それも、よく分からないのですが」

篠原は、四本目の電車も、見送った。

蓮は、何も言わずに、篠原の隣に、座った。電車が五本通りすぎるあいだ、二人は、黙って座っていた。蓮は、篠原の答えの、浮いた縁を、数えていた。断律で剥がすことは、まだ、できなかった。剥がせるほど、蓮は、まだ、深くなかった。

それでも、数えることは、できた。

左の肘から先は、まだ、冷たかった。無になめられた皮膚は、元に戻ったように見えたが、触ると、そこだけ、秋の井戸水のような温度をしていた。蓮は、それを、治そうとは思わなかった。

屋根裏の隅には、今朝も、トメが座っていた。

大解が解けても、トメは、数えられないままだった。当然だった。トメから数えられる権利を取ったのは、白解の答えではなかった。蓮だった。あの夜、蓮が、自分の手で、取ったのだ。答えに罅を入れても、取ったものは、戻らなかった。

トメは、膝の上で両手を重ね、濁った目を、少し伏せていた。ただ、このごろ、その目の落ちる先が、畳の縁ではなくなっていた。窓の外の、屋根の上。夕方になると、屋根の上の、猫の数を、数えているように見えた。

二

ある晩、蓮は、文机の引き出しから、あの同人誌を出した。

薄い、ホッチキスで綴じただけの冊子。表紙の端には、白解が折った跡が、まだ残っていた。十七頁。「零について」の、最後の節。

蓮は、それを、燃やそうと思った。

マッチ箱を、文机の上に置いた。擦れば、終わる。紙は、よく乾いていた。屋根裏の窓の外で、秋の虫が鳴いていた。

擦らなかった。

燃やせば、それは、ひとつの答えになるからだった。書いたものを消せば、書いたことは、なかったことになる。なかったことにすれば、仁科均が三十二回写したことも、篠原が眠れない夜にこれを読んだことも、道の真ん中の子供が「もういらない」と言ったことも、欄を失う。蓮がトメにしたことと、同じことを、今度は、自分の罪にすることになる。

蓮は、マッチ箱を、引き出しに戻した。

かわりに、鉛筆を取った。

最後の節の、最後の行の下の、余白に、何かを書き足そうとした。反論を。訂正を。権利は階の中にない、と。

鉛筆の先が、紙の上で、止まった。

書けなかった。書けば、それもまた、きれいに切りそろえられた、一行の答えになる。白解の石膏と、同じものに。

蓮は、長いあいだ、余白を見ていた。

それから、別のことを、書いた。

――雁木トメ。

名前だけだった。その下に、また書いた。

――篠原。仁科均。豆腐屋の親爺。よみせ通りの八百屋。住職。道の子供と、その母親。鑓水恭介。白解。

書いてから、蓮は、しばらく迷って、最後に、もう一行、書いた。

――母。

その字を書いても、胸には、何も落ちなかった。落ちないことを、蓮は、確かめた。確かめて、消さなかった。重さのない名前が、重さのある名前と、同じ字の大きさで、並んでいた。

論文の余白は、名前で、いっぱいになった。答えではなかった。問いでもなかった。ただの、数えるための、帳面だった。

部屋の隅で、トメが、首を伸ばして、それを見ていた。自分の名前が、いちばん上にあるのを。

トメは、何も言わなかった。ただ、算盤を弾くときのように、膝の上で、指を、ひとつ、折った。

同じ週、質屋の郵便受けに、葉書が一枚、届いた。

宛名は、影蓮様。差出人の名は、なかった。表の字は、あの迷いのない、美しい字だった。けれども、よく見ると、一画だけ、震えていた。

裏には、一行だけ、書いてあった。

――天井の染みを、数えてみました。十四の夏から、はじめて。三百と、少し。少しのところが、どうしても、数えられません。

蓮は、その葉書を、論文の十七頁に、挟んだ。

余白の名前の、白解、の字の横に。

三

鑓水恭介が最後に来たのは、十月の、最初の雨の日だった。

質屋の格子戸の前で、鑓水は、傘を畳みながら、いつもの人のいい顔で笑った。帽子の縁から、雫が落ちた。

「転勤でしてね」と鑓水は言った。「北のほうへ。まあ、飛ばされたんですよ。手帳に、書けないことばかり書く刑事は、使いにくいそうで」

二人は、あのほうじ茶の店へ行った。

窓際の卓に座ると、鑓水は、帽子を膝に置き、奥へ声をかけた。

「ほうじ茶を、みっつ」

今度は、指を引っこめなかった。

店の女は、少し首をかしげ、それでも、湯呑みを三つ運んできた。鑓水は、そのうちの一つを、誰も座っていない、蓮の隣の席の前に、そっと滑らせた。

トメは、その席に座っていた。

鑓水には見えていなかった。見えていないことを、蓮は知っていた。鑓水も、知っていた。

「訊くと言いましたからね」鑓水は、煎餅の袋を開けた。「訊きますよ。全部」

鑓水は、訊いた。

あの夜、何があったのか。トメは、どこにいるのか。あの朝、町に何が起きたのか。白い服の青年は、誰なのか。蓮は、答えられることには、答えた。答えられないことには、答えられない、と言った。鑓水は、手帳を開き、答えも、答えられないも、同じ字で、書いた。

一度だけ、鑓水のペンが、止まった。

「その人は」と鑓水は、隣の席を見ずに言った。「今、何をしていますか」

蓮は、隣を見た。トメは、湯呑みから立つ湯気を、じっと見ていた。

「お茶を、見ています」と蓮は言った。「飲めないのを、知っていて」

鑓水は、しばらく、何も書かなかった。それから、手帳に、小さく、書いた。――お茶を見ている。

「いい行だ」と鑓水は、誰にともなく言った。「二十年で、いちばん、いい行かもしれない」

最後に、鑓水は、ペンを置いた。

「これで、私の手帳は、閉じられなくなりました」

「……逮捕は、しないんですか」

「何の罪で?」鑓水は、煎餅を割った。ぱきり、という音が、雨の店に響いた。「人は消えていない。誰も消えたと思っていない。あなたは、誰も殺していない。法律の帳面には、あなたの書く欄がない」

鑓水は、隣の席の湯呑みを見た。湯気が、立っていた。誰も、口をつけていなかった。

「ただね、影さん。欄がないから、罪がない、ということには、ならない。私は、それを、あなたから教わりました。あなたの論文の、逆を」

鑓水は、手帳を、背広の内ポケットにしまった。

「私は、北へ行っても、この件を、書きつづけます。わからないまま。あなたが、あの人を数えているうちは、私も、あなたを、書いておきます。刑事の、つまらない意地でして」

鑓水は、立ち上がり、勘定を払った。役所の金だから、とは、今日は言わなかった。

店を出るとき、暖簾が、三度、揺れた。

鑓水は、振り向かずに、傘を開いた。

「三度目の暖簾は、私の分じゃありませんね」と鑓水は言った。「――よろしく、お伝えください」

誰に、とは言わなかった。

雨の坂を、帽子と傘が、ゆっくりと下りていった。蓮は、その背中が、夕焼けだんだんの角を曲がって見えなくなるまで、数えていた。一歩。二歩。三歩。数えきれなくなってからも、しばらく、数えていた。

四

夷隅は、夜に来た。

十月の終わりの、風の強い夜だった。天王寺の五重塔の跡に、蓮が行くと、夷隅は、心柱の窪みの縁に、座っていた。窪みの水は、ただの雨水に戻っていた。ただの夜空と、ただの月が映っていた。

鳴海と千草の姿は、なかった。

「帰った」と夷隅は言った。「下のことは、下でやれ、と千草が」

「あなたも、帰るんですか」

「帰る」

夷隅は、羽織の左袖を、軽く払った。色を失っていたところは、まだ、少しだけ、確かでなかった。夷隅は、それを、隠そうとしなかった。

「条件は、果たした」と夷隅は言った。「人に数えるなと教える者を見つけ、それが何であるかを、おまえの目で見た。見ただけでなく、罅を入れた。われらは、おまえを、もう追わない」

「……トメさんは」

「戻らない」

夷隅の声は、天気の話をするのと、同じ調子だった。

「取られた権利は、返されるか、払われるかしなければならない。おまえは、返せない。取ったものを返す手は、おまえの階にはない」

「では、払うんですね」

「もう、払っている」夷隅は、蓮を見た。「母の家の匂い。母の顔。おまえは、降りるたびに、上のものを置いてきた。これからも、置いていく。そして、置いてきたものの代わりに、数えられないものを、ひとつずつ、数えていく」

夷隅は、窪みの水に、指先を浸した。水は、揺れなかった。

「それが、利子だ。元本は、返らない。おまえは、一生、利子を払う」

蓮は、黙っていた。

風が、墓地の卒塔婆を鳴らした。

「罅ノ子」と夷隅は言った。「おまえは、それを、数えるのか」

三度目だった。坂の上の止まった雨の夜。白解の去った朝。そして、今夜。

「数えます」と蓮は言った。「利子も」

少し間をおいて、蓮は、もう一度、口を開いた。

「ひとつ、訊いてもいいですか」

夷隅は、答えなかった。答えないことが、許しだった。

「あの朝、あなたは、空を見上げた。いちばん上の、どこでもないところを」

「見上げた」

「何を、見ていたんですか」

夷隅は、長いあいだ、黙っていた。風が、二度、卒塔婆を鳴らした。

「おまえの階ではない」と夷隅は言った。「わたしの階でも、ない」

それ以上は、言わなかった。言えないのではなかった。言うための言葉が、この礎石の上には、まだ、なかった。蓮は、それを、夷隅の沈黙の重さで、知った。

夷隅は、立ち上がった。

羽織の裾は、揺れなかった。揺れないまま、揺れているように見えた。夷隅は、蓮を見下ろした。落とす、という言い方が、いちばん近かった。はじめて会ったときと、同じ目だった。井戸の底を覗くような目。けれども、蓮は、その目が、ほんの一瞬、井戸の底の、小さなものの上で、止まるのを見た。

「狭い」と夷隅は言った。

はじめて会った夜と、同じ言葉だった。けれども、声は、少しだけ、違っていた。

「狭いのに、底がない」

そう言って、夷隅は、礎石の上から、いなくなった。

足音も、羽織の影も、なかった。ただ、窪みの水の上に、夜露が、ひと粒、落ちていた。落ちた露は、月を映して、長いあいだ、消えなかった。

蓮は、その露を、数えた。

数えてから、礎石の、夷隅の座っていたあたりに、手のひらを置いた。石は、冷たかった。誰かが座っていた温もりは、どこにもなかった。はじめから、なかったのだ。夷隅は、この石を、一度も、数えていなかった。

それでも、蓮は、そこに誰かがいたことを、数えた。数えられることを求めない者を。

利子の、最初の一つだった。

五

帰り道、蓮は、谷中の坂を、ひとりで上った。

ひとりで、というのは、正しくなかった。三歩うしろに、トメがいた。いや、このごろは、二歩半だった。蓮が数えるたびに、ほんの少しずつ、近くなっていた。

夕焼けだんだんの上で、蓮は、立ち止まった。

町の灯が、下に広がっていた。家々の窓。路地の街灯。寺の門の小さな灯。その一つ一つの下に、糸があった。太い糸、細い糸、ほつれた糸。みな、上へ伸びていた。すがっていた。何に、なのかは、見えなかった。見る必要もなかった。

蓮は、思った。

自分は、あの論文で、高いところに立てば、低いものを数えなくていい、と書いた。高いところは、あった。夷隅の立つ階。その上にも、果てしなく重なる段。確かに、上の者は、下を数えなかった。数えないことが、あまりにも自然で、そこに悪意の入る隙さえなかった。

けれども、その自然の中のどこにも、権利、と書かれた札は、なかった。

階は、ただ、階だった。上と下とを並べる、仕組みにすぎなかった。仕組みの中に、許しは、入っていなかった。許しがないものを、蓮は、取った。取ったものは、だから、どこにも返せなかった。返す先の欄が、はじめから、なかったからだ。

それなら、自分にできることは、ひとつしかなかった。

数えつづけること。取られて、欄をなくした者を、自分の帳面の中にだけ、ひとつ、書きつづけること。

トメが、隣に来ていた。二歩半ではなく、すぐ隣に。老婆は、蓮と同じように、町の灯を見下ろしていた。

「……明るいねえ」

トメは、ぽつりと言った。

「電気代が、もったいない」

蓮は、笑った。自分でも驚くほど、自然に、笑いが出た。笑ったあとで、目の奥が、熱くなった。母の顔には、もう、落ちなかった重さが、この老婆の、しみったれた一言には、ちゃんと、落ちた。

六

質屋の台所には、灯りがついていた。

小夜が、卓袱台の前に、座っていた。卓袱台の上に、湯呑みが二つ、並んでいた。

一つは、小夜の前に。もう一つは、向かいの、誰も座らない場所に。

二か月、そうだった。小夜は、なぜ二つ出すのかを、考えないようにして、毎晩、二つ注いできた。二つ目の湯呑みは、毎晩、冷めて、朝、流しに捨てられた。

「おかえりなさい、影さん」

小夜は、顔を上げて、笑った。

「お茶、淹れたばかりです」

蓮は、戸口に立ったまま、二つの湯呑みを見た。

小夜の前の湯呑みには、小夜の手の跡があった。向かいの湯呑みからは、湯気が立っていた。誰の手の跡も、なかった。

トメが、その向かいの席の、すぐ脇に、正座した。自分の場所ではない、というように、少しだけ、ずれて。

「影さん」と小夜は言った。「わたし、ずっと、二つ目のお茶碗が、誰のためなのか、分からなかったんです。分からなくて、苦しくて。あの朝、分からなくていいって、影さんが言ってくれて。それから、ずっと考えてました」

小夜は、自分の湯呑みを、両手で包んだ。

「今も、分かりません。でも、影さんが、分からないものを数えてるって言ったとき、思ったんです。じゃあ、この二つ目は、数えられないものの分なんだろう、って。それで、影さんは、それを数える人なんだから――」

小夜は、向かいの湯呑みを、ほんの少し、蓮のほうへ押した。

「影さんが、座ってください。そこに。数えられないものの、隣に」

蓮は、動けなかった。

小夜の糸が、見えた。細く、白く、震えながら、上へ伸びていた。露は、どこにもなかった。答えは、嵌まっていなかった。ただ、問いだけが、震えていた。そして、その糸のすぐ脇に、もう一本、細い何かが、寄りそっていた。糸ではなかった。糸の形をしていなかった。小夜の祈りが、夜ごと、そこに置いてきたもの。数えきれないものを数えようとする手の、かすかな跡だった。

その跡は、蓮の糸にも、触れていた。

私が、あなたを数えます。

あの夜、小夜はそう言った。言ったとおりに、していたのだ。

蓮は、卓袱台の前に、座った。

向かいの席に。トメの、すぐ隣に。

湯呑みを、両手で持ち上げた。熱かった。指が、痛いほど、熱かった。蓮は、その熱さを、数えた。

そして、飲んだ。

二つ目の茶碗から。

ほうじ茶は、少し、濃すぎた。小夜が、ぼんやりしながら淹れると、いつもこうなるのだと、蓮は、この二か月で知っていた。苦かった。苦くて、温かかった。

隣で、トメが、湯呑みを見ていた。

濁った目が、蓮の手の中の茶碗から、立ちのぼる湯気を、追っていた。老婆の口もとが、ほんの少し、動いた。何を言ったのかは、聞こえなかった。聞こえなくても、よかった。蓮は、その口の動きを、数えた。

「……おいしいですか」と小夜が訊いた。

「濃いです」と蓮は言った。

「すみません」

「いえ」蓮は、もう一口、飲んだ。「濃いのが、いいんです」

小夜は、笑った。それから、目を閉じて、手を合わせた。

祈りの声は、小さかった。蓮には、はっきりと聞こえた。

「名ヲ持タヌ御方」と小夜は言った。「岸ナキ彼方におられる方。おばあちゃんが、そう呼んでいました。岸のない向こうから、どうか、見ていてください。ここに、お茶碗が二つあります。数えきれないものの分と、それを数える人の分です。わたしは、この人を、数えます。ですから、どうか――」

小夜は、そこで、言葉を探した。見つからなかった。見つからないまま、もう一度、同じ言葉を言った。

「どうか」

外で、風が止んだ。

屋根の上で、猫が一匹、鳴いた。トメの目が、ほんの少し、天井のほうへ動いた。

蓮は、三口目を飲んだ。

小夜が、帳場から、古い大福帳を一冊、持ってきた。

「これ、片づけていて、見つけたんです」

表紙の擦りきれた、分厚い帳面だった。小夜が開いた頁には、細かい、角ばった字が、びっしりと並んでいた。質草の名、貸した額、利息、期日。一銭の端数まで、きちんと。どの行の終わりにも、小さな丸が、ひとつずつ、書き添えてあった。返済が済んだ印だった。

「わたしの字じゃないんです」小夜は、指で、その字をなぞった。「このお店、ずっとわたしひとりでやってきたはずなのに。でも、この字、どこかで、毎日、見ていた気がして。誰の字なのか、どうしても思い出せなくて。思い出せないのに、捨てられないんです」

蓮の隣で、トメが、身を乗りだしていた。

自分の字を、見ていた。七十年近く、この帳場で書きつづけた字を。濁った目が、一行、一行、丸を数えるように、下へ動いていった。

「捨てなくて、いいと思います」と蓮は言った。

「……そうですよね」

小夜は、大福帳を閉じて、卓袱台の端に、そっと置いた。二つの湯呑みの、ちょうどあいだに。

「明日も、二つ出しますね」

「はい」

「影さんが、座ってくださるなら」

「座ります」

小夜は、うなずいた。それだけで、何かが、決まった。答えではなかった。約束だった。約束は、答えと違って、明日になるまで、どこにも嵌まらなかった。

七

同じ夜。

谷中の上に、零階があった。一段。二段。果てしない段が、夜空の向こうに、重なっていた。どの段も、その下の段を、数えなかった。段の上で、夷隅は、上へ、帰っていった。登坂無限がどれほど登っても届かなかった高さを、夷隅は、歩くほどの手間もなく、過ぎていった。

そして、夷隅は、一度だけ、足を止めた。

振り返ったのではなかった。見上げたのでもなかった。ただ、止まった。止まって、自分の立つ段と、その下のすべての段と、その下の谷中と、その下の、窪みの水に落ちたひと粒の露とを、自分の背中の、さらに向こうから、見られているのを感じた。

見ている者は、どこにもいなかった。

どこにもいない、という言い方も、正しくなかった。その者にとって、夷隅の階は、果てしない段の重なりではなかった。千段でも、果てしなくても、同じことだった。夷隅がこれまで登ったすべての段も、これから登るすべての段も、その者の目の中では、ひとつの点だった。点ですらない、数えることの要らない、ただの一か所だった。

夷隅は、その視線の下で、身じろぎもしなかった。できなかったのではない。する意味が、なかった。夷隅が谷中を見下ろすのと、同じ目で、夷隅は見下ろされていた。

その者は、町を見ていた。

谷中の、坂と、寺と、墓地と、質屋の台所の灯りを。灯りの下の、卓袱台を。卓袱台の上の、二つの茶碗を。

点の中の、さらに点の中の、見えるはずのない小ささだった。

それでも、その者の目は、そこで、ほんの一瞬、止まった。

点の中に、罅が、ひとつあった。

ひとつの点の中に、どうしても、ひとつの点に収まろうとしない、髪の毛ほどの、小さな罅が。

その者は、何も言わなかった。

ただ、見ていた。

質屋の台所で、蓮は、二つ目の茶碗を、卓袱台に戻した。茶碗の底に、茶が、ひと口ぶん、残っていた。蓮は、それを、飲み干さなかった。明日も、ここに座るために。

トメが、隣で、屋根の上の猫の声を、数えていた。

小夜が、目を開けた。

窓の外で、風が、また吹きはじめた。

谷中の夜は、少しも、答えを知らなかった。

◇ (第十八章 了) ◇

Спасибо за чтение

Вернуться к книге